「あー・・・生き返るなあ、風呂って」 湯船に肩まで浸かりながら呟き、肺の奥から全ての空気を吐き出すように、深いため息をついた。 未だジェンガに奮闘する星火と内藤に見切りをつけてさっさと風呂に入ったが、正解だった。 この浴場は、マンションの一室とは思えないほどに広かった。そこいらの民宿などより、よっぽど大きい。 床は大理石で、窓からはダイソンの都市が一望でき。湯船は足を伸ばして入っても、全く問題が無い。前のアパートを思うと正に天国だ。 そして、風呂に入ることで改めて、血と硝煙の臭いに気付いた。まさか、これほど身体に染み付くとは思いもしなかったからだ。 だから湯船に浸かる前には、入念に身体を洗わなければならなかった。 窓から見える、陽が落ちたダイソンの街の夜景。電光が、地上の星として至る所で瞬いていた。なかなかの見栄えである。 「やっぱここに引っ越してきてよかったな〜・・・あのアパートの風呂狭かったもんなぁ。おまけにボロくて汚かったし」 疲れた身と心をお湯で存分に癒していると、不意に浴場のドアが開いた。慌てて振り向くと、そこには腰にタオルを巻いた内藤の姿が。 自分の目に映った光景の意味が分からずに、春貴はしばし思考不能に陥った。 「・・・なぜ凝視する」 「いや、なんでそんな風呂入る体勢なんだ?」 「風呂に入らなければ不潔だろう」 「そうじゃなくて、自分の家の風呂に入れって意味で・・・」 「今日はここに泊まるのに、いちいち家に帰って風呂に入っていては面倒だろう」 「え?」 聞き間違いかと思い、聞き返す。 「泊まる?」 「そうだ」 「誰が?」 「私がだ。他に誰がいる」 「・・・マジ?」 「言っただろう」 「いや、聞いてねえし」 「・・・言っていないか?」 「言ってねえ」 今度は内藤が考え込んでしまった。どうやら本人の中では、すでに告げている事実として認識されていたようだ。 彼のマメそうな性格からしてみれば、意外なミスだ。しかし本人も割り切ったのか、最終的には何も言わずに、ずかずかと湯船に歩み寄り、ざぶんと身体を浸ける。 一瞬気まずい雰囲気になったが、春貴は気を取り直して湯船に浸かりなおす。こうやって湯に浸っていると、先の戦いの凄惨さなど忘れてしまいそうだ。 かなりリラックスしてきたのか、わずかに眠気も襲ってきた。かなり良い気分である。 すると豆腐のように締まりの無くなった春貴の顔に、何の前触れも無く水飛沫がかかった。唐突のことに泡を食って周囲を見回すと、 隣りで内藤が密かに安物の透明なプラスチックで出来た水鉄砲を構えていた。恐らく、ジェンガと一緒に購入していたのだろう。 「・・・あんたいったい何歳ですか?」 「三十路はこえているとだけ言っておこう。それより、どうだった。初めて、大勢の人間の命を奪った感想は?」 ふざけた玩具を構えながら、彼は直球で聞いてきた。その質問は、緩んでいた春貴の心に鋭く突き刺さる。 さっきあんなの丁寧に身体を洗ったのに、まだ血と硝煙の臭いが鼻をつく気がした。臭いが、とれない。当たり前だ、この臭いは言うなれば、死者の軌跡の一部だ。 琴坂春貴が、人の命を奪った時の残り香だ。湯船に浸かった自分の手を、ふと見下ろす。石鹸で洗ったはずなのに、まだ紅いように見える。 「そりゃ、良い気分じゃねえよ。ふつう」 「だろうな。だが、割り切るしかない。誰かを殺すということは、この世界で生きるための必要なことだ。いや、どんな世界でも、  誰かを殺すということは欠くことが出来ない。安穏と平和面で生きている普通の人間でも、気付かないうちに誰かを殺している。そこで問題なのは、物の見方だ。  人は生きるために誰かを何かを殺す、直接的に、間接的に。だったら、誰かを直接殺せる私たちは、まだ運が良い」 「どうしてだ?直接自分が手を下して、死んでいく様を正視しなくちゃならねえ・・・こんな苦痛はねえよ」 「そう、苦痛だ。それが一番重要だ。自分が誰かを何処かで知らないうちに殺しているような連中よりも、誰かを殺したという実感を背負って生きるほうが、まだ正しい。  