もう、歩き疲れた。 これ以上は、進むことも戻ることも叶わない。 体が――――精神が完全に滅入っている。 振り返る。 今まで歩んできた道のりを、もう一度省みる。 それは、血に濡れた道。 あまりに多くの命を、失わせてしまった。 あまりに多くのものを、救えなかった。 胸に抉られた一つの誓い。 あの、白い静謐な部屋で交わした指きり。 命あるものを救うと誓った。 彼女がいつも笑顔でいることを代わりに、誓った。 幼き自分の、恋心が生んだ一つの思い。 投げ出したこともあった。 恐怖に動けなくなったこともあった。 それでも、なんとかここまで進んできた。 でも、いざ振り返ればそれは血塗られた修羅の道。 けれど、そんな自分にも守りたいものが、まだある。 果たさなければならない、義務がある。 まだ、朽ち果てるには早い。 倒れるのは、全てが終わって――――――――――。 夢を見るときだけ。 潮風に錆び付いた鉄扉に手をかける。ざらざらとした感触が手の内に感じられる。 透は『主』がいるという白い小屋の扉を、今まさに開けようとしていた。 横には、手を繋いだミホの姿がある。 脳裏に、ついさっきまでの高志とのやり取りが思い出される。 「俺も連れて行ってください、先輩!」 「駄目だ」 高志の懇願を、透は無情にも断る。 それは、透が怖かったからだ。 フリースみたいに、高志まで死んでしまったら、自分にはもう何も無くなると。 「なんでですか!?この戦いの最後を、なんで見届けちゃいけないんですか!」 「この先、戦闘がないとは限らない・・・・それで、もしお前まで死んだら」 「構いません、この戦いのためなら、俺命なんて惜しくありません!」 高志のその言葉に、透は激昂した。一瞬の間に頭に血が登り、反射的に手が出る。 ぱん、という乾いた音が鳴る。 透は、高志の頬を思いっきり叩いた。 「間違っても、そんなことを言うんじゃない・・・!いいか、俺はお前を連れて行かない。わかったか!」 高志は、無言で透を見据えた。 そして隙を突くように、いきなり透の襟首を掴んだ。 そのまま透の顔を自分の顔近くまで強引に引っ張る。 「じゃあ、約束してください。フリースの死を、無駄にはしないって。  かならずこの戦いの最後を、意味を見極めるって!・・・約束しろ、透!」 「・・・・・・・・・ああ、誓うよ。絶対に彼女の死は無駄にしない」 フリースの死。 それは透の心にも深く刻み込まれていた。 言葉に直すことの出来ない、あまりにも凄惨な死。 そうして、透の襟首から手を離すと高志は背を向けてこの岬から去っていった。 去り行く背中に、透は心の中で再度誓った。 この戦いを、本当の意味で終らせると。 そして意識は今に戻る。 頭の中で高志の言葉が反芻する。 高志は、俺たちにこの戦いの清算しろと言った。 なら、それに応えなければならない。 それが、生き残った自分とミホのできる、この戦いで死んでいった者への悼み。 手に握った刀に、透は視線を落とす。さきほどミホから渡された物だ。 反りの無い、真っ直ぐとした刀。 ナギサが使っていた、あの刀である。なんでもナギサの『枷』が、この刀を自分に渡してほしいと頼んだそうだ。 今の透には、その気持ちが良くわかる。 せめて形見だけでも、この戦いの終わりに立ち会ってほしいのだ。 無駄じゃなかったと、思いたいのだ。 そのことを思うと、辛くなる。 本当に、自分たちが生き残るべきだったのかと。 病院で戦った『ミホ』の、死んだ姿が浮かぶ。 イルが、ナギサのよって殺された瞬間が浮かぶ。 そして、フリースが崖から飛び降りた瞬間が浮かぶ。 目尻が熱くなる。 息が乱れる。悲しみに、思考と視界が霞む。 「カナハラ・・・わたしたちは止まっていられない。いきましょう、『主』のもとへ」 服の袖で涙を拭うと、透は気を引き締める。 いつまでも、落ち込んでなどいられない。 進まなければいけないのだ。 「ああ、行こう。そして、この戦いを本当に終わらせよう」 錆び付いたドアノブを、ゆっくりと回す。 がちゃり、とロックが外れる。 