少女は、ただ宛ても無く見上げている。 一糸纏わぬ姿で、何処へ行くでもなく空を漂いながら。 その眼は虚で、少しの光さえ映していない。 可憐で細いその手足には鎖がついていた。 否、そのようなモノが纏わり付いていた。 薄ぼんやりとしていて、明確な形を成していない。 そんな不安定極まりない、脆弱そうなソレは、その形容とは正反対に強固だった。 引き千切ろうと、精一杯に四肢を動かし、伸ばしても切れる気配が無い。 それでも、少女はその鎖から懸命に逃れようとしていた。 まるで、なにかを畏れているかのように。 一心不乱に鎖の切断に勤しんでいた少女は、急に身を強張らせた。 その体は、恐怖に震えていた。そしてゆっくりと、鎖を見る。 それは黒く、染まっていっていた。 水の中に絵の具を垂らして華を咲かせるように、ふわふわと力なく、しかし着実に浸食していく。 それを目の当たりにした途端、少女はいっそう激しく鎖を引き千切ろうとする。 しかしその頑強さの前には、全く歯が立たない。 畏れていたことが、起こった。 『――――――――ッ!!』 彼女の体に幾重にも巻かれた、『鎖』が完全に黒色に染まると同時に、少女の体は痙攣した。 まるで心臓に直接電撃を流されたように、大きく反り返る。 そして、『鎖』から何かが自分の中に侵入してくる様がはっきりと分かった。 腐敗物とも泥ともとれない、ワケの分からない汚物が自分の中に雪崩れ込んでくる。 その感触に、気が触れそうになる。 自分が、消えて無くなりそうになる。 そんな、色々なモノが自分の中に渦巻く最中、少女は微かに口を開いた。 『やめて、ねえ――――』 その言葉は、誰にも届かないのだ。 霧恵は、うっすらと目蓋を開けた。 いつもとは違う、さっぱりとした目覚めだった。 それは寝ているときに見た、いつもとは違った夢の所為だろうか。 不思議と違和感ではなく、親近感の湧く夢だった。 傍らにある目覚し時計を見ると、それはまだ六時前だった。しかし、一階の厨房からは調理のものと思わしき音が聞こえてくる。 英翔が朝早くから作っているのだろうか、と思い。ゆっくりと布団から身を起こす。 そして一瞬脳裏に、最悪の仮定が浮かんだ。 その途端、布団から一気に立ち上がると、滑り落ちるように階段を下りる。 ものの十秒もかからないうちに、霧恵は一階の店の厨房に駈けて来た。 そこには、最悪の結果がいた。 「あら?随分とお早いお目覚めね、初塚さん」 朝早くから朝食の準備をしていたのは、英翔ではなく。 昨日突然来たワケの分からない来訪者。香坂 貴子であった。 貴子がてきぱきと準備をしている姿を見て、霧恵のこめかみに青筋が走る。 「そ、それは私の仕事よ!私が英翔の朝ご飯作るんだから」 「貴方がここに来たのはせいぜい二・三日前でしょ、そんな分際で英翔の朝ご飯を作るだなんて、大した図々しさね」 「図々しいのはそっちでしょ、昨日突然上がりこんできたくせに!なんなの?英翔のこと好きなの!?」 「そうよ、好きよ。それがどうかした!」 「うっわショタコン、そんなんじゃ一生彼氏できないわよ」 「余計なお世話よ!アンタもどうせ英翔のこと好きなくせに、人のこと言えて!?」 「あ、あたしはただ、ストーカー撃退のために―――」 「それだけの理由じゃあ、『英翔の朝ご飯作る』なんていうことの動機にはならないでしょ!」 「あの―――・・・」 その声が聞こえると同時に、霧恵と貴子は一斉にその方に振り向いた。 そこには、まだ寝ぼけ眼で寝巻きを着たままの英翔が立っていた。 英翔には珍しく、その表情には不満の色が浮かんでいる。 「静かにしてもらえませんか、まだ朝早いんで・・・」 霧恵と貴子は同じように頭を下げた。 「ほんっとに、何なのよあの着物バカ!信じられない!」 霧恵は登校して自分の席に着くなり、憤慨した。 今日ももちろん英翔と一緒に登校したわけだが、その時でさえ霧恵の機嫌は悪いままだった。 そして、相変わらずにこにこしている英翔を半ば置いていくように小走りで学校までの道のりを歩いた。 その後をついていく英翔は、さぞ大変だったであろう。 「朝っぱらからなーに怒っちょるのかね、霧恵」 「別に、あんたには関係ないわよ」 話しかけてきた冬小に、霧恵はそっぽ向いた。 「あ、酷いなそれ。友達になら相談の一つでもしてちょうだいよ」 「・・・・・・・・それがさ」 そして霧恵は、昨日着た乱入者について語り始めた。 