分かるか?私たちは、そうやって贖罪しながら生きているんだ。そうやってまた、別の誰かを殺すんだ。・・・・また、明日を生きていくためにな」 「違う、そうじゃない!」 春貴は声を荒らげた。内藤の言っていることは、一つの正論だ。きっと内藤が、内藤なりに見つけ出した答えなのだろう。 けどそれはあくまで内藤の正論であって答えなのだ。琴坂春貴の正論ないし答えではない。俺は、俺の答えを探している。 誰かを殺すことが正しいなんて思っちゃいない。 けど殺すことを否定することもできない。死んでもいい人間などこの世には一人もいない。誰でも、生きるに値する存在だから。自分と同じように生きているから。 誰かを殺す権利など、持ち得る者はいない。分かりきっているさ、そんなことは。もう何十回も自問自答を繰り返した。けれど、答えが見つからない。 内藤のように、“自分の答え”を見つけることが出来ない。 「・・・内藤さん、アンタの言ってることは間違っちゃいない。けど、正しいとも思えねえ・・・!」 「どうしてだ」 「どんな言葉で言いつくろっても、それは所詮は言葉だからだ。前にウィスパーにも言ったけど、言葉が問題じゃねえんだ。問題なのは、本当に問題なのは、  命なんだよ、人の」 「・・・そうだな。しかしそんな思想では、この世界は生き辛いぞ」 「ああ、生き辛くてもいいさ。俺にはたぶん、一生“答え”なんか見つけられないと思う。いや、俺自身が、見つけたくねえ。悩むよ、その度に。何度でもな」 「そうか・・・」 妥協したような呟きだったが、内藤本人の顔は満足そうだった。そこで気付く。俺はまた、試されたのだ。この問答は、あの黒咲との試合と同じだ。 内藤は俺が大勢の命を奪うことで何を感じ、何を見つけ、何を悟り、如何考えるようになったか、それを知ろうとしたのだ。 全く、ストレートに物事を進めるということを知らない連中だ。 「じゃあ、もう一つ聞こう。今の君は、殺し屋か?正義の味方か?」 「また曖昧な質問を・・・」 「重要なことだ」 「言うまでもねえ、殺し屋に決まってるだろ。俺には、大義とかそんな大仰なものはねえ。ただ、自分のために殺しているだけさ。そういう意味じゃ、  俺は殺し屋より最低な存在かな」 「ふむ・・・いい答えだ。客観的に物事を見ている。――――――しかし、私の考えは違うな」 内藤は、水鉄砲のタンクの栓を抜いて、お湯の中に沈めた。まるで沈んでいくように、水鉄砲の中に湯が注ぎこまれていく。 タンクの中が満ちると、彼は湯の中から引き上げ、無為に前方に向って引き鉄を引く。水が心許無い軌道で飛び、湯船に波紋を描いていく。 「君はきっと、正義の味方だ」 「何でそういう考えに至るんだ?さっき言ったろ、俺には大義とかは無い。ただ、無為に殺しただけだ。俺は、正義の味方どころか殺し屋よりも最低な存在なんだって」 「無為に・・・?それは違うな、君は守りたかったんだ、人を。味方を・・・敵を・・・救いたかったんだ。違うか?」 「・・・ああ。誰も死なずにすむのなら、それにこした事はねえ。でも、現実はそうはいかなかった」 「そう、現実は思い通りにはならない。いつも残酷だ。人間一人が守ることの出来る人数など、知れたものだ。だから君はその少ない定員の中に、黒咲や星火を、  選んだのだろう。目の前にある人間の命を、自分という天秤で量ったんだ」 「そうだ。だから、俺は正義の味方じゃねえ。殺し屋にもなれねえ」 「そうではない。君は、現実に直面した。殺す者と、守る者との分別を迫られ、決定した。そして、守る者のために、切り捨てた者を殺した。正しい選択だ。  これは、世間一般で言うところの正義の味方に十二分に値する」 「違うだろ・・・それは」 「違わない。我々の語る“正義の味方”の本質は、往々にしてそういうものだ。ただ、あまりにも華美になって見え難いだけ。物語の正義の味方というのも、結局は、  守る者と殺す者を分別した者達だ。だからこそ、“倒すべき敵”がいる」 「敵・・・・・・?」 