規則的で、普遍的な音を奏でながら電車は進んでいた。
色々な人が、色々な顔をして、色々なことを考えている。電車は、そんな色々を無視するように進む。
電車や線路などは、良く人の人生などに喩えられる。
『レールの敷かれた人生』
『一生という名の列車』
様々な喩えがある。
これには、もう一つ別の意味を見出すことも出来る。
人間は、一生孤独だという事が。
いくら人と関わっていても、その本質的な孤独は癒されない。
ホンモノの電車と同じだ、同じ列車、座席に座っていても関わりなど無い。
語り合う、触れ合う、微笑みを交し合う。そんなことなど何一つ無い。
それは単なる――――――。
座席の下からの振動は、相も変わらず単調である。
その振動上にある電車内で、初塚 霧恵は読んでいた小説を閉じた。何回も読み返したことがあるこの本だが、当の本人はその内容がさっぱり理解できなかった。
しかし、そんな彼女にも唯一理解できる所がある。
『人間は、一生孤独だという事が』
彼女は、この部分を見るためにこの本を何回も読み返していると言っても過言ではない。
そう、孤独を彼女は日常的に感じていた。
絶対に満たされることの無い、癒えることのない、潤うことのない、心という名の体に穿たれた鎖。
しかし、彼女は嘲笑した。
私が『人間』――――?
なにを馬鹿な事を。
自分のことを、彼女は本気で嘲笑っていた。
それほどに、彼女が自分のことを『人間』と称するのが滑稽だった。
事実、彼女は厳密には人ではなかった。
―――こんな、化け物じみた種族。別脈種の家系に生まれておいて。今さら何を言うのか。
別脈種。
それは人類が太古から模索してきた、全く新たな進化の形態。そう言われている。
それらは全て、人ならざる力を持っている。彼らの中枢神経に秘められた特殊なモノ、変換式。
彼ら別脈種を、人外的なものと決定付けるモノだ。そこから発せられる『内気(オド)』、それを行使することにより彼らは様々な力を得る。
別脈種は、羅種と賢種とに大きく二分される。
羅種。変換式から発せられる内気を身体能力の強化に使い、突出した固有能力を保有している。
だが、彼らの変換式は賢種のそれに比べて規模が小さい。だが固有能力の威力はそれを充分に埋め合わせる力を持っている。
賢種。羅種に比べて規模の大きい変換式を持っている、そして彼らはその内気を身体能力の強化に使うのではなく。錬精術と呼ばれる術の行使のために使う。
現在、日本国内には約1400種の別脈種がいるといわれている。これは地球上に分布する別脈種の約七割と占めるというかなりの数である。
故に別脈種大国である日本には対別脈種特務隊、通称「K.O.T.R.T」と呼ばれるものまで組織されている。
その他にも平安時代から続く別脈種討伐機関「僧会」や、日本国外に唯一存在する別脈種統治機関「学院」などもある。
そしてそれら全ては、長きにわたって一度も歴史の表舞台に立つことなく今までその存在を隠し続けてきたのである。
その他にも、「御三家」と呼ばれる別脈種の大家がある。この三家は長きに渡って世界から隠れ、支配していた。
というのを、昔彼女は両親から聞いたことがあった。
確かに彼女は別脈種であったが、生活は一般人となんら変わりは無かった。
何か特殊な術や格闘技を習うでもなく、普通に生きてきた。
その理由は彼女には別脈種の、賢種としての、羅種としての才能も無かったからである。幼き日に少しだけ習った記憶があるが、一度として成功した覚えはない。
それが、彼女にはさらならコンプレックスとしてのしかかった。別脈種としても、人間としても、どちらにも成りきれない半端者。
しかし、その事実は親族以外には一切漏れていない。だから、学校や近所で彼女を蔑む者はいない。むしろ良い子だと褒められているぐらいだ。
だが、彼女は周囲との決定的な溝を感じずにはいられなかった。
違う、わたしだけ違う―――――。
完全に人間になりきれることなどできない。
かといって別脈種になりきることもできない。
違う。『違い』―――。
