俺には、出来なかった。 あの引き鉄を引いて、あの男を殺すことは、出来なかった。怖かった。どうしようもない恐怖感が、背筋から這いより。手の震えが止まらなくなって、 照準が定まらなくなった。そうして男を撃つことなく、春貴はビルの中へと逃げ込むように駆け込んだ。 これは、逃げたのだろうか。 それとも、正しい選択だったのだろうか。 俺は本当は、あそこで撃つべきだったのだろうか。あの男は本当は、死を望んでいたのではないのか。それを知る術はない。いや、知りたくない。 明確な答えを突きつけられれば、それこそ発狂してしまいそうだった。これが、殺し合いの場―――――本当の戦場というものなのか。 心底肝が冷える。吐き気が止まらない。生きた心地がしない。自分が本当に生きているのか、これは現実なのか、時たま不確かになる。希薄だ。 こんな戦場で、お袋も、あの黒咲っていう女も、山田のオッサンも、内藤さんも・・・みんな、戦ってきたのか。 耐えられない。ここは、かつて春貴が身を投じていた戦いの場とは似ても似つかない。生を得る為に死が飛び交い、その下を人々は慄きながら戦う。 生き延びる為になら、構わず両手を赤に変える。そんな世界だ。 そんな世界に、俺は今まで無縁と過ごしてきた。想像もしなかった。出来なかった。こんな世界など。 『大丈夫か、春貴。体調が芳しくないな。休息を取るか?』 「う、うるせえ・・・」 元はと言えば、原因は全てお前の所為だろうが・・・・とがなりたくなるのを、春貴は必死で堪えた。確かに原因はウィスパーにあるが、非はないのだ。 彼が春貴に突きつけたものは、あの男の生死と、そして春貴が今いる戦場の実情だ。 そのはずなのだが、やはり怒りが込み上げる。いくら俺にそのことを教えるためとはいえ、それに人の命を使うのはいったいどういった了見だろうか。 ウィスパーの言葉が、真意が分からなくなりそうだ。 「くそッ、どこまで敵を追って行ってやがるんだ、あの女は・・・」 吐き気と、精神的な疲労に早くも朦朧とし始めた意識を叱咤し、春貴は無理矢理に身体を動かして急いだ。 ビルの中には、至る所に死体が転がっていた。どの死体にも、くっきりとした弾痕が刻まれている。全て、理代子が殺したのだ。 四十代ぐらいの中年のオッサンもあるかと思えば春貴と同年の青年の死体も転がっている。みな、一様に死んでいた。 春貴は彼らの一人一人の顔を確認し、手を合わせることさえ出来なかった。死体の転がる廊下を進むに連れて、断続的な銃声が聞こえてくる。 そしてそれは、段々と近づいていた。 角を曲がると、そこで理代子が足止めを喰らっていた。大きなホールを挟んだ廊下で、向かい側に粗大のバリケードを張った敵に苦戦しているようだ。 どうやら敵も背水の陣のようで、集められるだけの人員と武器をここに集中させているようである。春貴は理代子の後ろにつく。 「悪い、遅れた」 「そんな言葉は良いから、援護して!」 理代子は角からウージーの銃口だけを覗かせ、バリケードに向って銃弾を撃ち放つ。だが、サブマシンガンの弾では貫通できないようだ。 弾丸はデスクやら棚やらを引っ繰り返したバリケードに当たりはするが、その向こう側の敵は健全と応射してくる。 それでも敢然と次々に弾丸を叩き込む理代子だったが、流石にウージーの弾が尽きたようだ。どうやら、マガジンもこれで最後らしい。 ホールドオープンしたウージーに見切りをつけ、捨て去る。そしてヒップホルスターからソーコムを引き抜くと、彼女は春貴へと向き直る。 「君に頼む」 「なにを?」 「拳銃ではあのバリケードは突破できない。しかし、君の持っているカービンライフルならそれが可能だ。横薙ぎに撃つだけでいい、  そうすればバリケードの物陰に隠れている敵の大半は殺せる。その隙に私が接近し、一気に片を付ける。いいな?」 「・・・分かった」 春貴は、断らなかった。理代子と交代するように、彼は角の間近へと移動し、ライフルを構えた。心臓が、早鐘を打っているのが鮮明に分かる。 ただ適当にあのバリケードに向って弾丸をばら撒くだけでいい―――――彼女はそう言った。