霧恵の憤懣も交えつつ、約十分近くも続いた。 「・・・・・・・・アンタも、なかなか大変だねえ。同情するよ、マヂ」 「もう、朝からほんとに疲れたわ」 霧恵がため息をつくと同時に、教室に担任が入ってきて、ホームルームが始まった。 授業中でさえ、霧恵の頭の中には貴子のことが残っていた。 私立なので、勉強内容は難しいのだが、霧恵はそれを片手間に受けている。 それでいて、彼女の成績には支障がない。 そのせいでよく冬小に、「イヤミな脳みそ」と呼ばれた覚えがある。 もう、お昼も間近に迫った四限目。 授業終了五分前というような、非常に微妙な時間帯に全校放送があった。 授業中に緊急を告げる放送のチャイムが鳴り、授業に集中していた生徒達が一斉にざわめく。 教師は、生徒達に落ち着くように、教壇から注意を促していた。 『えー、教育委員会から連絡があり本日の授業はお昼までです。四時間目が終り次第、生徒は速やかに帰宅してください。繰り返します・・・』 あまりに唐突な内容に戸惑う生徒と、今日は昼までと喜ぶ生徒が同時に声を上げる。 霧恵と冬小も、後者の叫びを上げていた。 そして四時間目の終了と共に、生徒達は午後からの自由時間に思いを馳せながら下校した。 霧恵も途中の駅まで冬小と一緒に帰り、その後は一人で帰った。 英翔がいない帰りは、いつもの静かな電車の空気に久々に気付いた。 「ただいまー」 店まで帰って来た霧恵は引き戸を開けた。 厨房では、彼女が初めてここに来たとき同様に、英翔が厨房に立って料理をしていた。 物凄い集中力で、霧恵が帰って来た事にすら気付いていない。 厨房前のカウンターにまわり、直接声をかける。 「なに作ってるんですか?」 「うわあ!」 急に話しかけたのが不味かったのか、英翔は相当驚いてしまったようだ、しかし手にもったフライパンは器用な事に落としていない。 「そんなにびっくりしますか・・・?」 「え、あ、お帰りなさい。すいません、気付かなくて。って、今日学校はもう終わったんですか?」 「はい、なんでも教育委員会の指示だそうです」 「それなら、なんで私を呼ばなかったんですか?直にでも学校に行ったのに」 心配そうな問いただす英翔に、霧恵はすいませんと頭を下げる。 しかし内心では、過保護すぎないか?などと思っていた。 「それで、一体なにを作ってるんですか?」 「これですか?チャーハンです。独学ですけどね」 「え!?これ誰にも習わずに作ってるんですか!」 「はい、本と睨み合いながらですけど」 「そんなの習って、一体どうするんです?」 「将来は、この店で本格的な中華料理屋を開きたいんですよ」 その、あまりにもストレートな答えに、霧恵は唖然とした。 それは、そんなささやかな願いを持った英翔の純粋さにか、それとも、話す彼の屈託の無い笑顔にか。 恐らく、両方。 今朝の香坂の言葉を思い出す。 『 アンタもどうせ英翔のこと好きなくせに 』 本当にそうなのだろうか。 本当に、自分は黒咲 英翔を『好きな人』として捉えているのだろうか。 霧恵にはそれが、違う気がしてならなかった。 けれど、惹かれているのは確かな事実。それだけは明確に認識できる。 問題は、自分を惹き付ける黒咲の『何か』なのである。 それが何であるか不明なうちは、自分は本当に彼を好いているとは言えない。 「どうしましたか?霧恵さん?」 「ふえ!?」 考え込んでいる自分の顔を、また英翔が何時の間にか覗き込んでいた。 霧恵は突然の出来事に対処不能に陥る。 「だいじょうぶですか、最近そういう風に考え込んでいること多いですよ?」 「・・・・・そうですか、でも、大丈夫ですから。本当に」 「そうですか、でも、いざって時は頼ってくださいね。蚊帳の外で、気付かずに終わっているなんてのは嫌ですから」 「はい・・・・・ありがとうございます」 苦笑しながら、英翔はそう言った。 その言葉が、霧恵は妙に嬉しかった。 自分のことを、こんなにも心配してくれる人がいる。そう思えるだけで、こうも気持ちが違うものか。 英翔は、自分がさっきまで振っていたフライパンの中のチャーハンを皿に移した。 店屋物のように、綺麗なドーム状とはいかないが、出来うる限り美味しそうに盛り付ける。 そしてそれにレンゲを添えて、カウンターに座っている霧恵に差し出した。 水も忘れずに入れる。 「どうぞ霧恵さん。