故に、霧恵は孤独だった。
親類とも一緒になりきれない。
世間・周囲とも一緒になりきれない。
完全に理解し合える者など、だれ一人としていない。
そう考えているうちに、電車はいつの間にか目的の駅に到着していた。
閉まりそうになるドアを急いで掻い潜り、霧恵は電車内を後にした。
彼女の家に帰るための駅は、まだ大分先だ。しかし、霧恵はここで降りた。
そして今日の昼休みに友達に書いてもらったメモを見ながら、駅の切符売り場近くにある掲示板を探した。
今でこそあまり見かけない駅の掲示板だが、まだ携帯電話が普及する前は良く活用されていた。
ショルダーホンすら見たことの無い霧恵にとって、駅の掲示板は身近なものだった。
そして彼女は友人のメモに書いてあるモノを、掲示板内に探した。
そのメモにはこう書かれていた。
『何でも屋、「all things(株)」、いつも××駅の掲示板の端っこに書いてあるよ』
という風に、女の子らしい丸い文字で書かれている。
そして霧恵はさして苦労することなく、目的の書き込みを見つけた。
それは本当に、「all things(株)」と掲示板の隅に書き殴られていた。そしてその下には店までの簡易的な地図が書かれている。
霧恵はそれを自前のメモ帳に書き写すと、その店まで道のりを急いだ。
駅を出て、その向かいを通っている大通りを南に信号三回。
三回目の信号の直先に、『パパラッチ屋』というパン屋の横にある裏路地に入る。
そこの路地を、左、左、右、上、三歩、左、と書いてある通りに霧恵は進む。
すると、古びた下町のようなところに出た。
電柱は木製で、並んでいる家屋も一世代前のものばかりである。道路はアスファルトで整地されていない状態で、駄菓子屋や銭湯なども見受けられる。
そこから先の地図は、書いていなかった。
霧恵は、しばし途方に暮れたが、それもすぐに解決した。
その店は、路地から出てきた自分の目の前にずっとあった。
彼女の目の前には、「大将軒」という文字が看板に大きく書かれたラーメン屋があった。
しかし、その「大将軒」の文字の上に、赤いスプレーで強引に文字が上書きされていた。
「all things(株)」と。
霧恵は、その色んな意味で強引すぎる看板にしばし呆然としたが、すぐに気を取り直した。
彼女は、今後の高校生活の安泰の為にも、こんなところで立ち止まっているわけにはいかないのだ。
意を決すると、霧恵はラーメン屋もとい何でも屋の、古いタイプの引き戸を開けた。
扉を開けた瞬間、彼女の鼻腔を物凄い匂いが突いた。
物凄い匂いといっても刺激臭ではなく、料理などに使う香辛料などの匂いである。
何でも屋の中は、ラーメン屋の内装をそのまま流用したものだった。改装した様子がまったくない。
食べ物屋特有のカウンターテーブルや、普通の個別テーブルなどがそのまま置いてある。
おまけにレジもそのままの状態である。
そのラーメン屋の趣をそのまま残した店内のカウンター向かいの厨房に、ある一人の男がいた。
彼はフライパンを一心に振るい、何か料理を作っている途中だった。先の香辛料の正体はきっとこれだろう。
霧恵は再び呆然とした、何でも屋に来たつもりが、中にいたのは厨房で料理をしている男である。
しかし、理由はそれだけではなかった。
それは、その料理をしている男性があまりに眉目秀麗だったからである。
服装は上下黒のジャージという、何とも言い難いセンスだが。その容姿は例え同性でも見惚れてしまう美しさだった。
その前には、テレビなどに出ているアイドル等は比べ物にならない。
そうして霧恵が立ち呆けていると、料理をしていた男性がこちらに気付いた。
「あ、お客さん?ごめん気付かなかったや・・・」
男性はそう言うが早いか、コンロの火を消すとジャージの上から着ていたエプロンを外して厨房から出てきた。
服装のセンスは先も述べたとおり、少し苦しいものがあるが。その容姿は本当に美しかった。
そんな男性が間近に寄ってきたので、霧恵の心拍数は一気に跳ね上がった。
(うわ、なんかすごいカッコイイ人が出てきた・・・!)