「誤解しないで欲しい。私はなにも、下手に君を慰める為に“正義の味方”などという陳腐な言葉を使ったのではない。私が君に語ったのは、もう一つの“現実”だ。  この世の中では、人は意図せずして、“正義”と“悪”という枠に嵌められてしまう。それも、ただの一個人の主観の集合によってだ。  覚えておくといい。君は、星火を守る為に、力を得る為にこのダイソン東京へと来たのだろう。ならば、代価無しに得られるものなど何も無いということを。  誰かを守ること、力を得ること・・・それだけではない、生きることや死ぬことにも、代価は求められる。この世界は無限ではない。常に有限が存在し、  我々はその有限の移り変わりの中を、夢現に判然としないまま生きている。故に何かを殺すと言う事もまた有限の移り変わり。世の理だ」 「随分と曲論的な考えだな・・・」 「この世に曲論などありはしない。この世に意志ある者の存在だけ、その正しき倫理、信条、道徳、思想、思考が存在する。唯一の真実は、その個人の“主観”だ」 水鉄砲を一通り撃ち終えると、内藤は湯船から身体を上げた。 「さて、長話になってしまったな。のぼさせてしまったか?」 「いいや、ちょうどいい」 春貴も湯船から身体を上げる。そして腰にタオルを巻き、浴場を後にする。その後ろで内藤はシャンプーを頭に振りかけていた。 そこで春貴は、一つの点に気付いた。内藤は、自分の右足は膝から下が機械だと言っていた・・・。しかし振り向いてみてみると、彼の足は生身そのものだった。 機械など、何処にも見受けられない。 「内藤さん・・・アンタ、義足じゃなかったのか?」 「? いや、私の右足の膝から下は本当に機械だが―――――ああ、そうか。カモフラージュ用の外皮か」 「外皮ってことは、下は本当に機械?」 「そうだ」 きっぱりと言い切る内藤。春貴は感心して、しばし彼の右足に見入る。本人が機械というから機械なのだろうが、それにしてもよく誤魔化せている。 傍目からは、義足であるということは全く分からなかった。まあ冷静に考えてみれば、彼のような役職の人間が、そんなものを剥き出しのまま放っておくほうが考え難い。 「ふーん・・・。それじゃ、お先に上がるぜ」 「うむ」 風呂から上がり、身体も拭き終えてリビングに出ると、そこでは星火がテレビに噛り付いている光景があった。 画面には、なんだか良く分からないアニメが映っている。しかし、本人は真剣な眼差しでそれを食い入るように見つめていた。 春貴は彼女の傍らに立つと、どんな内容のアニメなのかと画面に目をやる。画面の中では、猿ともネズミともつかない、奇妙なキャラクターが活発に動き回っている。 しかも、少し見ただけでも分かるほど、かなりシュールな内容だった。何故か大量の牛が、吉野家に牛丼がないことを抗議している光景が映っている。 それを猿且つネズミのようなキャラが先導している。あまりに意味不明な内容に呆れ返った春貴は、星火に質問した。 「これ・・・面白いか?」 「うん」 一心不乱に画面に目を釘付けながら、彼女は頷く。 「何てアニメ?」 「これ?これは『珍生物モイキー』っていうんだって」 「も、もいきー?」 内容に負けず劣らずな、またしても理解不能なタイトルだ。そんなものを一生懸命に見るとは、星火はいったいどんな感性をしているのやら。 「じゃあ、俺はもう寝るぞ。内藤さんに伝えといてくれ」 「分かった」 画面から目を離さず、彼女はコクコクと首を縦に振った。本当に聞いているかどうかはかなり疑問だったが、特に気に留めずに春貴は二階へと階段を上って行った。 そのまま自室に直行すると、朝から敷いたままの布団にダイビングする。 今日は、疲れた。あの戦いで、身も心もかなり擦り減った。寝転ぶと、すぐに睡魔が襲い掛かってきた。枕に顔を埋め、意識が暗転していこうとする。 『春貴』 「んだあ?」 ウィスパーが、それを阻んだ。イイ感じでまどろみ掛けていた意識が、一気に醒める。 「なんか用か?