お昼、まだなんでしょう?」 その問いに、霧恵は満面の笑みで答えた。 「はい、いただきます!」 「召し上がれ」 食器が、美味しそうにかちゃかちゃと音を立てる。 それを英翔は微笑みながら見守った。 卓越すぎる技術で作られた英翔のチャーハンを堪能したあと、霧恵は穏やかな午後を過ごした。 学校は急な休みだったので、いつものように無茶な宿題を出されることも無い。 何をするでもなく、布団の上にころがり、人肌の陽気を感じながらまどろむ。 そんな、安らかな時間。久しく味わっていなかった、時間をただ、無為に過ごす喜び。 それを陽気に当たりながら全身に、精一杯感じる。 あまりの安らぎに、霧恵は数年ぶりに昼寝をした。 目が覚めたのは、夕方遅く、一階の店の引き戸が引き戸が開く音でだった。 流石に寝すぎたと、軽い自己嫌悪になる。しかしすぐに気を取り直し、小走りで一階に下りた。 すると、そこには帰ってきたばかりの香坂 貴子の姿があった。 しかし、今の彼女は最初に見たときの凛とした雰囲気ではなく、全身から気だるそうなオーラを放っていた。 「あ〜〜・・・疲れた」 「だいじょうぶですか?相当疲れてるみたいですけど・・・」 あまりの状態の貴子に、英翔は心配そうに話し掛ける。 「うん、だいじょぶだいじょぶ。それより英翔、カナハラの爺さんが呼んでるよ」 「え―――?」 哉原。 その名が貴子の口から出た途端。英翔の思考は一瞬にして停止した。 「哉原の御老公が・・・・俺を・・・?」 英翔の言葉は、震えていた。 それは恐怖や怯えなどからくるものではなく、喜びや期待から来るものであった。 「そう、継承したいから今すぐ本部まで来いってね」 「・・・わ、分かりました」 少しふらつきながら、英翔はゆっくりと店の出入り口まで歩いていった。 「霧恵さん、晩御飯は冷蔵庫にありますから。お風呂もなるべく早く効率的に入っていてください」 「あ、はい・・・」 異常なまでに動揺している英翔の背中を、霧恵は不安そうに見送った。 一体何があるのかは知らないが、無事に帰ってきてほしい。そう思うばかりである。 そして、自分は結局は蚊帳の外なのだと言う事を、改めて痛感した。 「う〜、季節は暖かくても、気象的にはまだ寒いなー」 霧恵はバスタオルを体に巻いて風呂場に入ると、誰とでもなく呟いた。 一人暮らしをしていると、こういう変な癖がついてしまう。 標準的な広さの風呂なのだが、型がいささか古いのがたまに傷である。 勿論、家主である英翔の前ではそんなことは口が裂けても言えないが。 湯船からお湯を汲んで、かけ湯をすませる。 その後、自分のアパートから持参してきたシャンプーを使って髪を洗う。 数滴手の平に乗せて、既にシャワーで濡らしてある髪につけて泡立てる。 その時に、霧恵はシャンプーハットを忘れない。 子供っぽいという事は、使っている本人が一番分かっている。しかし苦手なのだ。 幼いころ、幾度となく眼に泡が入り、その度に死にそうな思いをした。 その苦痛たるや、軽くPTSDになるのではないかと本気で思った。 そして目をつむって髪を洗っていると、風呂場のドアの開く音がした。 ちゃんと閉めていなかったので、窓から入った風圧で開いてしまったのだろうか。 そう考えた矢先、不意に頭上から声が降ってきた。 「あんた・・・その年になってまでシャンプーハット使ってるの?」 「ふえ!?」 それは聞き間違おう筈が無い、香坂貴子の声であった。 「な、何なんですか――!?」 シャンプーの途中なので、霧恵の視覚は使用不可能だった。 相変わらず目をつむっていなければならない、もし開ければ泡が目に入るという、とんでもないリスクを負う事になる。 そんなどうしようもない状況の霧恵に、貴子は呆れた風にため息をついた。 「はい、もう泡流すよー」 「ういー、お願いしますー」 泡まみれの頭が、シャワーによって綺麗になる。 すっかり落ちると、霧恵はやっとシャンプーハットを外して目を開けた。 そこには、案の定バスタオル一枚を纏っただけの貴子の姿があった。 そんな姿の貴子は、体のラインがくっきりと浮かんでいた。 くびれたウエストに、ほど良い大きさのヒップ。なにより、胸。 霧恵は、自分の胸と貴子の胸を目測で比較する。 「ん?なに人の体見てるのよ、えっち」 「人が入っている途中にいきなり入ってくる人のほうがえっちだと思います」 「良いじゃん、英翔だって『早く効率的はいっとけ』って言ってたじゃない」 渋る霧恵に構わず、貴子はさっさと髪と体を洗った。 