鉄扉が開く。 足を、二人同時に踏み入れた。 瞬間、世界が変わった。 否、その世界に入った。 それほど大きくない白い小屋の中に入ると、比喩ではなく、そこは本当に違う世界だった。 どこまでも、浅瀬が続いていた。 綺麗な、青い色をした海の浅瀬が、辺り一面にどこまでも続いている。 背中で、鉄扉の閉まる音が聞こえる。 透とミホは、その限りない浅瀬で立ち尽くした。 「ここは――――――」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・こっちよ、カナハラ」 「―――え?」 狼狽する透の手を引っ張って、ミホは歩き出した。 その足取りは、まるでこの浅瀬を初めから知っていたようなしっかりとしたものだった。 ざぶざぶと突き進む。 浅瀬の水深は踝ほどなので、靴はすっかり水没している。 歩く度に、靴の中ががぽがぽと音をたてる。 しばらくすると、水平線の彼方に小さな点が見えた。 それは、近づくに連れてはっきっりと見えてきた。 そして透とミホはその点の正体まで、あと数メートルという距離まで近づいた。 そこには、一人の男性とイスに座った少女の姿があった。 少女は顔を伏せていたが、その状態でもわかるほどその少女の顔は似ていた。 今、自分が手を握っている少女と。 あの椅子に座った少女が、ミホの本体であることは一目瞭然だった。 問題は、その少女の傍らに立っている白髪の男性である。 彼は、透とミホがいる方の反対側を向いていた。 「アンタが―――――――――――『主』なのか?」 透が少女の傍らの男性に話し掛ける。 男性は、透の質問にゆっくりと振り向いた。 その顔は、若かった。白髪だからてっきり老人かと思ったが、意外と年齢は透に近いようだ。 「やっと帰ってきたか・・・ネツァク。待ちわびたよ」 男は両手を広げて、心底喜んだ表情をしながらミホに近づいた。 抱擁しようとした男に、ミホは根元から折れた刀を突きつける。 烈火のごとき勢いで喉元に刃を突きつけられた男は、呆然としていた。 「貴方が『主』だな?」 「おやおや・・・しばらく見ない間に随分と粗暴になったね、ネツァク。そうとも、私が『主』だ」 男は、やれやれと肩をすくめながら呟くように言った。 するとミホは更に強く喉元に刀を押し付ける。 「なぜこんな戦いを、『ミホ』たちにさせたんだ・・・!」 『主』と名乗る男に、透は低い声で問う。 「それはこれがどうしても必要だったからだよ、哉原 透くん」 「自己紹介した覚えはねえけどな・・・・・・・・・・でもこっちの名前知ってんなら、そっちも名乗るのが道理だよな?」 「これは失敬した、私の名前は正門 蒼志だ。これでいいかね?」 「ああ、それとどうして『ミホ』たちを戦わせたのか。その理由もな」 「やれやれ・・・・・・」 蒼志という男は、以前として余裕な態度をとっている。 それが、透には憎らしく見えて仕方が無かった。 「どんな理由だ!どんな目的で、殺し合わせたんだお前は!!」 「それは『天際 美穂』が世界を救う可能性があったからだ」 「なに?」 蒼志の言葉に、透は眉をひそめる。 ミホは、相変わらず無表情で刀を突きつけている。 「『天際 美穂』にはね、『邂逅の門』という特殊な能力を身に付ける素質があったんだ。  『邂逅の門』を使えば、どんなこともできる。そしてそれを正しく行使するには強い精神力が必要だったんだよ」 「・・・それで、一番強い精神力を持った『ミホ』を選ぼうとしたって腹か」 「それは違う。ネツァク以外の『ミホ』は『天際 美穂』が現実逃避のためにつくった急造の擬似人格でしかない。  そんなちゃちな物では『邂逅の門』の使用には耐えれない」 「ミホには、他の『ミホ』以上の精神力があったってことか?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そうだと言っておこう」 「ということは、最初から勝者は決まってたってことか?」 「そうだ」 透は、怒りにまかせて拳を奮った。 