戸惑う霧恵に気付かず、男性は彼女と目と鼻の先の距離まで近づいてきた。
「いやーすいません、料理の練習してるとつい集中してしまって。で、なんの御依頼ですか?」
「え!?あ、ははい!」
赤面し、ギクシャクした動作で霧恵は返事をする。
「まあ、立ち話もなんですし。この椅子にでも座ってください」
「は、はい。ありがとうございます・・・・」
男性はカウンタテーブルの椅子を引っ張り出すと、霧恵に座るように勧めた。
その差し出された椅子に、またもギクシャクしながら霧恵は座った。
まさかこんな上玉な男が出てくるとは、霧恵は夢にも思っていなかった。
この店を紹介してくれた友人に心の中で感謝する、が。
こんなカッコイイ人が経営していることを教えてくれなかった友達を恨んでもいた。
全くの予期せぬ事態だったので、完全に気が動転してしまったではないか。
椅子に座って、おずおずしながら霧恵は質問した。
「あの・・・ここって本当に『何でも屋』なんですよね?」
「ええ一応は、あんな適当な看板でこんな内装してますけれど。ここはちゃんとした『何でも屋』ですよ」
霧恵の、ちょっと失礼感が拭えない質問に男性は笑顔で答える。
そして今度は彼が質問してきた。
「で、ご依頼はなんですか?私の実行できる範囲内でしたら引き受けますが?」
「あ、はい・・・その―――――――――」
そうして、霧恵は男性に今困っていることを話した。
それはいま彼女に、付き纏っている男がいる。つまりストーカーがいるということである。
以前は下校中に後をつけてくる程度だったが、最近では家の近くをうろつく様になったり。
自宅のチャイムをいたずらに押す等、その行為がエスカレートしている。彼女は一人暮らしの身なので、すぐに警察にも相談した。
しかし実害がなければこちらから手出しは出来ないと断られてしまった。
両親には、無駄な心配と苦労をかけたくないので言っていない。
「・・・・それだけの内容なら、別にうちの店を頼らなくても良かったのでは?」
男性は、相変わらず笑顔で返してきた。
しかし、本当に厄介なところは別にあった。
霧恵は鞄の中から、一枚の写真を取り出した。そこには、例のストーカーが写っていた。
それを『何でも屋』の店主に見せる。
その他にも、そのストーカーの経歴や名前などを書いた紙も一緒に出す。
それを見ると、男性は納得したように呆然とした。
その写真に写っていたのは、アイドルではなかろうかというほど容姿の整った男が写っていた。
あまりに整った、男として格好の良い顔立ちからは、彼がストーカーの犯人だという事などとても思えない。
「顔だけじゃありません。その人、私が通っている高校の先輩なんです。成績や先生・生徒の間での評判も良くて、
だから私が何を言っても誰も取り合ってくれないんです。『彼がそんな事をするはずがない』って」
「う〜ん・・・」
成績の良さなどは、霧恵が持ち寄った資料からでも分かった。
男性は、唸り声を上げながら写真を見つめている。
「だから、なんとかして彼が犯人だっていう決定的な物を見つけてくれませんか?お願いします」
「・・・・いいでしょう」
男性のその言葉に、霧恵の表情がぱっと明るくなる。
写真を手にとると、男性は頭を掻いた。
「うちは本来は暴力沙汰を主にとりあってるんですが、まあこんな仕事もたまには良いもんでしょう」
「あ、ありがとうございます!」
「いえいえ」
男性は謙遜気味な返事をする。
「それで、あのお代はいくらぐらいですか?」
「え?ああ、お金のことなら心配要りませんよ。うちは全部千円って決めてあるんで」
「はい?」
「だから、報酬はいつも千円で受けてるって言ったんです」
