その視線の先にあったのは、四角に切り取られた空だった。
大気の流れに乗って、雲は皆同じ方向に流れていく。
青い空は、あっさりとした感じの青色なのに、それが物凄く悲しく、深く見える。
日も、ほとんど真上にさしかかっていた。じき昼になるだろう。
呆けながら、流れる雲々を見つめる。
平穏、その一語に尽きる。
安らかな時間。
すると、額に何かが直撃した。
軽い着弾音を立てて、それはころころと床に転がる。そして飛来してきた物体がチョークであったことが分かった。
「こらあー、哉原!アタシの講義で余所見すんな、ホントいい根性してんなお前」
「すんませーん」
教卓から怒鳴るタツエさんに、透は軽く返事を返す。
その言葉には、一般に言われる反省の態度などは欠片も無かった。
段階状になった大学の講義室は、構造上教卓が生徒の席を見上げるような造りになっている。
下からこちらを睨みつけるタツエさんを、一番後ろの席に座っている透は半ば無視する。
その態度は、もちろん火に油を注いでいる。
そんな態度の透の服の袖を引っ張る者がいた。
透は視線を、眺めていた窓の外の風景からその張本人に向ける。
そして、浅いため息をついた。
「いつまでもそんな態度とってたら、タツエさんそのうち鉄パイプ振り回して暴れ出すよ?」
「はは、そりゃ見物だな・・・・・・・・・・ミホ」
「もう、透ったらいつもそんな調子なんだから」
話し掛けてきたミホに、透は優しく応対する。
正午近い日差しを受けたミホは、綺麗だった。最近の彼女は、本当に綺麗だ。
なんて、バカップルみたいな惚気たことを考える自分に少し嫌気がさす。
そして透は窓の外に向けていた視線の先を、ミホに変えた。
彼女はすぐに講義に集中していた、そんな一生懸命なところもまた可愛い。
タツエさんは、少し怒り気味で講義を続けている。
だが、そんなことは透からしてみれば何ら重要な事ではない。
透にとって一番重要なのは、ミホとこうして多くの時間を過ごすということにあった。
彼女の傍にいる、それだけで心が和む。
なんの悩みも心配も、消えていく。
それは、悠久で。刹那な一時であった。
時間が、遅さを帯びて流れていく。
何もかもが、光と影の淡い演出に眩しい。
ほどなくして、講義が終了した。
透とミホは、昼食を食べるために大学の学食にむかった。
ふつうカップルなら、キャンバスに出て仲良く弁当を広げるのが理想だが、そんな恥ずかしい真似を透はする気にはなれなかった。
昼休みに入ったばかりなのに、学食の食券売り場には長蛇の列が出来たいた。
そして透とミホはその最後尾に並ぶ。この調子では食券を買うだけでカップラーメンが連続で三個ぐらいは作れるのではないだろうか。
ばちん。
列に渋々と並んでいると、透は急に後ろから背中を平手打ちされた。
あまりの痛さに、苦悶の声を上げながら振り返る。
「あ、そんなに痛かったすか先輩?」
「高志さん、さすがに力が強すぎます。もっと弱めたほうが良いですよ」
「ん。そうか、わかったフリース」
そこにいたのは、高志とフリースだった。高志のヤツは相変わらず後先考えずにちょっかいを出してくる。
「痛えんだよ、この馬鹿!今日という今日は許さん!」
「うっわ、いてっ!ごめん先輩!俺が悪かった、降参、ギブ!」
透は満面の笑みで高志をヘッドロックする。そのあまりの威力に、締められた高志は悲鳴をあげる。
高志は透の腕を何回も叩いたが、透はなかなか放さなかった。
「金輪際もうしないって誓うか!?」
「誓います、誓います先輩!だから放してプリーズ、マヂ締まってるから!!」
わかればよろしい、とわざとらしく言いながら透は高志の戒めを解いた。
その光景を見て、ミホはくすくすと笑っていた。
彼女のその表情を見て、透は何故か赤面する。
自分のした事が、急に恥ずかしく感じられた。
無事食券を買い終えると、透たちはそれぞれの食券をカウンターに渡し、各々の注文した品を受け取った。
透はカツ丼。ミホはいつものB定食。
フリースはカレーライスで、高志は大穴狙いの海鮮ロブスター丼という何とも珍妙な料理を頼んでいた。
すでに多くの学生の賑わっている食堂で、運良く空席を見つけて座った。
いただきますという決まり文句と共に、一同は一斉に食し始めた。
雑談を交えつつ、透とミホやフリースは楽しげに箸を進める。
しかし高志だけは、自分の頼んだ料理に後悔しながら箸を進めた。