それだけのことなのに、恐怖感がどうしても拭いきれない。 もしここで自分が撃った銃弾で、誰かが死んだら。そう思うと、ぞっとせずにはいられない。 しかし、撃たねばならない。でなければ、自分だけでなく周囲の人間――――――理代子にまで、危害が及ぶかもしれない。 先の死にかけの男の姿が脳裏に浮かんだかと思うと、それがすっと理代子へと挿し変わった。 あの男のように、傷つき、今にも死に絶えようとしている理代子の姿が思い浮かぶ。全身から血の気が引いていった。 「くそっ・・・!」 悪態をつくと、彼は覚悟した。銃口を角から突き出し、敵の隠れているバリケードへと向ける。初弾はもう装填されていた。あとは、このトリガーを引くだけ。 重いと思っていた引き鉄は、あっさりと引き絞れた。 それと同時に、ライフルから銃弾が矢継ぎ早に飛び出していった。その鉛の群れは、狂ったようにバリケードに突き刺さり、貫く。 着弾すると、バリケードの向こうからはくぐもった悲鳴と叫びが幾つも聞こえてきたが、春貴は撃つことを止めはしなかった。 フルオートで撃ち続けたライフルのボルトが引ききり、残弾が無くなったことを告げる。すると彼は澱みない手つきでマガジンを交換すると、蹂躙を再開した。 既に蜂の巣にされたバリケードに、とどめと言わんばかりに更に銃弾が突き刺さり、更に多くの悲鳴が上がる。 「もういい」 一心不乱に撃ち続ける春貴の耳元に、理代子はそっと告げた。そして彼女はライフルのハンドカバーに手を添えると、銃口を下ろさせる。 春貴は、そこでやっと我を取り戻した気がした。気付いた時には、耳元で囁いていた理代子はもうバリケードに肉迫し、その内へと踊り込んでいた。 彼女のスーツ姿が翻るようにバリケード内に消えると、乾いた銃声と微かな絶叫が耳に届いた。 あの銃撃の中で生き残った者たちを、彼女は今度こそ迷わないようにと、最後の施しをしているのだ。彼女に比べれば、俺はまだ幸運だ。 俺はただ、バリケードに隠れている敵をライフルで撃っただけだ。何人が、どんな風に死んだのか、目の当たりにすることはない。 しかし彼女は違う。逃げ惑う敵を眼前に、一切の感情を交えずに死神のように冷酷に、その一人一人に最後の弾丸を洗礼する。地獄だ。 「琴坂春貴、掃討は終わった。先に進もう」 返事を返すことなく、春貴はその言葉に従った。少しばかり頼り無い足取りでバリケードにまで近づき、そのガラクタの山を登る。 バリケードに弾痕のついていない場所はなかった。理代子の撃ったサブマシンガンの跡から、先ほど春貴自信が撃ったライフルの跡まで。 バリケードを越えると、そこはもう文字通りに血の海だった。 流れ出た血は咽返る様な生々しい匂いを発し、春貴の身体に死臭となって染み付く。転がっている死体は、ざっと二十人前後。 今まで確認した死体も総合すると、敵は本当にここが最後の正念場だったようだ。その死体の全ては、苦悶と恐怖と絶望に縛られた表情をしている。 楽に死ねた者は、一人もいないようだった。己の罪深さに、心臓を抉られるような怖気を覚える。この一人一人に親が、兄弟が、親しい友がいたのかもしれない。 春貴はその死骸達を申し訳無さそうに一瞥すると、そのまま足を進め、理代子の後に続いた。 彼女の背中を追う様にして進むと、暫くしてから大きなオフィスフロアに出た。ワンフロアが丸ごと一つ、オフィスとなっているようで、かなり広い。 床に積もっている埃は厚く、その上をデスクやその他の設備を動かした跡が見受けられる。恐らく、先のバリケードの材料が運ばれた跡だろう。 デスクも椅子も棚も照明も何もかも無くなったフロアは、何も残ってはいない。おまけにどこかのガラスが割れているのか、隙間風も吹いている。 酷く殺風景だった。けれども、二人は警戒を緩めはしなかった。こういう場所にこそ、トラップや警報があるものだからだ。 慎重に進路の安全を確認しながら、二人は一歩一歩足を踏み出していく。 「そんなに構えなくても、そこにはなんにもねえよ」 「ッ!?」 突然の声に、二人は身を強張らせて銃を構え直す。互いに背中を合わせて周囲を見渡し、銃口を向ける。