「ふいー・・・生き返るねぇ――――」 「せまい―――」 すっかり洗い終えた二人は、仲良く一緒に湯船に入っていた。 仲良くといっても、先に湯船に浸かっていた霧恵の横に、貴子が強引に割り込んだだけなのだが。 世辞でも広いとは言えない湯船に、二人同時は流石にキツイ。 直にオーバーヒートしそうになる。 そして、そんな状況下の中。霧恵は一つの疑問を抱いた。 「・・・・・香坂さんって・・・なんでKOTRTに入ったんですか?」 「――――――え?」 霧恵の唐突な質問に、貴子は目を点にした。 「私がKOTRTに入った理由?あんまり穏やかじゃなかったわね・・・」 貴子は、そう言って苦笑した。 彼女の表情は笑ってこそいたが、その裏にどんな感情が渦巻いているのかと思うと、霧恵は沈んだ気持ちになった。 考えてみれば、すぐにでも気付くことだった。 KOTRTに入る。それが意味するのは、決して明るいものではない。 決して、冗談にできるようなものではない。そんなこと、少しでも考えれば分かることではないか。 自分の浅はかさに、呆れる。 「私はね、仇討ちのため・・・・かな」 「仇討ち・・・?」 「うん、育ての親のね。私がまだ、小学校にもあがらないような頃に・・・殺されたの」 「・・・そんな」 「でもね、それはしょうがないことだったのよ。だって私の育ての親は、仇討ちをしようとして殺されたんだもの」 「――――ッ」 その事実に、霧恵は言葉を失った。 彼女は幼き日からずっと、育ての親の仇を討つために生きてきたのだと思うと、胸がつまる。 それは、どれほど暗く、寂しく、なんと報われない道であろうか。 想像するだけで、どうにかなりそうになる。 「でね、そっから先が笑えるのよ」 「へ?」 先の暗い雰囲気とは打って変って、貴子は明るい調子になった。 そのあまりに変貌に、霧恵は唖然とする。 「仇討とうと思って、KOTRTに入ったのよ私。その方が色々な情報が入ると思ってね。でね、入隊して隊員名簿見るじゃん?  あったのよ、そいつの名前が」 「そいつって・・・・仇の名前が!?」 「うん、最初見たときはホントに吃驚したよ。でさ、そん時の私は復讐に燃えててさ、喜んで首を取りに行ったの。  そしたら、仇の奴どうなってたと思う?」 「どうなってたんですか?死んでたんですか?」 「違う違う、そいつはね・・・病気なってたの、癌。それも末期の末期で、頭髪無くなるわ頬はこけるわで、すんごい悲惨な状態だったの」 「じ、じゃあ、その弱ってるところを・・・一思いに?」 「いいえ、私はその姿を見て・・・・馬鹿らしくなったの。復讐が。『こんな奴の為に人生を浪費してたのか』ってね」 「・・・・殺さなかったんですか?」 「ええ、殺さなかった。殺したから殺されて、そんな繰り返しじゃ不毛すぎるでしょ。だから私はそれを自らの手で断ち切ったの」 霧恵は、どう言葉を返していいのか分からなかった。 「・・・香坂さん、ごめんなさい」 「え?なに、急に?」 「あたし・・・香坂さんのこと誤解してました、香坂さんって本当は・・・すごい立派な人なんですね」 「・・・・そうでもないよ、私はだた人より血腥いところばっかり歩いてたから・・・そんな変な諦めみたいなモノができちゃっただけよ」 「そんなこと・・・そんなことないです。香坂さんは、あたしなんかよりよっぽど立派です、あたしなんかより」 「そうやって、自分を責めるのは良いとは言えないよ」 「すいません・・・でも、事実なんです」 「・・・ホント、あんたって子は頑固だね」 うつむく霧恵の頭に、貴子は優しく手をのせた。 湯船の水面が、水滴に揺れる。 「ただいまー、遅くなりましたー」 決まり文句と共に、英翔は店の引き戸を開けた。 そこには、カウンターで酒を煽っている貴子がいた。寝巻きにカーディガンという、寝酒を飲む典型スタイルでだ。 グラスに入った丸い氷と、酒をユラユラと弄びながら、その淡い茶色の水面を眺めている。 そんな様子の貴子を見て、英翔は満足したように微笑んだ。 「どうやら、少しは仲良くなったようですね」 「あんたって肝心なところ鈍いくせに、そういう変なとこ鋭いわよね・・・なんでかしら?」 「鈍いも何も、顔に書いてありますよ?」 「あらそう?