なら早く言ってくれ・・・・お前も分かってるだろうけど、俺いまめっちゃ眠い・・・」 『明日からは、早速特訓にとりかかるぞ』 「とっくぅん?」 『そうだ。主一人でも漆黒の断章を顕現させるようにすることと、漆黒の断章をもっと自分の手足のように自由に扱えるようにするための特訓だ。幸い、  ジムもあることだ。丁度いい』 「はいはい・・・わーったよ―――――――――――ぐか〜・・・」 『もう寝たのか・・・』 「通行証をお見せ下さい」 「はい」 「・・・確かに。どうぞ、お通り下さい」 ダイソン東京の外殻外へと出る門の前で黒咲理代子は警備員の了承を得ると、ロードスターのアクセルを踏み込んだ。 目の前で、重たそうな鉄扉が開き、車は滑るように外へと飛び出していった。今日は、あまり天気が良くないようだ。厚い雲が、ちょうど上空に差し掛かっている。 まあ、もうすぐ夕暮れ時の時間帯なのであまり関係は無いのだが。 「おっ、煙草止めたのか?」 「違う」 春貴が喜びの表情を浮かべたのも束の間、彼女はスーツの胸ポケットから、煙草の箱を取り出した。銘柄は、マイルドセブンのスーパーライト。 すぐに禁煙することはできなかったようだが、軽い銘柄に変える事は出来たようだ。彼女のそんな前向きな態度に、春貴は満足げな表情を浮かべる。 「しっかし、KOTRTって人使いが荒いよなー。無関係な人間のはずの俺をまた任務にかり出すなんてよ・・・」 「オフルマズドが関係しているヤマなんだ。情報が欲しいのなら、自分が出向くのは道理だろう」 「そうだけどよ・・・」 「まあ確かに、今回の任務は気が進まないことは本当だな」 理代子は、片手でハンドルを握りながら煙草に火を点けた。 話は、数時間前に遡る。 春貴たちのマンションを訪れた理代子に、内藤が新たな任務を言い渡したのだ。それも、春貴込みで。 何でも今回の任務は前回のような任務とは違い、派手なドンパチのない、潜入ミッションだそうだ。何でも、情報収集が主な目標らしい。 内藤が言うには、今回の任務の背景はこうだった。 「君達は、最近トラフィッキングのルートが日本に集中しているという事実を知っているか?」 「とらふぃっきんぐ?聞いたことねえな」 「平たく言ってしまえば、人身売買のことだ」 「じん・・・!?おいおい、マジかよ」 さらっと言ってのける内藤だったが、春貴は驚きの表情が隠しきれないようだった。それもそうだ、人身売買は、日本においてはほとんど実害がない。 売る側でもなければ、買う側でもなかったからだ。しかし内藤が言うには、最近それが変わりつつあるらしい。 人身売買の、“買う側”のルートが、世界各国から集中しているらしい。確かに最近の日本は貧富の差の拡大が著しく、裕福な者は異常なまでに金が有り余っている。 その反面、当然のことだが貧困者は絶望的に貧しい。二千六年初頭から初まった歪なインフレの置き土産だ。 「今回の任務は、そのトラフィッキングに関連するものだ。最近、横須賀で不審な大型客船が確認されている。洗ってみると、その裏にはある組織の存在があった」 「オフルマズドか!?」 「当たらずとも遠からず・・・だ。その組織名は、“グラン・クリュ”。内偵より、この組織はトラフィッキングに大規模に関与している可能性が高いということが、  先日に判明した」 「グラン・クリュ?」 「フランス語で、“特級畑”を意味する。特級畑とは、ワインに用いられるブドウ畑の格付けのことだ。そしてこのグラン・クリュの背後に、   オフルマズドが関係している可能性が非常に高いことも分かった。グラン・クリュは、オフルマズドの資金源と私達は見ている」 「? 何でグラン・クリュが資金源になるんだ?」 「君は意外と思考が純粋だな。良いか?グラン・クリュは人を売って金を儲けている。悲しいことだが、今の世の中は人間が高額で取引されるんだ」 「取引・・・!?畜生、下種が。人を物みたいに・・・」 人を物の様に扱う外道・・・。春貴は、苦虫を噛み潰す。内藤は春貴のそんな若さに苦笑したが、理代子は冷静な表情のままだった。 