だが、人影は見当たらない。 「ここだ、ここ」 すると、上の階に上るための階段から、一人の男が飄々とした態度で下りてきた。春貴は、その男に嫌というほど見覚えがあった。 響次だ。 オフルマズドという名を聞いたとき、この男と戦うことは既に予測できていたし、覚悟もしていた。恐らく、あの巨漢の男―――――オックスもいるのだろう。 すると案の定、響次に続いて、オックスがのっそりとした動きで姿を現した。春貴は彼らに見覚えがあるが、理代子にはない。 彼女は見たことのない敵に警戒心を最大限に高め、ソーコムの銃口を向けていた。 「またまた会ったね、お若いの。出来れば、その隣りの姐さんも含めて、銃を下ろしてくんねえかな?」 「ざけんな。そんな言葉に従う馬鹿が何処にいるってんだよ」 「頼むぜ、お若いの。こっちは今日は喧嘩する気はねえんだ。少し話がしたいだけさ・・・・・俺らのリーダーがな」 「リーダー・・・?」 響次とオックスのリーダー・・・。つまり、オフルマズドの指揮者ということか。冷静に思考を巡らせる。 例え不意打ちを喰らったとしても、俺には並大抵の攻撃はまったく意味がない。いざとなれば、理代子の盾となることも可能である。 それならば、相手の要求を呑んで、敵の親玉の面をおがんでおくのも、偏に悪いこととは言えない。むしろ、要求を呑むほうがベストかもしれない。 「分かった。銃は下ろす・・・話を聞こうじゃねえか」 そう言って、春貴は銃を下ろし、トリガーから指を離した。理代子も春貴の考えが分かっているのか、特に反発することなく、同じように銃を下ろしてくれた。 それを確認すると、響次は階段の上に向って呼びかけた。 「おーい、リーダー。アンタの言うとおりに、武器は下ろして貰ったぜ」 すると暫くしてから、靴音を伴って、一人の男が階段から下りてくる。その姿は、流麗な雰囲気を持っている。 男は階段を下りると、真っ直ぐに春貴と理代子へと向き直る。真正面から、男は二人を見据えた。 「なっ!?」 「これはいったい・・・・!」 そして二人同時に、驚愕の声をあげる。それは、二人を見据えた男の顔が、余りにも似すぎていたからだ。 理代子の傍らに立っている男に――――――――、そう。 その男の顔は、春貴と鏡写しのように瓜二つであった。 同一人物が同時に存在しているかのような光景に、理代子は言葉を失った。春貴も同様だ。 しかし確かにその男の顔は春貴とは瓜二つであったが、雰囲気は違った。全く、似ていなかった。先ず、髪の色が違う。 春貴の髪の色は墨を流したような黒だが・・・その男は、雪のような白髪だった。 服装に関してもそうだ、春貴は黒い学ランだが、男はチャイナ服のように身体にフィットした純白の服を纏っていた。 余りにも似ているというのに、二人は端から見ると歪なまでに非対称であった。まるで、光と影のようである。 「ようやく会えたな・・・。別たれし我が兄弟よ」 声も、春貴とは違った。男の声は春貴のように男らしい声ではなく、男のくせにまるで鈴でも転がしたかのような、音の高い少年の声だ。 本当に、似ているのは顔だけのようだ。あとは何から何までが春貴と正反対である。 「兄弟・・・?俺に、そんなのはいねえよ」 「そうか、やはりお前には記憶が無いんだな・・・・・・こうして生まれ変わる前の――――――“正門蒼志”としての記憶が」 「まさかど・・・そうし・・・?」 その名を呟くと、頭の奥がズキリと痛んだ。まるで脳が、何かを訴えているようである。酷く痛い・・・というほどではないが、無視できる程度でもない。 「俺は・・・琴坂、春貴だ・・・。お前なんか、知らない。ましてや、兄弟なんかでもない・・・」 「頑なだな。そうまでして私を――――“正門蒼志”としての己が存在を拒むのか」 兄弟――――――。そういえば、今朝見た夢にも、同じような言葉を聞いた。別たれし、魂の兄弟。命の、共有者。 まさか、あの夢は正夢で、この男が本当に俺の―――――――魂の兄弟だというのか。そもそも、魂の兄弟とは何なのだ。 命の共有とは、どういう意味だ。 「まあいい。記憶がないのであれば、その自我に縋りつくもまた良し。