じゃあ消しとかなきゃね・・・・・で、そっちの収穫は?」 貴子が訊ねると、英翔は表情を暗くした。 そして、背負っていた木箱を下ろす。 カウンターにそれを置くと、蓋を開けて、貴子に見えるように向けた。 その中に入っていたのは、一本の剣だった。 豪奢な装飾が施された、見事な一振り。錆びがきてはいるものの、それぐらいではこの剣の魅力は陰らない。 「・・・・なんだ、充分すぎるじゃない。英翔はこれで不満なの?」 「はい、私が欲しかったのは『凶つ月』で『凶つ王』ではありませんから・・・」 「あんたまだ『凶つ月』狙ってたの?あれは無理だって何度言えば分かるの、カナハラのご老体が孫に譲るって、あれほど言ってたじゃない」 「そうですね、でも・・・私はアレが欲しかったんです。どうしても」 「まさか、まだ『凶つ月』のレプリカとか使ってるわけ?」 「はい、ずっと愛用してます」 「・・・・呆れた。確かに性能が良いのは分かるけど、偽神葬具に愛着なんてもっても無意味よ」 「・・・わかっています。けど、あれだけは諦めきれないんです」 そう呟く英翔の表情は、真剣だった。 それほどまでに、彼の『凶つ月』への想いは頑ななのだ。 「香坂さん・・・そろそろ教えてくれませんか?なんで急に私の所に来たのか、なんで今の時期に偽神葬具の継承が行われたのか」 「本当に、そういうところは鋭いわね・・・」 貴子は観念したように、やれやれと首を振る。 「私が今回ここに来たのは、貴方にエクス・カリバーンの使用指導をするため」 「それだけじゃあ・・・はいはずです」 「・・・来月に開かれる国連主催の非公開兵器プレゼンの護衛。そして、そのプレゼン会場にテロリストからの犯行予告が届いたことを伝えるため」 「・・・そのプレゼンって、確かどこかの自衛隊駐屯地にある大深度地下施設で開催されるはずじゃありませんでしたか?」 「ええ、確かにそのプレゼンはジオ・フロントで催されるわ。でも、そのテロリストが別脈種なら話は別じゃない?」 「――――ッ!?」 貴子の最後の言葉に、英翔は思わず椅子から立ち上がった。 動揺を隠せない英翔に構わず、貴子は先ほどまで酒が満たされていたボトルとグラスをカウンター越しに流し台に置いた。 そしてさらに貴子は店の端と隣接する居住スペースへの入り口に向かい、英翔からすたすたと歩き去ろうとする。 その背中は、一度も振り返ることなく去っていった。 英翔は堪りかねた様に、拳をテーブルに打ちつけた。 その日、霧恵は夢を見なかった。 深い、暗い、静かな眠りの海で漂っていたのだろう。 故に、今日の目覚めも爽やかだった。 目覚ましは、霧恵の正確な目覚めに、その役目をなかなか果たせずにいる。 ゆっくりと、上体を布団から起こす。 窓からは、朝の日差しが存分に差し込んでいる。 今日は、一階の厨房からは何も音が届いて来なかった。 霧恵は、優越感を感じながら、鼻歌交じりで階段をスキップ調で下りた。 一階店に、ひょこっと顔を出すと、そこには既にカウンターに陣取っている香坂の姿があった。 香坂は霧恵が下りてきたのに気付くと、カウンターのテーブルに引き広げていた新聞から目を離した。 「なにぼけっと突っ立ってるの?」 きつい口調で霧恵にそう告げると、香坂は誰もいない厨房を指差した。 「貴方の、仕事なんでしょ?なら早く作ってちょうだい」 「・・・・はい!」 霧恵は一瞬呆気に取られたが、すぐに元気よく返事をした。 小走りで厨房に向かった、その際にカウンターの椅子にかけっぱなしのエプロンを掴む。 素早くエプロンを装着すると、霧恵は調理を開始した。 「まあ、自分から作りたいって言い出すだけのことはあるわね。結構美味しかったわよ」 「えへへ・・・ありがとうございます」 霧恵の作った朝食をすっかり食べ終え、寛いでいた香坂は感想を述べた。 意外と素直な感想だったので、霧恵は少し驚いたが、その驚きもすぐに喜びに変わった。 「黒咲さん、起きてきませんね・・・」 「ああ、英翔は昨日遅くまで起きてたみたいだから、多分午前中には起きれないでしょ」 「・・・どうするんだろう」 その異様な霧恵の心配は、学校の登下校の付き添いのことだった。 いつもは英翔が一緒に登校してくれるので、登下校に不安を感じることは無かった。 しかしそれが、急に無くなるとなると、不安は一気に膨れ上がった。 「それなら、私がついて行ってあげようか?」 