そうして作戦の大まかな流れを内藤から聞き、春貴たちは今にいたる。 「でも、信じられねーよな」 「何が?」 車窓から外の景色を見つめる春貴の呟きに、理代子は応える。 「人間を物みたいに扱う人間が・・・何でそんなことすんだ?」 「答えは簡単。単に、欲望を満たしたいだけさ」 「分かんねえよ、それでも」 「人間には、他人を束縛し、蹂躙し、快楽を得る変態もいるということだ。そして私たちは、その下種共を狩るために下準備」 「・・・報われねえな」 「売られる人たちが?」 「・・・・・・・・人間がだよ」 会話は、一旦そこで区切れた。車内に、しばしの沈黙が訪れる。しかし、それは二人が出会って間もない頃のような、気まずい雰囲気の沈黙ではなかった。 ただ、話す必要が無いから。お互いに、何か話をして間を持たせなければという、無用な焦りはもうない。 あの戦いを経て、春貴と理代子の信頼関係は飛躍的に向上した。まあ、その前に予め蟠りを取り除いていたということも、重要な要素だが。 「あっ」 「どうした?」 春貴が振り向くと、理代子は意外そうな顔をして春貴を見つめていた。 「なんだ?」 「白髪」 「・・・・俺が?」 「うん。白髪、後頭部にけっこうある」 「マジかよ・・・そういや、この前の作戦から何だかんだ言って休む暇なかったからな・・・」 「三日間も何をしていたの?」 「特訓。ウィスパーとな。おかげで、ウィスパーに頼らなくても、ある程度は漆黒の断章を扱えるようになったんだぜ?」 そうして理代子はまた運転に集中し、春貴は視線を車外へと向けた。そう、この時は不思議なほど気にならなかった。白髪のことなど。 今にして思えば、これが最初の兆しだったのだろう。でも俺は愚かなことに、その警鐘まったく気付くことが出来なかった―――――。 それが、俺を破滅へと導くスティグマだとも知らずに。 横須賀に着いたのは、それから更に数時間経ってからだった。 慎重に車を進め例の大型客船を見つける――――はずだったのだが、その必要は無かった。横須賀に近づくに連れて、周りに高級車の数が増えていったからだ。 その高級車の群れについていく事によって、春貴と理代子は例の舟を、呆気ないまでにあっさりと見つけることが出来た。 白いシンプルな客船だが、大きさが半端ではない。恐らく、そこいらのタンカーよりよっぽど大きいだろう。 その横っ腹に車を入れるための入り口が有り、そこに入る列に理代子は車を並べた。当然、そこでは身分チェックがあった。 「IDカードを」 ガードマンの男が、車を窓からカードの提示を要求してきた。春貴は、作戦前に内藤から渡された偽造のカードをガードマンに渡す。 内藤曰く、精密に偽造されたもので、正体がバレる心配は先ず無いということだったが、流石に緊張に汗が頬を伝った。 しばしの無言の後、ガードマンは端末機でIDカードをチェックすると、彼らが正しい客人であることを確認し、車を通した。 とりあえずは、第一関門突破といったところだ。 中は、大きな駐車場となっていた。既に、十台近い高級車が停まっている。理代子はその一角に、ロードスターを停めた。 そしてエンジンを切ると、彼女は大きくため息を吐く。そして、苦渋の面持ちで春貴へと向く。 「やっぱり・・・“アレ”、しなきゃダメなのか?」 「・・・・内藤さんの指示だしな」 「でも、別にしなくてもバレないよね?」 「分かんねえぞ、内藤さんのことだからな。何か仕掛けてるかもしんねえし」 「う〜・・・」 渋りながら、理代子はハンドバックから、内藤に手渡された“アレ”を取り出した。それは真っ赤な、犬がつけるような首輪だった。 何でもこの客船は人身販売だけでなく、買った人間のお披露目の場も兼ねているらしい。そこで、内藤がこの首輪を、カモフラージュのために渡したのだ。 確かに、こんなところに好き好んで来るような連中の趣味ではありそうだが、それを理代子に押し付けるのは少々酷だ。しかし、場合が場合である。 理代子は恥ずかしさと悔しさから顔を真っ赤にしながら、震える手つきで首輪を自分の首に巻いた。 