私は、“正門蒼志”として生きる。ただ、私とお前は兄弟だということだけは忘れるな」 「まだ言うか・・・!」 男に――――――――正門蒼志と名乗る男に、春貴は怒りを隠しもせずに拳を向けた。 手の甲に十字の傷が走り、黒いタール状の液体が飛び出すと、瞬く間に手を覆い尽くし、みるみると凝固して―――――黒い甲殻を成した。 漆黒の断章を、展開したのである。 その後ろでは理代子が、その春貴の行動に舌打ちした。あれほど別脈種としての力は使うなと言われていたのに、春貴はそれをいともあっさりと破ったからだ。 だが、当の春貴はそれどころではなかった。 頭が、痛い。気分が酷い、吐き気がする、色々な意味で胸糞が悪い。正門蒼志の言葉は、その一つ一つが、春貴に見えない毒となって蝕んでいるようだった。 先の惨状で参り始めている神経が、さらにすり減らされる。 「その減らず口・・・一生きけないようにしてやるよ・・・!」 春貴は銃を放り捨てると、両の拳を構えて突進した。内気で増強された、羅種の筋肉をフルに活用した、弾丸のような疾走。 彼の身体は疾風のようにフロアを駆け抜け、一秒もしない内に正門蒼志へと肉迫する。そして、自重約二トンの拳を力任せに振り下ろした。 どんな手立てをもってしても、この一撃を防ぐことは叶わない―――――――砕け散ろ。 ずどん、という爆発にも似た衝撃音がフロアを―――――ビル全体を揺さぶった。衝撃に埃が舞い上がり、あたりを包み込む。 手ごたえ有りだ。顔面のど真ん中に、文句なしに命中した。きっと、奴は首から上が根こそぎ吹き飛ばされたことだろう。 そう思った。春貴も、ウィスパーも。その一連の攻撃を、あまりの速さに制止することが出来なかった周囲の人間も・・・誰もが、死んだと思った。 しかし現実は違えられた。 「憎いのか、この私が?」 「ッ!?」 舞い上がった埃が晴れると、そこには驚愕の光景が広がっていた。 正門蒼志は、健在だった。それどころか、全くダメージを受けていない。オックスや響次が成す術も無かった漆黒の断章を、この男は容易く凌いだのである。 だが春貴には、漆黒の断章が受け止められたことは大して問題ではなかった。問題なのは・・・・・。 正門蒼志の手に――――――白い“漆黒の断章”があるということだった。 雪のように白い甲殻に、黒く光る関節。そして、手の甲に刻まれた十字の傷・・・。その白い“漆黒の断章”が、春貴の漆黒の断章の一撃を受け止めている。 魂の兄弟―――――。命の共有者―――――――。夢の中の言葉が反芻する。この男と、自分は兄弟であるという事実が、また一つ確かな根拠を得たような気がした。 認めたくない。認めるわけにはいかない。この男の戯言など・・・世迷言など・・・事実にするわけには、いかない。 心が、そう哀哭していた。 何故かは分からない。だけど俺の心が・・・本能が、この男を否定しろと叫びをあげるのだ。 「言っただろう・・・私たちは、兄弟なのだと。お前が持っている物は、私もまた持っているのだよ」 「ふんっ・・・ぐぬぬ!」 受け止められた拳を抜き取ろうと春貴は唸るが、拳はぴくりとも動かなかった。がっちりと掴み込まれ、全く動かすことが出来ない。 その春貴の様を哀れみを孕んだ視線で、蒼志は見下ろした。そして受け止めていないほうの手を、ゆっくりと振り上げる。 「壊乱せよ・・・“白亜の断章”」 振り上げた白亜の断章を中心に、風が渦巻く。それは白亜の断章が自重を増加する為に放出され、溢れ出た内気の渦だった。 外見からは分からないが、いま白亜の断章はその重さを約数十トンとまで高めていた。そんな一撃を被れば、春貴でも無傷ではすまない。 しかしそんなことに構っている間もなく、白亜の断章は振り下ろされた。超高質量の拳が、春貴へと襲い掛かる。 春貴は白亜の断章の前に成す術も無く、そのたった一撃で独楽のように吹き飛ばされた。 そのまま失速することなくフロアの端まで飛ばされると、窓ガラスを突き破って外へと身体が飛び出していく。 重力に引かれ、彼は地面へと吸い寄せられた。