それは鈍い音を立てて蒼志の頬に直撃した。 ばしゃり、と水面を乱して蒼志が仰け反るように浅瀬に倒れる。ミホの刀はその動きにぴったりとついて来ていた。 「いくら世界を救うからって!そんなことをしていい道理があるか!!」 「黙れ小僧!貴様にわかるのか、いまこの世界でどれだけの者達が、もがき苦しんでいるのか!  私は、それを含めた全ての者達を平等に救おうとしているだけだ!!」 「―――――っ!!」 蒼志のその言葉に、透にはその気持ちが良く分かるからだ。 世界中の者を救う。 命ある物を守る。 その願いには、救いたいと思う共通点がある。 だから、透はそれを無下に否定できなかった。 現に、透もその願いが叶えばどんなに良い事かと思ったからだ。 全てのもが平等に救われる世界。 「私は、ただ救いたかっただけなのだ。それを邪魔しないでほしい。頼む、透くん」 「・・・・その平和な世界を、本当に作れるんだな?」 「約束しよう」 「ミホ、刀を下ろしてやれ」 ミホは無言で透の指示に従う。 そして、束縛のなくなった蒼志に近づくと透は蒼志の服の襟首を掴んだ。座り込んだままの体勢の蒼志を乱暴に立たせる。 「・・・・・・・・・では、作業に取り掛かっていいか?」 「え?もう始めるのか?」 「そうだが?」 「ちょっとだけ、待ってくれ」 蒼志にそう告げると透はミホに近づき、抱擁した。 ミホが赤面する。 透は、それを力強く抱きしめる。しっかりと。 「・・・・・・・・・許してくれるか、ミホ」 「フリースのことを思うと、私は許せません。でも、私は透の意見に従います」 「すまない」 そうして、透はミホから離れた。 そしてミホを蒼志の元に向かうように促した。 そのときの彼女の表情が、たまらなく寂しそうだったのが目に焼きつく。 蒼志が、ミホの肩を抱く。 「では、ネツァクを『美穂』の中に戻す。いいな?」 「ああ、始めてくれ」 蒼志がミホの額に手を翳す。するとミホの体は糸が切れたように倒れた。 その手を蒼志は、椅子に座っている美穂の額に翳す。 すると、ミホそっくりの美穂の瞳がうっすらと開いた。 「ふうー、成功だ。精神は正常に肉体に定着したようだ」 「そうか・・・」 透は、倒れたミホの体に目を向けた。そこに残っていたのは、彼女が着ていた服だけだった。 何故か虚しさが胸に込み上げる。 透は美穂の体に入ったミホに近づいた。 顔立ちから髪の色まで、美穂の体はミホの体ににそっくりだった。 それだからか、体が入れ替わったという実感が少ない。 それは本人も同じ事だろう。 突然、眩暈がした。 世界が回転する。 本当は自分が倒れているのだが、三半規管がイカれているのか、自分が傾いでいる実感がない。 「あ、あれ・・・・?」 ばしゃり。 透は力なく水面に膝をつく。そして、そのまま前のめりに倒れこんだ。 体に力が入らない。 「だいじょうぶ!?カナハラ!」 入れ替わったばかりの慣れない体でミホが駆け寄って来る。 「カナハラ!しっかりして、ねえカナハラ・・・・・!」 意識が沈んでいく。 浅瀬から、暗い深海へと急速に沈下していく。 そんな中でさえ、頭の中ではミホのことばかり心配している自分に呆れた。 気が付くと、透はいつの間にか違う場所にいた。 ついさっきまでいた浅瀬とは全く違う、白い部屋。 壁一面が真っ白に統一された、目にあまり優しくない部屋だった。 その部屋の中には、向かい合って置かれた紅い色の革張りの豪華な椅子が二つ。 そして、そこには自分が座っていた。 部屋と同じ真っ白の服を着て、難しい顔をして椅子に座っていた。 「いつまでそこに突っ立っているつもりだ?」 「あ――――」 透はその声に聞き覚えがあった。 忘れるはずが無い。 なぜなら、その声の主は透の目の前でイルを殺したからだ。 「お前―――ナギサか?」 頭ではありえないと否定しつつ、椅子に座っている自分に訊ねる。 「ああ、そうだ。お前の頭の中を少し借りてる」 「一体どうやって俺の頭の中に――――!」 そこまで言って、透の脳が答えを弾き出す。 それはミホを庇うときに差し出した腕。