「そんじゃ、いっちょ調べるといくか」 「・・・最悪」 勇んで車を降りる春貴に続いて、険悪な表情の理代子が続く。 ちなみに春貴と理代子は今回の任務に合わせて、正装である。春貴は内藤から借りた黒のダブルのスーツに、理代子はいつもとあまり変わりない女性物のスーツ。 本人曰く、いつもよりかなり上等なスーツなのだそうだ。まあ、それも“アレ”を首につけた状態では栄えるわけもないのだが。 駐車場を出て少し廊下を歩くと、すぐそこは会場だった。 恐らくこの船の大部分占めるであろう、大広間だ。天井は高く、二・三階をぶち抜いてあった。中心には奈落を備えた舞台があり、その周りをテーブルが囲んでいた。 既に、数十人がテーブルに腰掛で談笑している。そしてその人物の悉くに、春貴は見覚えがあった。皆、テレビで見るような大物政治家や、金持ちばかりだ。 しかも彼らの脇には一様に・・・明らかにここで買ったと思われる“人間”が控えていた。控える彼らの顔に、表情は無い。 まさか彼らにこんな外道な趣味が合ったとは――――内心で春貴は絶望するでも驚愕するでもなく、彼らを蔑んだ。まあ、いい。どうせ彼らのこんな生活もあと少しだ。 ここで俺達が調べた情報はその全てが、彼らを逮捕する証拠となるのだから。 春貴は広間の中心に構える舞台に一番遠いテーブルを選ぶと、そこに座った。恥ずかしそうに辺りを見渡しながら、理代子の同じように席に着いた。 どうやら、メインイベントはまだのようだ。それに、客もまだ完全には集まりきっていないようである。 何をするでもなく、春貴は呆けて待つことにした。情報収集―――――写真や音声記録をとったりするのは、理代子が勝手にやるそうなので、本当にやることがない。 手伝おうかとも思ったが、素人の自分が関わっても足を引っ張るだけだろうと思い、諦めた。そのまま、十分近く経過する。 「失礼」 「え?あ、俺?」 すると突然に後ろから声をかけられ、春貴は振り向いた。そこには、なんとも紳士的な若い男性が立っていた。 春貴は彼に見覚えがあった。この前テレビにも出ていた、大手ファンドの社長だ。まさか、こんな人物までここを訪れているとは、驚愕である。 おまけに彼の脇には、まだ小学校低学年ほどの、眉目秀麗な少年が立っていた。その少年もまた、他の“人間”のように無表情だ。 「あまり見かけない方だと思いましてね・・・ここに来たのは、今日が初めてですかな?」 「あ、まあ。そんなもんだけど・・・」 「失礼ですが、その隣りの女性は何処でお買いになられたのですかな?」 「はい?」 この男の言う隣りの女性とは即ち―――――理代子のことだ。男の反応から、内藤が首輪を渡した判断は意外と適切だったということが立証される。 端からはやはり、モノとその所有者という風に見られているということだからだ。効果があるのは安心だが、妙に府に落ちないものを感じた。 理代子を――――――普通の人間と同じように扱っているように見えて、この男は彼女をモノとして見ていた。それが、無性に頭に来る。 しかしこんな所でブチ切れて騒ぎを起こすわけにもいかず、春貴は必死に堪えた。 「えっと、コイツはそういうんじゃなくて・・・」 「誰かからお譲りになられたのですか?」 「はあ・・・そんなとこです」 「それはなんと。貴方は幸運ですね、彼女ほど見事な商品は、ここ“グラン・クリュ”でもなかなか見つけられませんし、買えるものでもありませんよ。  私もこの子を買うのには、軽く四億はつぎ込みましたからね」 そう言うと男は自慢げに、少年の肩を叩いた。 「初めてなのでしたら、この後の販売会と交流会のことはご存じないのでは?」 「はい、まあ。その不慣れでして」 「それはいけない。この後もうすぐ、“グラン・クリュ”が世界各地から買い集めた、様々な人種の様々な年齢の男女がオークション形式で販売されます。  そこで私も、新たにもう一人少年を買うつもりでしてね。そしてその後に、交流会があるんですよ。そこでは、オーナー達がお互いの“人形”の品評や、  “プレイ”を楽しみます。