背中から、アスファルトに叩きつけられ、その衝撃に肺から空気が漏れ、掠れるような呻き声が漏れる。 動かなくなる。 道路のアスファルトは彼の落下の衝撃により、小さなクレーターを成していた。その中心に彼は、沈黙したまま大の字で横たわっていた。 指先が一分と動く気配もない。どうやら、完全に気を失っているようだ。 「春貴!」 理代子は慌てて春貴が落下していった窓まで駆け寄ると、派手に空いたガラスの穴から顔を突き出して、下を窺った。 そして、春貴がまだ生きているようであることを確認した。そのまま、すぐに銃を構えて蒼志たちに向き直る。射殺すような眼差しだ。 「大丈夫、私たちはもう手出しはしない。助けに向え」 睨みつけながら銃を構える理代子に、蒼志は穏和に言う。だが彼女は沈黙したまま、銃を向け続けた。 「・・・信用ないな・・・。なに、私はもう手出しはしないよ。彼に、しっぺ返しをくらってしまったからね」 そう言うと、彼は自嘲気味に自分の胸を指差した。すると、何時の間にか彼の胸部は鮮血に染まっていた。 先の白亜の断章の攻撃を繰り出した際に、土壇場で春貴が漆黒の断章の爪で斬り付けたのだろう。全く、ただでは転ばない男だ。 蒼志はそれだけを告げると、理代子に背を向け、階段を上って行く。その後に、響次とオックスが続く。どうやら本当にこれ以上危害を加えるつもりはないようだ。 すると風に乗って、微かにヘリのローター音が聞こえてきた。蒼志たちはこのまま屋上まで上り、そこからヘリに乗って撤退するのだろう。 こちらは春貴が負傷していることと、足が車であるということから、追跡は無理だろう。特にこの廃ビル群は道が入り組んでいて、陸からでの追跡は更に困難を極める。 蒼志達が完全に行ったことを確認すると、理代子はホルスターに拳銃を戻して、春貴の元へと急いだ。 十数階の階段を転がるように駆け下りると、理代子はビルの前の道路に大の字で横たわっている春貴へと向って走った。 彼の傍まで来て屈み込むと、急いで容態を確認する。身体中の様々な部位の骨が骨折していたが・・・それは、彼のバケモノじみた治癒力で既に回復にむかいつつあった。 その他にも、触診で内臓を数箇所やられていることも分かったが、これもまた彼の身体が自力で治癒しきろうとしている。 つまり、つい先ほどまでは重症だったのが、今はもうそのほとんどが治りかけていたとうことだ。不死身の体質というのも、なかなか便利なようだ。 「あっ・・・・いっつつ・・・」 「起きたか、琴坂春貴」 「あれ、ここは・・・」 目覚めると、春貴は自分の顔を覗き込んでいる理代子の顔を不思議そうに見上げ、きょろきょろと周囲に視線をめぐらせた。そうして、自分がどうなったのかを悟った。 負けたのだ。 たった一撃で、完膚なきまでに。離れ際に、苦し紛れの一撃を繰り出したが、それも今となってはもう意味がない。敗北したのだ、俺は。 自分がまだ修行中の見であることと、この漆黒の断章を使い慣れていない身であることを分かりつつも、言いようのない虚無感が押し寄せてくる。 そういえば、こんなことに巻き込まれる前は、俺は生まれてから一度も喧嘩で負けたことがないのが自慢だったっけ。この死ににくい体質を生かして、 無謀な喧嘩を繰り返したものだ。 そういったものが、いま自分が足を踏み入れている世界では、どれほど拙い物なのか・・・・。 無邪気に、無敗を誇らしげに語る昔の自分の姿が、酷く滑稽に思える。あのころは、自分が一番強いのだと本当に思っていた。自惚れていた。 それは、なんて愚かで尊いことだったのだろう。余りにも狭く、平穏な世界で、血と悲鳴のしないオママゴトのような喧嘩に明け暮れた日々は。 なんと儚い、輝いたものだったのだろう。この世界に足を踏み入れて、自分が何を得て、何を失ったのか。それをこの瞬間に、初めて知った。 「戻ろう。もう、ここにはなんの価値もない・・・」 脱力する春貴を、理代子は肩を支えて立たせる。彼女の首筋から、微かに香水の匂いが漂ってきた。柑橘系のもので、涼しげな印象だ。 だがその香も、自分の身体から咽帰る血と硝煙の臭いに掻き消される。 よたよたと、引き摺られるように歩く。