あの腕は、深くナギサの刀に貫かれた。 恐らくあの時、ナギサは自分になにか細工をしたのだろう。 「理解が早いな、流石はもう一人の俺だ」 「なんで俺の考えが読め―――――――――。え?もう一人の・・・・「俺」?」 「そうだ、お前は「俺」だ」 ナギサの言っている事が理解できない。 ナギサが「俺」―――? 「ふむ、まずは『天際 美穂』の中にある人格の説明からしていかねばならないか。厄介だな」 「『美穂』の人格?」 「そうだ!」 そう言うと、ナギサは得意げに話し始めた。 先ずネツァクが最初に殺した『ミホ』。アウグストゥス。 彼女は『美穂』の中で一番最初にできた人格だ、その役目は『美穂』の感じる『嫌なこと』全ての肩代わり。これは彼女が父親から虐待を受けた際に出来た者だ。 次にお前の知り合いの『ミホ』。フリース。 彼女は『美穂』が思い描いた『良い子』な人格だ、彼女は自分を虐待する父に認められたいがために生み出された人格。 三番目にできた人格は私が殺したイル。 彼女は『美穂』の『我が侭』な部分を体現した人格だ。『美穂』が自分の解放を望んだ際に発生した。 そして四番目のカイン、これはお前も私も会った事が無い人格だ。彼女は上条 遼のいる組織で死亡したからな。 彼女は『美穂』の中の『無』の象徴だ、なにも考えず、なにも喋らない。父親から受ける虐待がピークに達したときに彼女は生まれた。 五番目に出来た彼女、カシウス。この子も私が殺した。 彼女は『美穂』が『他者を虐げる立場』に立ちたいと願った際に生じた。ゆえに攻撃的な性格をしている。 そして六番目にこの私ができた。 私は『美穂』の中にある『哉原 透』の記憶が凝り固まってできた人格。ゆえに性別が全ての『ミホ』の中で唯一男なのだ。 「ちょっと待てよ」 「なんだ?話はまだ途中だぞ?」 ナギサの説明に透は急に待ったをかけた。 それにナギサは不服そうな視線をむける。 「『美穂』の中の『哉原 透』の記憶って・・・俺は、昔に『天際 美穂』に会った事があるのか!?」 透のその疑問に、ナギサはきょとんとしている。 そして、しれっとした表情で。さも当然のように答えた。 「お前は幼き日に、あの病室で『美穂』と約束をしたではないか。忘れたのか?」 びしり。 ひび割れる。 霞みがかかっていた記憶が急に鮮明になる。 記憶の中の、あの約束の少女の顔は。 ミホにそっくり―――――――。 吐き気が、喉の奥から込み上げてくる。不快感に立っていられなくなる。 膝をついて、逆流する内容物を必死に抑える。 「苦しいのか?」 ナギサの声が聞こえる。 頭の中に、約束の少女の声が響く。      『わたしが悪い子だからお父さんは怒るんだもの。』        知っていた。 彼女が父親に虐待されていたこと。 聞いたことがあった。 そして、約束した。 守ると。 だから、君も笑顔でいてほしいと。 「なにひとつ・・・・・・守れてなかった・・・のか・・・・!」 吐き気を堪えながら、透は呟いた。 目尻から、涙がこぼれる。 彼女の笑顔を守りたいと思った。だから約束した。 全然、守れてなんかなかった・・・。 結局は、自分一人が勝手に思い描いていた、空虚な理想でしかなかった。 目の焦点が合わない。 もう、何を見て、何を信じて、何を目指して歩けば良いのか。わからない。 ワカラナイ。 「は、はははっ・・・・・・・・・はははは・・・!」 掠れた笑いが、無意識に声門を振るわせる。 悲しみや、憎しみ、虚しさ。色んな感情が内側から透を破壊していく。 水に押し流される泥の塊のように、ぼろぼろと崩れていく。 四肢を床について、ただただ渇いた笑いと涙をこぼす。 すると、急に襟首をつかまれた。 強制的に立たされる。 「まだ壊れるには早い。俺には・・・いや、『俺達』にはまだしなければならない事が残っている」 「・・・・もう、いいんだ・・・・・・・・いっそ全部が割れれば」 「聞け!気をしっかりと保て、彼女を残して一人で逝く気か!?」 そんなナギサの叱咤でさえ、今の透には届かなかった。 