その言葉に、霧恵は再々たび呆然とする。
報酬がたった千円では、店の経営も生活も成り立たないのは明確だ。
「な、なんでそんなお安いですか?」
「ああ、この店は私が副業でやってるお遊びみたいな物ですから。あ、だからたまに本業の都合上依頼を途中で中断することもありますが、ご了承ください」
「はい・・・」
「それとこの紙に住所とか電話番号とか諸々のことを書いてくれませんか?」
「わ、わかりました」
男性から手渡され紙に、霧恵は下宿先のアパートの住所を書き、電話番号も一緒に書く。
終えると、その紙を男性に渡した。
それを受け取ると男性は椅子から立ち上がると、思いっきり伸びをした。
そして一拍置いたあとに、ポケットの中に手を突っ込むと名刺入れを取り出し、その中から一枚取り出す。
「じゃあ契約成立ってことで、必ず犯人の尻尾を捕まえて見せますよ。はいこれ名刺」
「あ、すいませ――――――」
受け取ったその名刺に書いてある名前を見て、霧恵は凍りついた。
名刺に書かれたその名前は彼女にとって、否、彼らにとって畏怖の対象に他ならなかった。
「この名前・・・?」
「え、私の名前。「黒咲 英翔」がどうかしましたか?」
黒咲。
それは別脈種の中でも名門の一つに数えられる。
「御三家」には及ばないものの、その力は他の別脈種の家系を大きく上回る。
そして当代の当主「黒咲 英翔」は「両極」であると、霧恵は昔聞いたことがあった。
両極とは、賢種と羅種の特性を兼ね備えている別脈種にのみ与えられる称号である。
それが持つ変換式は「上級賢種」をも超越し、その身体能力は「内気」で強化する必要がないほどに優れている。
霧恵は、さらにもう一つ聞いたことがある。
「黒咲」の当代の当主は、別脈種を狩る組織。「KOTRT」に属していると。
それがさす意味―――――。
「ああ、もしかしてあなた別脈種だったんですか?」
「!?」
さも当然のように、黒咲 英翔は霧恵に訊ねた。
その問いに、霧恵は後ず去って答える。
「別に大丈夫ですよ、あなたが別脈種でも私はなにもしませんから」
「でも、あなたはKOTRTに所属してるんでしょ?私を捕まえなくていいの?」
「ええ、あなたの記録がKOTRTのデータベースに載っていれば捕縛する必要はありません。ということで名前を教えてくれませんか?」
一瞬の逡巡のあとに、霧恵はゆっくりと口を開いた。
「私の名前は、初塚。初塚 霧恵です・・・」
「ちょっと待ってくださいね」
黒咲はレジに向かうと、本来はお金を入れるべき引き出しから黒色の端末を引っ張り出してきた。
それは、手の平に乗るほどのサイズであった。
そしてコンソールらしきもので、端末に霧恵の名前を入力する。
「あれ、おかしいな?たしかに君は別脈種だけど、君の家系は別脈種としてはもう途絶えているね」
「え?」
「うん、君からはほんの微量の「内気」は感じるんだけど。おかしいな、途絶えたら普通微量な「内気」でさえも感じないはずなんだけど・・・」
そんなことを言われても、霧恵には答えようがなかった。
それ以前に、彼女は自分の家が別脈種として途絶えているとことすら知らなかった。
その事実を知った途端、急に渇いた笑いが心の中に込み上げる。
親族は、本当は『人間』だった。別脈種としてはなりきれなかったが、彼女は別脈種には違いなかった。
それが、自分と親族を繋ぐ唯一のものだと霧恵は思っていた。
しかしそんなつながりは、たった今無情にも一瞬で崩れ去った。
「大丈夫ですか」
「はい!?」
うなだれているといつの間にか、黒咲が自分の顔を覗き込んでいた。
しかもそれはもう少しで鼻息がかかりそうな距離だった。心音が高速化する。