冗談交じりに香坂が提案する。 「結構です、子供じゃないんだから、それぐらい大丈夫です」 「はいはい、そんじゃあ行ってらっしゃい」 香坂が唸りながら朝食を食しているうちに、霧恵は登校する準備をすっかり終えていた。 「いってきまーす」 「ん、いってらっしゃい」 引き戸を開けると、霧恵は颯爽と駅に向かって走っていった。 その背中に、香坂はひらひらと手を振った。 「ふあぁ〜・・・お早うございます・・・」 「お早う、英翔。早く顔を洗ってきなさい」 霧恵が学校に出かけて十数分後に、英翔はのそのそと起きてきた。 英翔は相変わらず朝に弱いので、起きて来た今も脳は三十パーセントも働いていないだろう。 厨房の流し台で、英翔は豪快に顔を洗う。周りに水が飛ぶことなど全く気にしていない。 「ほら、霧恵ちゃんが朝ごはん作ってくれたから、さっさと食べなさい」 「・・・・・・霧恵さんは?」 「もうとっくの昔に学校に行ったわよ」 「な―――ッ!?」 寝ぼけ眼が一気に覚醒する。 「なんで・・・なんで彼女を一人で行かせたんですか!?」 「何でって言われても・・・いくらあの子がストーカーに狙われてるからって、過保護すぎるわよ英翔。 そんなに霧恵ちゃんの事が心配なの?」 「当たり前でしょう・・・彼女は、もしかしたら・・・!」 「もしかしたら?」 「・・・・ストーカーを・・・・・殺すかもしれない・・・!」 苦渋の表情で、英翔は絞るようにそう言った。 その言葉に、貴子は頭を傾げる。 「あの子が、ストーカーを・・・・殺す?逆じゃないの?」 「違います・・・!あの子は―――――」 英翔がそこまで言うと同時に、空気が重みを増した。 比喩ではなく、本当に増した。 まるで空気全てを鉛に換えたように、身体全体に重圧がかかる。 その息苦しさと不快さから、立っていられなくなる。 「・・・・・これは、最適化!?一体誰が――――」 貴子が言葉に詰まる。 表情は、驚愕に凍り付いていた。 英翔は、最後まで言っていない言葉に頷く。 「はい・・・これが彼女の・・・初塚霧恵の力です・・・!」 「まさか、そんな!こんな広域をこんな濃密な内気で最適化するなんて・・・不可能だわ!」 「確かにそうですけど、今はそんなことを言い争ってる場合じゃありません!」 戸惑い、縛り付ける空気に膝を折っている貴子に構わず、英翔は外へ飛び出した。 その瞬間、店の中とは比べ物にならない重圧が英翔の全身を包む。 霊的感応力の高い英翔や貴子は、極度の最適化を感知すると、それがそのまま身体への負担となる。 故に一般人は平気だが、別脈種にはとんでもない負荷となる。 「あ、ちょっと!待ちなさい英翔!もうあの馬鹿!!」 店内に一人残された貴子は毒づくと、急いで二階に駆け上がった。 英翔や貴子が異常を感知する数分前、霧恵は学校の最寄の駅のホームを出た。 周りには、ちらほらと登校する生徒の姿が見える。 霧恵も、余裕はあるが、急ぎ足で学校まで向かおうとした。 その時だった。 「おい」 「え―――?」 急に呼び止められた霧恵は、後ろを振り向こうとした。 しかし、それは叶わなかった。 振り向く前に、後頭部を衝撃が襲った。 「おっと」 ゆっくりと前に倒れる霧恵の体を、高屋克己は抱えた。 周りには数人の登校する生徒がいるが、高屋はそれに構っている様子は無かった。 白昼堂々、霧恵の後頭部を殴打すると、そのまま学校とは正反対の、市街地にほうに向かって歩いていった。 周りの生徒は、当然それに気付いていたが、それを咎めるものも、気にかける者もいない。 それほど、高屋の影響力は強かったのだ。 駅前は、いつもと違わぬ様子を見せいていた。 普段は学校帰りの生徒で賑わう繁華街の路地裏に霧恵を寝かせると、高屋は馬乗りする。 気絶している霧恵は、完全な無防備状態にある。 (ふん・・・この僕をコケ扱いするからこんな目に遭うんだよ、初塚) 不敵に微笑むと、高屋は霧恵の制服に手をかけた。 学校指定の制服を、慣れた手つきで脱がす。 ブラウスまで行き着くと、ボタンを引き千切るように前を開けた。 下着と、肌が露出する。 「・・・・さて、何処から汚してやろうか、初塚?」 狂喜を浮かべた高屋は、霧恵の唇に、己の口唇を近づける。 しかし、それは交わることは無かった。 「え――――?」 気が付けば、自分の体が宙を舞っていた。 そのあまりに急な事実に、思考が停止する。 