何年も信じ続けていたものが、音を立てて崩れ落ちたのだ。 全ての、真実と結果をつきつけられたのだ。 『目を覚ませ』、と頭の中で声がする。 『いつまでも子供のような理想を掲げるのはやめろ』、現実を見ろと声がする 全てが、色褪せて逝く。 「いいか、『主』の謳う平和な世界など存在しない!そんな世界で生きる人間は、すでに『人間』ではないのだ。 『主』が行っているのは、『人間』を『人間以外』のモノにする、解決でもなんでもない、ただの逃避だ!!」 ナギサが叫ぶ。 その声に、透はゆっくりと首をもたげて答えた。 虚ろな目をしたまま。 「そんなこと・・・・・俺になんの関係があるっていうんだ・・・こんな、無力でしか足りえない・・・俺に・・・!」 「関係なら・・・・・・ある」 苦渋の表情で、ナギサはそう呟いた。 それに、透は視線だけで訊ねる。 それは一体何なのだ、と。 眼球を、ぎょろりと向けて。 「できれば・・・・お前には言いたくなかった。でも今は、時間が惜しい。いいか?よく聞け。  『主』は『邂逅の門』のために・・・・・・『天際 美穂』を破壊した」 「?」 その言葉の意味が、透には理解できなかった。 ナギサは、唸るように呟きながら続けた。 『邂逅の門』は、通常は先天的に備わる能力なのだ。後天的な場合もあるが、それには例外なく、ある条件が付き纏う。 その条件とは、精神の完全な崩壊。 『主』は、『美穂』に後天的な『門』の開放の可能性を見出し、躊躇うことなく彼女の精神を破壊した。 邪魔な『ミホ(我々)』を抽出して、彼女だけ殺した。 視覚。聴覚。嗅覚。その全てを封じられて、彼女の精神は長い時間をかけて破壊された。 その間中、彼女はずっと――――――――。 笑っていた。 壊れたわけではなかった。正気のままで笑っていた。 人間は、目と鼻と耳を塞がれた状態では長く正気を保つことは出来ない。 その状況下で、彼女は正気のまま笑みを絶やさなかった。ずっと、微笑んでいた。 透―――――。 お前との約束を守るためだ。 彼女は、最後までお前と交わした約束を、『笑みを絶やさないこと』を諦めなかった。 何も守れていないわけではない。 お前は、あの状況下での彼女の確かな希望―――そして救いになっていたのだ。 そして、破壊された『美穂』は『ネツァク』へと再構築された。 元の人格も、記憶も、何もかも全て奪われてしまった。 そんな中で、彼女は貴様に会えたのだ。 自分に希望を与えた者に再び出会えたのだ。 これでもまだ、自分は関係無いなどと貫かせるか。 まだ、『無力でしか足りえない』などと吐けるか・・・・! 「・・・・・・・・・・・・のか」 「なんだって?」 透が微かに口を開き、何か言葉をこぼした。 しかしそれは、あまりに小さすぎてナギサの耳まで届かない。 「なんと言ったのだ、透」 ナギサの問いに、虚ろだった透の表情に色が戻る。 目尻から、さらに多くの涙が溢れる。 声が、胸が、奥底から震える。 「そうか・・・・・笑って・・・いたのか。彼女は―――――」 声を出して泣きたくなる衝動に、透は必死に耐えた。 胸が痙攣したように震えて、上手く呼吸ができない。 「そうだな、ナギサ。俺たちはまだ、成し遂げなければならない事が残っている・・・・」 「ああ、ネツァクを・・・いや、ミホを救うぞ。今度こそ本当に」 意識が、白く霞んでいく。 その中で、透はナギサに訊ねた。 「勝算はあるのか?」 「なあに、『俺たち』は2倍力さ」 「ふん・・・・・・・・・・言ってろ」 最後にナギサに微笑み返して、透は部屋を去った。 意識が、戻る。 どくん。 心臓の音が、やけに近くに聞こえて目が覚める。 頬を、水がちゃぷちゃぷと波打っている。それによって、自分が浅瀬に大の字になって寝転がっているということに気付く。 体を、起こす。 そこには、『美穂』が座っていたはずの椅子には、蒼志が座っていた。 力なく、前方に見を屈めるような体勢だった。 「ミホは、どこにいったんだ・・・?」 「・・・彼女か?」 気だるそうに頭をもたげると、蒼志は空を仰いだ。 