「あああ、はい!大丈夫です、問題ありません、万事オッケーです!!」
「そう?ならいいんだけど。名刺に電話番号書いてあるから困ったときはかけてね」
「わかりました・・・!」
霧恵は慌てふためきながら答える。
あまり男性と関わったことのない霧恵にとって、男性の顔が近づくという事は滅多に経験しないことだ。
そのままかくかくとした動きで、霧恵は「all things」を後にした。
外に出ると、もう陽が傾いでいた。
あたりにほのかな朱色が射し始める。
オレンジに染まっていく帰路を、霧恵は細々とした足取りで進んでいく。
彼女はまさか、あんな店に大家の現当主がいるとは夢にも思わなかったからだ。
(あんな有名な家の人ってことは、錬精術とかもすごいんだろうなあ・・・)
そう思いながら、霧恵は自分の両手を眺めた。
彼女は、賢種としてなんの才能も持たなかった。人並みに錬精術をこなす事など夢のまた夢であった。
だが、彼女が錬精術の実力に拘るのには理由があった。それは。
(あたしよりも、あの子の方が上手だったのにな・・・)
すると霧恵の表情は沈痛なもになった。
まるで、なにかの咎を悔いているような面持ちだった。
そのままうなだれて歩いていると、不意に何かにぶつかった。
霧恵は驚いて顔を上げると、ある人物が立っていた。顔は逆光で判別できない。
だが彼女は自分が人にぶつかったのだということに、やっと気付いた。
「す、すいません。よそ見してて・・・」
「べつにいいよ、初塚 霧恵さん」
「え――――――――?」
霧恵の思考が止まる。
彼女がぶつかった人が、いま自分をおいかけているストーカーだったからだ。
逆光の中で、記憶が手伝ってそのストーカーの貌が浮かぶ。
「あ、高屋先輩・・・」
怯えた声で、霧恵は件のストーカー、高屋 克己の名前を口にする。
それと同時に、高屋は霧恵の両肩を掴むと道路脇の民家の塀に彼女を押し付けた。
その衝撃に霧恵は小さな悲鳴を漏らす。
「下校途中に、最近噂のあの『何でも屋』でなにをしていたのかな?君は」
「せ、先輩が、これ以上私に付きまとわない様に相談してただけです」
「おいおい・・・人聞きの悪いことを言うなよ、僕は君を見守っているだけさ。そんな風に言われるなんてとても心外だよ」
高屋の普段は大人しい、整った静謐な顔が狂気とも言える笑みに歪む。
逆光による陰りで、暗くなった表情に目が爛々と輝いている。
「それにしても、いつ見ても良い身体してるよなあ、お前・・・!」
「ひゃう!?」
そう言うが早いか、高屋は霧恵の尻に両手をまわすと、そのまま鷲掴みにした。
驚きに霧恵の身体が跳ね上がる。
しかし高屋はそれだけでは満足せず、掴んだ状態で揉みしだく。
「うあ、いやあ・・・やめて、ください・・!」
「なんだよ、東條一番の僕に触られるのが嫌なのか?我が侭な女だな」
高屋は、片手を霧恵の胸に伸ばした。そして尻と同じ要領で触れる。
霧恵は必死に退こうとするが、背中には民家の塀があるので退くに退けない状態だった。
「ちっ!ケツは良いが、こっちは全然だな。板だこりゃ」
「あ、言わ、ないでぇ・・・!」
目じりから涙を零しながら霧恵は抗議の声をあげるが、高屋が聞き入れるはずもなかった。
じっくりと舐め回すように、身体を揉み嬲る。
だが、高屋は急に霧恵を放した。そして自分の制服を整える。
耳を澄ますと、こちらに向かって来る足音が聞こえた。
「くそ・・・人だ。いいか、今は見逃してやるが・・・今夜あたり楽しみにしてろ。いいな?」
「――――-っ!」
不吉な言葉を残して、高屋は急ぎ足で霧恵を置いて去っていった。
高屋の姿が完全に見えなくなると、霧恵は道路に力無く座り込んだ。