昼食が終わると、また講義を受ける。
しかしその繰り返しは、午前に比べると早く感じられる。それこそあっという間に終わってしまった。
途中何回か、余所見の所為でその講義をしていた教授に注意された。
そして今は、家路についている。
高志とフリースは、今日は比較的早くに終わったのですぐに帰ってしまっていた。
透は、ミホと二人きりで帰ることになった。
家から大学までは距離が近いので、徒歩で通っている。
帰路は、夕陽に染まっていた。
明るみのあるオレンジに、二人分の影が細長く伸びる。
空には雲ひとつなく、夕陽だけが浮かんでいる。
「きょうも楽しかったね、カナハラ」
「そうか?俺はいつもと同じで講義中は退屈だったけどな」
ミホが透の腕に抱きつく。
その僅かな震動で、透の体が少しだけ左右にぶれる。
「・・・・・・・・・・・・・そうだな。楽しかったな、ミホ」
「急にどうしたの?カナハラ。しみじみとしちゃって、らしくないよ」
「ああ、俺らしくないな」
そんな何気ない会話でさえ、とても大切な物に感じられる。
それはとても平穏だった。
夕陽の帰路を二人で歩く。
学食で一緒に一喜一憂しながらメニューを決める。
講義を適度にサボりながら受ける。
こうして、愛しい人を時間を過ごせる。
それはとても平穏な――――――――。
ゆめ。
目に映るのは、水平線に浮かぶ紅い夕陽。
ミホは、『主』があの闇に消えていった後、透を肩で支えて白い小屋をでた。
そして今は、白い小屋の屋根に登っている。
小屋は正方形の形をしていたので、屋根は平坦だった。
その上からミホは、遠く沈んでいく陽を眺めていた。
頬には、涙の伝った跡が色濃く残っている。
横には、透が座っている。
だが、透はもうここにはいない。
体はここにあって息をしているけれど、心は――――――。
夢の中にある。
透は、あの戦いが終わってから眠りについた。
覚めることのない、平穏な世界に一人で発って行った。
もう動くことはない透の手を、ミホは握り締める。
反応は、もちろん返ってくるはずがない。
それでも、握り締めずにはいられない。
「・・・・・・・・・・・・・好きだよ、トオル」
それは彼女が透のことを、自分でも気付かないうちに好きになっていたからである。
だが、それはあまりに遅すぎた。
すでに透は、自分を置いていってしまった。
頬に、また涙が伝う。
もう、幾度流したかもわからない。
それでも、尽きることなく溢れて流れる。
夕陽が霞む。
透の顔を覗き込む。
その貌は、安らかだった。
透を起こしたい、戻ってきてほしい。そんな感情が、その表情の前に掻き消される。
ミホには、何が正しいのかなんて分からなかった。
だけど。今ここで彼を起こすのは間違いだと思った。
彼は、自分のために命を賭した。
そして、いまやっと安らかになれたのだ。
それを自分の感情だけで妨げていいものなのだろうか。
いいはずが、ない。
透の安らぎを妨げる権利を、自分は持っていない。
いや、世界中の誰一人として持ち得ない。
持ち得るはずがない。
でも、願わずにはいられない。
「ねえ、戻ってきて・・・・・・・」
そう、言葉をかけずにはいられない。
それほど、自分は彼を愛している。
だから、もう一度戻ってきてほしい。
また、抱きしめてほしい。
叶わぬ願いばかりが募る。
水平線に浮かんでいた陽が、いつの間にか殆んど沈んでいた。
辺りが、朱から濃い青へと変わっていく。
陽の光が、微かになり。消えようとしている。
「トオル、お願いだから・・・戻ってきて、好きだから・・・誰よりも大好きだからあ・・・!!」
動かない透の体を抱きしめて、ミホは声を上げて泣き出した。
『俺も好きだよ、ミホ』
その声に、ミホは顔をあげる。
先ほどから変わらない。透の顔は、相変わらず穏やかだった。
だがいつの間にか、その頬にはミホを同じように涙が流れている。
しかし、それはミホには微笑んでいるように見えた。
そしてそれに応えるように、ミホも微笑み返した。
「・・・・・・おやすみなさい、トオル」
彼女には、それ以外かける言葉が見つからなかった。
陽が、海に完全に沈んだ。
世界に、闇が舞い下りる。
暗い、暗い、暗い、暗い。
終わりの見えない。果て無き虚が。
the end.
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