その様子は、心底疲れているようだった。 「彼女は・・・・・・・・・・もうこの私たちの『世界』に組み込まれたあとだ」 「・・・どういう意味だ」 「そのままだ、彼女は新しい世界を作るための人柱になったのさ」 透は、思わず拳を握り締めた。あまりの勢いに、爪が手の平の皮膚を破る。 手の内に、血の生温かい感触が広がる。 それに比例して、怒りが込み上げる。 四肢が、わなわなと震える。 「殺したのか・・・」 「違う。生きたまま『世界』に組み込んだだけだ、二度と日の目を見ることはできないがな」 「そ、そんなの・・・ミホを殺したのと同じじゃないか!何が新しい世界だ!  何が皆が平等に救われる世界だ、彼女を犠牲にしたら・・・なんの意味もないじゃないか!!」 怒鳴り散らす透に、蒼志は冷たい視線をむけるだけであった。 何の感慨もなく、ただ呆然と見据えていた。 『落ち着け、透』 「!?」 その直後、透の頭の中に声が響いた。 それがナギサの声だという事にすぐ気付く。 「ナギサか・・・これが黙っていろって言える状況か?奴はミホを殺したも同然なんだぞ!」 『だから落ち着けといっている!いいか、今から私の言うとおりにしろ。そうすればミホは必ず助かる!』 「お、おう。わかった」 頭の中に響く声に従って、透は浅瀬にしゃがんだ。 そして、なんの躊躇いも無く手を突っ込んだ。海面下の砂に、腕が埋まる。 「おいおい・・・・本当にこんなとこ掘ってミホが見つかんのかよ」 ざぶざぶと海水を掻き分ける透に、蒼志は驚愕した。 蒼志が見たのは、透の頭の中だった。 彼の目には、透の頭の中で『あるモノ』が急速に増えていくのが見えていた。それは――――。 変換式。 別脈種しか持ち得ない特異神経を、なぜあの一般人が脳内に持っているのか。 しかも、変換式の成長は百年単位で育てる物であり、あんな短時間に脳内で無数に増えるわけがない。 生物学上、ありえない。 もしあんな速度で脳内の変換式が増えれば、スペースの無くなった脳細胞が圧迫されて死滅する。 このままの速度で成長を続ければ、あの青年は死ぬだろう。 「なあナギサ、さっきから頭が痛くて仕方が無えんだけど。半分が優しさで出来た頭痛薬とか持ってない?」 相変わらず海面下をかき混ぜながら、透がナギサに話す。 その手に、何かがぶつかった。 不審に思い、さらに深く弄ると、それがとても大きな物だとわかる。 透は思い切って、腕が全部埋まるほどの勢いで海底に腕を埋めた。 そして、そこにあった『モノ』を抱えて引き上げる。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・お帰り、ミホ」 引き上げた彼女の体は、海水にすっかり濡れそぼっていた。 その光景を見て、気だるそうにしていた蒼志が椅子から立ち上がった。 「馬鹿な、霊子的に組み込んだモノを引き上げるなど・・・・ありえん!」 蒼志の声は、透の耳には届いていなかった。 透は、気絶しているミホの頬をゆっくりと撫でた。 彼女の寝顔を見て、心のそこから安堵する。 そして、守りたいという決意が固まる。 彼女を浅瀬にそっと寝かせると、透は蒼志に向き直った。 頭痛が、酷くなる。 がんがんと二日酔いのような鈍痛が頭に駆け巡っている。 それはもう、無視できないほどの痛みになりつつある。 「・・・・・・・そうか、ナギサか。お前がこの青年の脳をいじっているのか」 『御名答、流石は我らが『主』だ』 「なんだ、何を考えているんだお前は。貴様は所詮は監視役にすぎん、役目が終わったら潔く消えるべきだろう」 『・・・・私は、貴方に体を与えられた・・・・・・・・・・・・・・貴方に、運命を狂わされたんだ・・・・!  私は、どんなときも思い描いていた。貴方の首を切り取って天に掲げる己の姿を!』 ナギサの言葉に、蒼志は右腕の袖をまくって答えた。 あらわになった右腕には、無数の赤い光が電子回路のように走っていた。 「それは・・・・」 「これは私が持つ『邂逅の門』だ、生憎と規模が小さい上に劣化が激しくてあまり使い物にならんがな」 透が、自分の足元に落ちていた物を拾い上げる。 