座った状態でさえ、足はがくがくと震えていた。それを掴んで、霧恵はなんとか抑えようとする。だが、止まらない。
彼女の制服は、先ほどの行為によって若干乱れていた。それを、震える手を制してなんとか整える。
身体で、言葉で、その両方によって彼女は酷く嬲られた。少しでも気を抜くと、記憶がフラッシュバックする。
あの、蠢く手つきの感触が蘇る。その不快さに気絶しそうになる。
霧恵は、ポケットからさきほど黒咲からもらった名刺を取り出した。公衆電話を探してかけようと思い立つが、すぐに止めた。
わざわざこんな事で、あの人を使いたくなかった。
それは恐怖感からくる考えだった。
「KOTRT」。黒咲 英翔が属する組織。
それは国連が別脈種大国日本のために、特別に組織した内閣直属の特務隊。
正式名称「Knights of the Round Table」。
円卓の騎士という名の指すとおり、そのメンバーは12名で構成されている。
そのメンバーの中には、「御三家」の者がそれぞれ在籍しており、その戦闘力は計り知れない。
そして、そんな組織の与している黒咲。
恐怖感を抱かない方が不自然である。
陽はすでに沈み、あたりには闇が降りようとしていた。
霧恵は、あの後震える足を引きずってアパートに戻った。
家に着くと、彼女はすぐに風呂場に向かい、全身を隈なく洗った。
あんな穢れなど、少し残すわけにはいかなかった。
念入りに、丹念に、丁寧に、手を抜くことなど考えもせずにひたすら洗う。
たっぷりと時間をかけて身体を隅々まで洗い終えると、霧恵は埋没するようにベッドに横たわった。
そしてその状態で、ほうと息を吐く。そのため息に嫌な記憶を乗せて吐き出せたらどれだけ楽だろうか。
陽は、もうとっくに沈んでいた。夕飯時の時刻も、既に過ぎていた。
意識がまどろむ。
今日は色々とありすぎた。黒咲、高屋先輩、様々なできごとが重く積み上げられる。
疲れ果てた精神は、霧恵を容赦なく眠りの世界に叩き落とした。
夢を、見ていた。
それは昔の、遠い日のことの記憶だった。
まだ結ヱがいて、二人で仲良く遊んでいた日の記憶。
家族四人で、平穏に暮らしていた日々。暖かで、静かで、優しくて、何一つとして二度と戻らないモノたち。
終わりは、突然だった。
突然すぎた。
微かに記憶に引っかかっているのは、血を吐き、血に伏している結ヱの姿。
それを自分は、わけもわからずに、ただ呆然と眺めている。
どうすれば良いのかわからない、なぜこんな事になったのかわからない。
ただ、どうしようもなく・・・・・・・胸のうちに焦燥感が募るばかりだった。
目が開く。
霧恵はベッドから身を起こすと時計を確認した。夜中の二時を回ったところだった。
頬には、数滴の涙の痕が残っている。
それを拭うと、霧恵はなんとなく窓の外を見た。
窓は、ベッドに寝ている霧恵から見て足のほうにある。
いつもはそこから多少の景色が見えるので心が落ち着くのだが、今日は違った。
背筋が、凍てついた。
窓の外には、人影があった。
しかしそれが誰なのか、霧恵には一目瞭然でわかった。今日、彼女に危害を加えた張本人。
高屋 克己。
彼が、窓の外にあるベランダに音も無く立っていた。
その格好は、普段学校でみる姿そのままだった。
「ひっ!!」
霧恵は恐怖のあまりに、満足に悲鳴を上げることさえできなかった。
急いで窓とは反対側のベッドの隅によると、すぐそばに備えてある電話の受話器を手に取る。
そして、念のために置いておいた黒咲の名刺も一緒に手にとった。
こんな状況では、下手に警察を呼ぶよりも「KOTRT」に属している彼を呼ぶほうが無難である。
戦闘能力など比べ物にならないし、なによりこちらの事情を知っているので素早く行動できる。