何故自分は飛んでいるのか? 何故急に初塚から引き離れたのか? 何故、後頭部を鷲掴まれている感覚があるのか? そんなことを、答えてくれる者が居ないと知りつつ思った。 しかし疑問は、背中を襲った激しい衝撃に掻き消された。 背中を電流の如く走りぬける痛みで、自分は宙を舞った後、背中から落下したのだと悟る。 問題は、誰が自分を宙に舞わせたかだ。 高屋には、おおよそ検討がついていた。それは誰でもない、ここ数日霧恵と一緒にいたあのジャージ野郎だろう。 確信に近い自分の予想に従い、高屋は痛む体に鞭打ち、なんとか体を起こした。 そこには、高屋の予想とは全くかけ離れたモノがあった。 高屋が見据えた先には、黒い球体があった。 直径は二メートルほどもありそうな、大きな球体があった。しかもそれは、何の支えもなく空中に静止したように浮いている。 そのあまりに異質で異様な光景に、高屋は動くことが出来なかった。 否、動けなかった。 何故か、恐怖のような、強迫観念に近い、そんな焦りと感情が高屋を縛り付けた。 それが動物的本能による逃避衝動だということに、本人は気付いていない。 みしり。 樹齢四桁をいきそうな大木がへし折れる様な、腹の底に響く、重く鈍い音がなった。 最初、それが何処から発せられているのか高屋には皆目検討がつかなかったが、二回目の音でようやく気付いた。 その、耳を塞いでも響いてくるような軋む音は、目の前の空中に静止している黒い球体からでていた。 音がでる度に、球体には変化が表れた。 みしりみしり、と音を立てていると、球体から唐突に、あるモノが生えてきた。 それが、『足』だということに気付くのに、高屋はさらに数分を要した。 次々と起こる事態に、対処できない。常識から、あまりに逸脱した光景が目の前で繰り広げられている。 しかも生えてきた『足』は、黒い球体のその滑らかさに似合わない、まるで甲虫のような、ごつごつとしたモノだった。 すると、矢継ぎ早に、さらに三本の『足』が生えてきた。 それぞれが、最初に生えてきたもの同様、甲虫のような、節くれだった様な、生理的嫌悪感を誘う形状だった。 黒い球体の変化は、それだけに留まらなかった。 球体に、まるで直径を計るような、球の端から端を結ぶ赤い直線が浮かんだ。 その直線は、生肉を引き千切る、生ぬるい、鳥肌がたつような音をあげた。 線は、ゆっくりと開き、開口した。 それは、誰が見ても如実にわかる器官、『口』だった。 おまけに、その口の形状は、あまりにも人間のそれと酷似している。 中から覗く歯も、肉食獣のように鋭いものではなく、人間のように平たいものだった。 それが余計に、見るものの嫌悪感を増幅させる。 かくして、宙に浮いた黒い球体は、四本の虫のような足を垂らし、球体に横一文字に走る口ができた。 条件的には、それを生物のような形をしているといってよいのだろう。 だが目の前にあるそれは、『生物』と呼ぶには、あまりにかけ離れていて、あまりに近かった。 最後には、黒い球体の生物背中にあたる部分から、勢い良く、白いものが飛び出してきた。 神話などに登場する、神やその使いなどが背に冠する、神聖の象徴ともいえるモノ。 それは、一点の穢れもない、純白の翼だった。その大きさは、黒い生物には不釣合いなほど大きなものだった。 醜い黒き生物には、あまりにそぐわない。 神聖と神秘のただよう、その白き翼。 高屋は、その相反する二つが、見事に調和しているかのように見えた。 悪魔のような体躯に、天使の翼を携えた、人智の外の生物。 その背徳的な神々しさを孕んだ生物に見入ったまま、高屋は絶命した。 彼の目に映った光景は、自分の首を飲み込んだ生物の口の中だった。 頬に、なにかが滴っている。 そんな感触に、霧恵は目を覚ました。 うっすらと目を開けると、自分が路地裏のような所に寝かされているということが覗える。 頬には、以前なにかが滴っていた。その液体に、霧恵は、そっと手を添える。 ぬるりとした感触を、指先が覚えた。 指先についたものを、自分の目先に近づけて、凝視した。 それは、紅かった。 決して綺麗な赤ではなかった、黒く濁っている。 その液体から漂ってくる匂いで、霧恵はそれが何たるかがすぐに判別できた。 鼻に纏わりついて離れない、濃密な鉄分の匂い。 「血だ――――――」 さも当然のように、動じることなく冷静に、その液体の名を口にする。 