それは、ナギサの刀だった。反りの無い、真っ直ぐな刃をした日本刀。 海面下からそれを拾い上げると、鞘から抜く。 銀光に光る刃が剥き出しとなる。 「俺は、お前だけは絶対に許さない。必ず・・・・倒す」 透が疾走する。 その速さは、人間のものではなかった。 『ミホ』と同等の身体能力。駈ける。 「いくら劣化している『門』とはいえ、貴様らを消滅させることぐらいはできる。舐めるな・・・!!」 蒼志が右腕を繰り出す。それは突進しきた透の顔面を鷲掴みにした。 力を込める。が――――。 「な、なに!?『門』が発動しないだと―――――ッ!!」 『いくら貴方の『門』が優れているといっても、所詮その機能も変換式から作られる「内気(オド)」に依存している。  ならそのエネルギーを右腕に届けるのを妨害すれば、『門』は起動しない・・・!』 「まさか・・・貴様が妨害しているのか・・・・・・・・ナギサアァ!」 驚愕している蒼志に構うことなく、透は刀を蒼志の腹部に突き刺す。 どすり。 意外なほど簡単に刃は肉切り裂き、侵入した。 「うぎゃあああぁぁぁ!!!」 蒼志は激痛のあまりに掴んだ透の顔面を握りつぶそうとした。 だが、その直前に透は腹部に刺した刀を素早く抜くと、蒼志の右腕目掛けて一閃した。 その瞬間に蒼志は握りつぶすのをやめると、透を思い切り突き飛ばした。 両者の間に、一気に数メートルもの距離が開く。 『腐っても『主』だな。『門』だけが能ではないようだ、身体能力も長けている』 「ふううぅぅぅぅ・・・・!ナギサアア、貴様・・・覚悟しろおおお!!」 今度は激昂した蒼志が疾走する。それは先ほどの透以上の速度がある。 その高速で向かい来る者に、透は躊躇うことなく刀を振り下ろした。 唸りを上げて刃が大気を滑る、それを蒼志は左腕で受け止めた。 しかし刃は、僅かに食い込んだだけであった。 あり得ない硬質の皮膚。 透は素早く刀の刃を引き抜くと、何回も蒼志に向かって討ちつける。 蒼志は気付いていなかったが、一発討つたびに透の体は悲鳴をあげていた。 透の体は、ほとんど限界であった。 筋肉の許容範囲を超えた過剰な攻撃。 刀を奮うたびに、骨が軋む。筋肉が熱くたぎる。 そしてなにより限界だったのが、脳だった。 透の脳は、かなりの部分が増殖した変換式に圧迫されていた。 時間と共にそれは増えていき、じわじわと脳細胞を圧死させていく。 しかもその膨大な変換式から生成された「内気」は、蒼志の『門』の抑制に全てつぎ込まれていた。 早くこの戦いを終わらせなければ、喩え勝ったとしても透が死んでしまう。 突然、透の背中から光が上がった。 眩いまでの、白い光。それは左右対称に展開された。 それは、まるで天から舞い降りた白き使いの翼のようだった。 「な・・・!?翼だとお、あれは両極にしか発動できないものではないのかああ!」 翼。 それは有り余る『内気(オド)』が視覚化されたもの。 本来『内気』は霊子的干渉を行うものであり、物質的干渉を行うものではない。 視覚化されるということは、『内気』を物質化した。つまり物質的干渉が可能なほど密度を高めたということなのである。 「認めん、断じて認めん・・・・私の願いは、全人類の救いとなるのだぞ!?」 蒼志は、奮われた刀を左手で受け止めた。血が吹き出る。 透は、己が壊れていく様を感じていた。 体はとっくに限界を超えているのに、止まらない。 限界を超えるということは、何かを犠牲にするということである。 間接が、ばきりと砕けるような音を立てる。 四肢は今のところ正常に動く。だが、その代わりに他の感覚器官などが死んでいく。 左目の光は、もうすでに失われている。 右目もだいぶと霞んできた。 聴覚は無事だが、いつ途絶えるかはわからない。 嗅覚などはまっさきに死んだ。 運動神経は無事だが、四肢の感覚神経は一部が死んでいた。痛みが伝わってこない。 脳も、変換式にかなり圧迫されている。 もう十分と持たずにこの体は戦闘不能になるだろう。 