よければ、私にその女性のお相手をさせて貰えませんかな?」 「え?あ、いえ、そんな!無理ですよ、そのコイツは・・・・まだ躾が完全に済んでませんので!またの機会に!」 「そうですか・・・残念ですな。それでは、この快楽の時間をゆっくりと満喫してくださいね」 男はそう言って、少年を引き連れて春貴たちのテーブルから離れていった。春貴は、何とか危ない局面を乗り切ったと胸を撫で下ろした、が、それも束の間。 理代子が鬼の形相で、唐突に春貴の頬をつねった。 「いででででででで!?」 「躾って何よ!?躾って!!」 「うっせえ、いい訳なんだから仕方がねえだろ!」 「うるさいー!」 「いででで!千切れる、頬が!マヂ勘弁!」 そうこうしている内に、広間の照明が急に暗くなった。そして、広間の真ん中に構える舞台に、スポットライトが当たる。どうやら、あの男の言っていた販売会が、 始まるようだった。理代子は春貴の頬をつねることを止めると、胸に付けた小型のブローチを舞台に向けた。実はこのブローチはKOTRTが採用した、超小型のカメラで、 スイッチ一つで音声録音にも切り替えが可能である。おまけに特殊暗視処理機能搭載で、ライトやフラッシュを使わずとも、暗闇の中を鮮明に撮影することができる。 理代子が撮影を始めたことを確認すると、春貴も舞台へと向き直った。 『これより、販売会を開始いたします。今宵も、至上の“ヴィンテージ”と“カベルネ”を取り揃えております。皆様、どうぞ、新たな享楽をご堪能ください』 アナウンスが広間に響き渡り、同時に舞台の奈落もせり上がった。眩いまでのスポットライトに照らされた舞台に、奈落から一糸纏わぬ姿の少女が現れた。 それも、とびきり容姿の整った、見目麗しい少女だ。年齢も、先の少年のように小学生そこそこだろう。顔立ちは、ヨーロッパ系だ。 その少女のあまりの美しさに、会場がどよめき、各所で凶悦のため息が漏れる。その中で春貴はただ一人、虫唾のあまりに舌打ちした。 舞台の上の少女は首輪を介して鎖で繋がれ、スポットライトに照らされながら、怯えていた。遠目からでも分かるほどに、震えている。 それを救うことも出来ずに、ただ傍観していることしか出来ない自分を歯痒く思い、春貴は拳を、手の平が裂けんばかりに握り締める。 『最初にご紹介するこの商品は、最近入荷が困難になりつつある生粋のイギリス人です。処女は勿論のこと、日本語も話せます。  それでは、四千万円から開始です』 競の開始が告げられると、各所のテーブルから手が上がり、少女の値段が叫ばれる。五千万円、六千万円、八千万円、一億円、一億五千万円。 少女の値段は見る見る高騰する。人としての価値が、他人によって決められていく。虫唾を通り越して、吐き気が込み上げてきた。 自分の知らない世界で、こんな現実があったなんて。夢想だにしなかった。こんな、人が人の値段を決めて、モノの様に買うなどと・・・。 目尻に、涙がたまっていくのが分かる。 『三億七千万円。他にはおられませんか?それでは、この競は三億七千万円にて終了です。次の商品に参りましょう―――――』 誰かに買われた少女は、そのままゆっくりと奈落へと戻っていった。まるで、地獄に引きずり込まれる魂のようにも見えて、怒りが増長される。 何で、こんなことが出来るのだろうか。理解できない。したくもないし、する気も皆無だ。だが事実として、こうして人を弄んで快楽を得る下衆が存在する。 分からない。人を弄び、狂わせ、破壊することで得られる快楽など・・・その先になんの意味があるのか。 吐き気を堪えながら、春貴は再び舞台へと視線を上げた。そこには、既に次の“商品”が上がっていた。 “商品”は先ほどの少女とは正反対の、成熟した女性だった。だが、それでもまだ二十歳には至っていないだろうという年頃だ。 東アジア系の顔つきで、肌が少し黒ずんでいるという点を除けば、ほとんど日本人と違わなかった。ベトナムなどの、後進国の出だろう。 その女性は既に、“壊れて”いた。 