それが、いったい何処から、一体誰から流れ落ちてきたモノなのか、考えもしなかった。 ただ、自分の周りに散乱している血の量が、いやに多いな思っただけであった。 そんな自分の周りに拡がる血溜まりから、結ヱの死んだときの光景を連想しただけであった。 あの時も、こんな風に大量の血が飛び散っていた。 拭うことさえ叶わないような、濃い鉄の匂いも充満していた。 まるで、結ヱが死んだ時に戻ったような、そんな錯覚が霧恵を襲う。 突然、霧恵の目の前の血溜まりに、何かが落ちてきた。 それなりに深さのある血の密集に、それは派手に落下した。 血が、四方に、びしゃびしゃと飛び散る。 跳ね上がった血などで、落下してきた何かは、すっかり赤色に染まっていた。 しかしそんな形からでも、それが本来何だったのかは分かった。 人間の、腕だ。 鈍くまどろんでいた思考が、一気に覚醒する。 なぜ自分はこんな血だらけの場所で倒れているのか。 なぜ急に目の前に、人間の腕が落ちてきたのか。 思考の中で疑問が衝突し、パニック状態を起こす。 「ギイィ・・・」 突然、霧恵の遥か頭上で、まるで硝子を引っ掻くような音がした。 霧恵が見上げると、そこには、人間の今まで積み上げてきたモノを、突き崩すようなモノがいた。 黒い球体に、取って付けた様な、甲虫のような足。球面にくっきりと浮かんだ、人間のような口。 さらにその背中には、その醜い姿とは正反対の、一点の穢れもない大きな純白の翼。 そして、その生物の口には、肉塊が咥えられているのが、遠目でも確認できた。 そこから、先ほどの血と腕が落下してきたのだと分かる。 頭上の生物はゆっくりと口を開くと、咥えていた肉塊を無造作に落とした。 霧恵の目の前に、その肉塊は、べしゃりと、さらに血と肉を撒き散らしながら落下した。 そんな無惨な状態になっている肉塊は、奇跡的に、その首から上が残っていた。 死に顔。霧恵はそれを生まれて初めて見た、そして、それが想像を絶するおぞましきものだと理解した。 表情を形作る筋肉は、全てが恐怖に引きつり。 眼球は白目を向き、目尻からは大量の涙が零れた跡がある。 口は堅く結ばれていたが、端からは泡となった唾液が噴出している。 そして、その全体は己から出た紅き顔料で、鮮やかな死化粧を彩られていた。 だが、霧恵はそこから、これが一体誰の死体であるかが一瞬の内に分かった。 自分を追い掛け回していた張本人、高屋克己であった。 今は、動かない、無惨な骸と成り下がっている。 あまりの光景に、霧恵は口を両手で押さえたまま、絶叫することすらできなかった。 ふっと、霧恵の視界に影が下りる。 それは霧恵の頭上から降り立った、あの黒い生物だった。 生物は、着地と同時に、高屋の頭蓋と肉片を踏み潰した。 だが踏み潰された頭蓋からは、さほど大量の血は出なかった。代わりに、大量の脳みそが四散した。 「ギキキ・・・キィ」 硝子を掻く音は、黒い生物の喉から発せられている。奇怪極まりない、その鳴き声。 黒い生物は霧恵の目の前にまで近づくと、その二メートル近い巨体に横一文字に走った口を開けた。 人間のものと全く同じ。それが、恐怖を引き立たせる。 喰われる。そう覚悟した。 しかし、現実はもっと残酷だった。 目一杯開かれた生物の口は、奥まで良く見えた。 霧恵は、恐怖に震えながら、その奥を見た。 そして、奥にあるものに首を傾げた。 黒い生物の喉の奥には、少女の顔が上半分、上目使いでこちらも見据えていた。 その少女の顔を見た途端、霧恵の思考が本当に凍る。 それは霧恵が、その顔に、あまりに多くの感傷を抱いていたからだ。 何度も夢に出て来た、幼き日に分かれた、妹。 結ヱの顔が、生物の喉奥深くに埋没していた。 咄嗟に叫んでいた。 「結ヱッ!!」 噛み千切られるなどという事など考えもせずに、霧恵は生物の口の中に腕を突っ込んだ。 そしてその奥に埋まっている、結ヱに手を伸ばす。 「なんで、なんであなたがそんな所にいるの!?どうして、ねえ、戻ってきて!結ヱ!!」 無情にも、黒い生物は霧恵の手を、舌で口の中から追い出した。 そして素早く口を閉じられてしまう。 「返して、その子を返して、お願い!」 霧恵の懇願の声が、路地裏に虚しく霧散した。
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