恐怖にかじかむ指を懸命に使って、受話器のボタンを名刺に書いてある番号通りにプッシュする。
番号を押し終えると、窓の外でがたんという物音がした。
反射的に身が跳ね上がる、見ると高屋が窓に密着していた。そしてそのまま無気力に頭を窓ガラスに打ち付け始めた。
がん。がん。がん。
受話器を当てると、呼び出し途中の電子音が鳴り響いている。
そして数回も聞かぬ間に、がちゃりという音と共に黒咲が電話に出た。
『はい、こちら「all things(株)」で・・・』
「く、黒咲さんですか?お願いです、すぐ来て下さい!」
『なんですか、どうかしましたか!?』
霧恵は、窓の外に視線を再び向けた。
そこでは、相変わらず高屋が窓ガラスを頭で叩いていた。が。
それに突如として両手両足が加わった。今までのやる気のないヘッドバッドとは違い、それは今にも窓ガラスを打ち割ろうとしていた。
「あの、例のストーカーがいまうちのベランダにいて・・・窓ガラスを破ろうとしているんです!」
『わかりました、二十秒でそちらに向かいます!』
「え!?」
しかし黒咲は霧恵の質問に答える前に電話を切ってしまった。
all thigsからこのアパートまでは、軽く五キロはある。それを彼は二十秒で走破するといった。
ツーッツーッという電子音が無情に鳴り響く。その音で恐怖感と絶望感は割り増しした。
ぴしり。
「!?」
霧恵が驚いて振り向くと、窓ガラスにはひびが入っていた。
さらにそれに連鎖するかのように、さらにひび割れる音が連続する。
ぴしりぴしり、と段々と音が大きくなっていく。それに比例してひびの規模も広がる。
そして、耐えかねたようにガラスの一部が崩れ去った。
ガラス特有の音をばら撒きながら、破片が部屋の床に落ちる。
そこからまるで侵食するように、次々と破片が舞い散る。
そして、その穴から高屋は霧恵に向かって手を伸ばした。
それは到底届く距離ではないのだが、彼女の恐怖感を煽るのには十分だった。
「いやあああああ!来ないでえええ!!」
すると玄関の方で、ドアが勢い良く開いた。
霧恵が待ち望んだようにそちらに視線を向けると同時に、英翔は部屋に疾風の如く参上した。
「黒咲さん!」
入ってきた英翔に、霧恵は抱きついた。
そしてそのまま力なく泣き出した。
しかし、それもほんの少しの間だけで、彼女はすぐに泣き止んだ。
「大丈夫ですか?ケガとか、してませんか!?」
「はい・・・・大丈夫です」
必死の形相で問いかける英翔に、霧恵は静かに答える。
そうですか、と言うと英翔はベッドに霧恵を座らせると、窓に向かった。
そこいたはずの高屋先輩は、いつのまにか居なくないっていた。
「おかしいな・・・・さっきの一瞬で逃げたのか?」
「あの、わたし本当に見ました・・・!」
「ええ、それは分かってます。私も見ましたから、でもおかしいですね・・・今の一瞬のうちに逃げるなんて事は人間にはできないはず・・・」
英翔は、割れた窓ガラスの部分に右手をかざした。そして、聞き取れないような小さな声で何かを呟く。
手の内が、微かに発光する。
錬精術の中でも、比較的簡単な術。物体に残留した情報の読み取り。
先ほどの小さな呟きは、発動のための言語詠唱である。
「?・・・・・・・・・・・・これは――――」
「どうかしたんですか」
訝しげな反応をする英翔に、霧恵が心配して話しかける。
「・・・・いいえ、気のせいでした」
「そう、ですか」
窓から離れると、英翔はベッドに座っていた霧恵を抱え上げた。
あまりの突然の行為に、霧恵は驚きと恥ずかしさから、この上ないほど赤面する。
「あ、あああああの、なんなんですか、いったい!?」