その前に、ケリをつけなくてはならない。 刀を受け止めていた蒼志を左腕を、肩元から斬り潰す。 骨を切断し、肉をすり潰す。 それでも蒼志は止まらなかった。 「まだだ、私はああああああああ!!」 蒼志のハイキックが、刀に直撃する。左手が粉砕骨折し、持った刀が弾け飛んだ。 それを好機とばかりに、蒼志は右腕を大きく振りかぶる。 もしあの体勢から繰り出された拳が直撃すれば、万に一つの確立でも生存は無理だろう。 死んで逝く頭で、助かる術を考える。 だが、鈍った頭では良い考えなど浮かぶはずも無かった。 「だいじょうぶよ、カナハラ」 「ミ、ホ・・・・・・・・・・?」 透が振り返ると、そこにはミホの姿があった。彼女の手は透の手に添えられている。 透の手には、いつの間にか得物が握られていた。 それは、折られたはずのミホの刀だった。 折れたはずの刃は、すっかりと元通りに戻っている。 目もくらむ様な、鋭い銀の光を刃が照り返す。 脳内に、イメージが浮かぶ。 イルに向けて放った、あの空間の裂断。 蒼志の動きが鉛のように粘りを帯びて見える。 世界が、自分を置いて酷くゆっくりと動いている。 刀を、握り直す。刀に、指先から力が流し込まれる。 ぶづん。 音を立てて左耳の鼓膜が破ける。 その他にも、左手、肝臓、右肺、消化器官。様々な機能が停止していく。 刀に、力をつぎ込めばつぎ込むほど体の一部分が死んでいく。 刀を振り上げる。 それと同時に蒼志の拳が胸部の真芯に直撃した。 ばきばきと肺と心臓を守る胸骨のほとんどが砕ける。 残っていた左肺の毛細血管が破れ、吐血する。心臓もかなりのダメージを受けている、いつ止まっても不思議ではない。 そんな状態になっても、体はまだ動く。 常人ならとっくに死んでいるだろう。だが、この体はまだ動く。 なら、するべきことはたった一つ。 刀を、振り下ろす。 銀の光の筋を、虚空に描きながら刃が落ちていく。 まるで、見えざる何かを斬るように。 ゆっくりと振り下ろしきった。 刃の切先にいた、蒼志の体がずれる。 頭から、股関節にまではっきりと線がうかぶ。 そしてまるで鏡がずれるように、蒼志の体がゆっくりと裂ける。 裂け目から、一拍おいて鮮血が吹き出る。 尋常ではない勢いと量で飛び散り、浅瀬をほのかな朱に染めていく。 「私は・・・まだ、私は諦めんぞ・・・・・・・・・・・・絶対に・・・成し遂げる!!!絶対に!!」 蒼志のその言葉と同時に、彼の後方の空間がまるでジッパーを引っ張るように口開く。 その中は、ただの闇だった。 風が吹く。少し勢いが強いが、穏やかな風が吹く。 その風に押されるように、蒼志は空間の傷口に飲み込まれていく。 「我が願いは・・・・・・何時の日か必ず成就するだろう・・・・・・・!!」
そう言い残し、蒼志は空間の裂け目に消えていった。内に黒い闇を抱えた空間の傷は、彼を飲み込むと同時に消失した。 残ったのは、浅瀬に落ちた膨大な出血。 しかしそれも、潮の動きにすぐに掻き回されて消えた。 透は、刀から手を放した。 ばしゃり、と浅瀬に重い刀が落ち、その下の砂に埋もれていった。 背中には、ミホの感触があった。 体は、もう使い物にならないだろう。 内臓器官は、その殆んどが停止。 体中の血管が所々破裂し、内出血も酷い。 四肢の筋肉も限界を超えた使用のために、かなりの量が壊死している。 脳は、殆んど変換式に変わっていた。 それでも、辛うじて意識は残っている。 死んだも同然の頭は、一つの事で一杯だった。 ミホ。 そして、こんな状態になって自分が彼女を好きだったことに初めて気付いた。 そんな自分に、自分自身で驚く。自分がどれだけ鈍感だったか。 口元の筋肉が、緩んでいるのが分かる。 目はもう既に光を映さなくなっているが、それでもわかった。 微笑んでいるって事が。 そして、哉原 透はこんなにもミホを好きだって事が。 鼓動が、浅瀬のなかで佇みながら消えた。
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