目に光は無く、虚ろ気な視線と表情で、木偶の坊のように舞台にたち尽くしている。そこからは、意志というものが一切感じられない。 ここに来る前に、彼女は春貴には想像もできないような扱いを受けたのだろう。心が、壊れてしまうほどの、惨たらしいことを・・・・。 『次の商品はアジア系の出身で日本人に近い顔立ちをしていますが―――――ご覧の通り、かなり劣化が進んでいて、既に自我は失われております。ですので今回は、  少しばかり派手なデモンストレーションをご用意させて頂きました』 すると舞台の上に、黒いスーツを着込んだ強面で頑強な体つきの男が現れた。その男の手にはそれぞれ、一本ずつ鉄の棒が握られていた。 その鉄の棒には、黒と赤のコードが繋がれている。春貴は最初、それが何なのか、何のためにある物なのか、分からなかった。 しかしその答えを、春貴はすぐに、絶望を伴って知ることとなる。黒スーツの男が鉄の棒についているスイッチを押し、棒と棒の先を交差させた。 瞬間、鉄の棒が触れた接点から、紫電が飛び散った。詰まる所、あの鉄棒にはかなりの電圧の電流が流れているということだ。 「やめろ・・・」 誰にも聞こえないほど微かな声が、春貴の口の端から零れる。 「嘘だろ・・・おい、相手は・・・・人間だぞ―――――――ッ!?」 そんな蚊の羽音のような声が届くはずもなく。舞台上の男は、両手に握った電極を、“商品”の女性へと押し当てた。 間髪いれずに、女性の口から金切る悲鳴があがった。声門を引き裂かんとするほどの絶叫が、ホール中に反響し、春貴の鼓膜を突き刺す。 「ッつ!?」 春貴は慌てて両手で耳を塞いだ。しかし、遅かった。文字通りの断末魔を聞いてしまったのだ、全身が粟立ち、震えが止まらない。 これが・・・これが、人間のすることか。同じ人間が、することか。春貴は、自分が泣いていることに気が付いた。 自分は何をしているんだ。ただここで、目の前の人々が成す術も無く蹂躙されていくのを、黙ってみているだけなのか。 助けるべきではないのか。 そこで席を立とうとするが、思いとどまった。今回の任務は、あくまで情報収集だ。敵に気付かれずに情報を集め、持ち帰り、内藤の元に届けることが任務だ。 ここで俺があの女性を助けるということは、この作戦の全てを水泡に帰すことと同意だ。そうすれば、裏に隠れているオフルマズドの影も見失うことになるだろう。 落ち着くんだ、ここで事を急いたら、グラン・クリュの全貌と背後がつかめなくなり、もっと多くの人が犠牲になってしまう。 耐えるんだ。 『素晴らしい歌声ですな。では、競の前にもう一度、その美声をお聞かせしましょう』 最初の電撃で失神し、失禁し、白目をむき、ビクビクと身体を痙攣させている女性に男が再度電極を押し当てた。 強制的に意識を覚醒させられた女性の口から、再度絶叫が。その断末魔に耳を塞ぎながら、春貴は気付いた。隣りの席の男が、その様を見ながら笑っている姿に・・・。 それを見た瞬間に、春貴は、自分の中の理性が焼ききれたことを実感した。 何を耐えていたんだ、俺は。 目の前の一人を救えなくて―――――。目の前の下衆一人をぶっ飛ばせないで―――――。何のために、俺はこの人外の力を得たんだ。 守るためだろう、星火を、黒咲を、お袋を、否―――――――人間を。内藤は、人間一人が救える人の数は決まっていると言った。 最初聞いた時は俺も納得した。確かにそうかもしれないと、誰も彼も救うことは出来やしないんだと、思っていた。けれど、今は違う。 決まってなんかいない。俺が救いたいと願うだけの数の人々を、救えるはずだ。いいや、救えるんだ・・・。 覚悟し、春貴はすっくと席から立ち上がった。そんな彼を、理代子は怪訝そうな目で見て、首の動きで座るように促す。 「ごめん、黒咲。俺もう限界だ」 そう呟く彼の手には既に、鈍く光る甲殻―――――――漆黒の断章が纏われていた。
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