「このままアパートで一人暮らしするのは危険でしょう、ですからうちの店に来てもらうんですよ」
「え、えええええええ!?」
嫌ですか?と訊ねる英翔に霧恵は全力で首を横に振る。
その答えに満足すると、英翔は霧恵を抱えたまま彼女の荷造りを開始した。
霧恵に着替えなどの位置を聞き、さきほど見つけたボストンバックに必要な物を次々と放り込む。
下着などを入れるときは、英翔は目を瞑り、霧恵が抱えられた状態でバックの中に詰めた。
そうしてすっかり準備と整えると、英翔は霧恵を抱えたまま玄関を出ようとした。
それを霧恵は、彼の服の袖を引っ張ることで制した。
さすがにこのままでは恥ずかしいと言うと、英翔は今気付いたように納得し、霧恵を降ろした。
深夜の町は、静かだった。
どこからともなく大気の動くような低い音が聞こえてくるが、それも静けさのうちの一つだ。
昼間では味わえない物理的ではない冷たさ。それを増長する闇。
しかし、今はそれが心地良い。生きていると実感できる。
「それにしても、奴さん随分と大胆な行動に出てきましたね」
「はい・・・わたしも、まさか高屋先輩があんなことをするなんて・・・」
街灯にほの暗く彩られた夜道を、英翔と霧恵は一緒に並んで歩いていた。
「それと、ほんとうにわたしなんかが泊まっちゃっていいんですか?」
「ええ、部屋なら余ってますし。それに女の子を危ないところに放っておけないじゃないですか」
英翔は相変わらずのほほんと答える。
「明日の学校はどうするんですか?あの高屋って人同じ学校なんでしょ?」
「それについては大丈夫です、高屋先輩学校では体裁ばかり気にしているから大胆なことはしてこないんですよ」
さも当然のように、霧恵は全く悪気がなく言い放つ。
このような彼女の言動などが要因で、高屋がしつように付き纏っているというのを彼女は知らない。
霧恵は、高屋と聞いて嫌なことを一つ思い出してしまった。
黒咲の店の帰りに、高屋にいきなり襲われたときのことである。
あの事の記憶は全て嫌なものには変わりないのだが、その中でも特に霧恵の中に残っている言葉があった。
『こっちは全然だな。板だこりゃ』
自分の胸部に霧恵は視線を落とす。
確かに、彼女の胸は一般の女子に比べて発育が遅い。
更衣中に上半身だけを見たら、物凄く中性的になる。それが一部の女子の間に人気を呼んでいることを本人は知らない。
板と言われてもしかたがないかもしれないが、やはり傷つくものは傷つく。
「どうかしたの?」
心配した英翔が顔を覗き込んでくる。
しかし今回霧恵は赤面しなかった。それほどに胸のコンプレックスをつかれたことが痛かったのだ。
「黒咲さんって、コンプレックスとかあります?」
「え?コンプレックス?・・・・う〜ん、どうだろう」
その質問に英翔はなぜか深く考え込んでしまった。
「まあ、後悔ならいっぱいあるんだけどな―――――。そうか、コンプレックスかあ」
「あの、無いなら無いで良いんです。すいません、変な質問しちゃって・・・」
霧恵はそう断って会話を強引に絶った。
そうして、未だ歯車が噛み合わないような状態のまま二人は「all things」に辿り着いた。
鍵を開けると英翔は、どうぞと言いながら店の引き戸を開けた。
その敷居を、霧恵はゆっくりとした歩調で跨いだ。
「お、おじゃまします」
その霧恵の言葉に、英翔はチッチと指を振る。
それの指す意味に霧恵は気付くと、すぐさま訂正した。
「・・・・・・・・・ただいま」
「おかえり、霧恵さん」
ギクシャクとしたなんともいえない奇妙な生活が、いまスタートした。
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