そして何とか、駐車していた彼女のロードスターにまで辿り付く。 未だ呆然とする春貴を彼女は助手席に座らせると、自身も運転席に座った。アクセルを踏み込んで、車を発進させる。そうして、まるで逃げるように廃ビル群を離れた。 その中で、理代子はラジオ代わりにカーナビのテレビを付けた。チャンネルは、国営放送。今はニュースをやっていた。 ニュースは、陰鬱な内容のものばかりだった。どこかで殺人事件が起きて、どこかで誰かが自殺して、不幸な事故があって、強盗、不正、密入国・・・。 うんざりだ。 俺がこんなに必死になって戦っている最中にも、世界はいつも通りに日々を過ごしている。変わってしまった世界は、自分の見ていた世界だけだ。 俺は世間のために戦っているわけじゃない。俺は、星火のために戦っている。だから、こんな風に思うのは酷く的外れなことだ。そうだ、分かっているんだ。 けど、自分は死にそうになっているというのに、世界はこんなにも愚鈍で、間抜けで、白痴のように馬鹿に過ごしているのは・・・・不条理としか感じられない。 心が闇に翳っていく。 「――――――続いて、数ヶ月前から起こっている政界人の連続殺人事件についての続報です。昨日未明、民主党の秋俣大志議員が自宅で殺され―――――」 不意に、液晶ディスプレイに映るニュースアナウンサーの読み上げる内容が耳に入った。そういえば、こんな事件もあったな。 今から大体半年ぐらい前―――――五月に入る直前ぐらいの時期に、ある政党の大物議員が殺害される事件が起きた。最近の日本が物騒なのは言うまでもないことだが、 いくら何でも議員が何者かに殺害されるということは稀であった。警察は当初、国内外のテロ組織による犯行だと判断し捜査したが、この事件に関連するような、 声明を発表しているテロ組織は該当するものが無かった。そして止む無く怨恨などの線に切り替えたが、それも決定的なものは何も得られなかった。 そしてそのまま、決定打が何も出ずに一週間が過ぎ、世間からもそろそろ事件があった事実が薄れかかった時――――――。事は再び起きた。 今度は、国務大臣が殺害されたのである。詳しい犯行の内容は報道されなかったが、どうやら手口は前回の議員殺害の時と同じだったそうだ。 同一犯の犯行として警察もまた全力を尽くして捜査したが、それもまた無為な努力に終わった。犯人像が、全く浮かび上がらないのだ。 目撃者も、恨みを持つ者も、アリバイの無い者も・・・値する者が、一人もいなかった。 警察が手をこまねいている間にも、犠牲者は次々と出た。ターゲットは議員、大臣から、外交官や警察署長など多岐に及び、国中が恐怖のどん底に陥れられた。 そんな大胆かつ連続的に犯行が行われているにも関わらず、現在でも証拠や証言は全く得られていないという有り様だそうだ。 これが、いま日本で起きている最も問題視されている要人連続殺害事件の、世間に出回っている全容である。 「なあ、この事件・・・KOTRTも捜査とかに協力してるのか?」 急に口を開いたかと思えば、聞いてきたことがそんな内容だったので理代子は面食らった様子だが、素直に答えてくれた。 「ええ。この事件の犯人は、君も勘付いているだろうけど―――――十中八九、別脈種だ。我々KOTRTも、全力を注いで調査している」 「オフルマズドなのか?」 「それは違う」 「そうか・・・・でも、何でこんなに、殺すんだろうな。なんか恨みでもあんのか・・・」 「それは実際に捕まえてみるまでなんとも言えないな。KOTRTでも上層部の方は、少しばかりでも犯人の目星をつけているそうだが、やはりどうしようもない状況らしい」 「足りねえのか・・・」 「ああ、圧倒的に証拠が足りない。犯人はまるで透明人間なのかと思うほどだ。指紋や目撃情報、他にも監視システムの警備記録にも、一切姿を残していない」 春貴は漠然と―――――――このまま世界は、どうなってしまうのだろうと、子供のように疑問に思った。 こんな風に人がどんどん死んでいって、どんどん世界が人間にとって住みにくくなっていって・・・人は、どうなるのだろう。何処へ、向うのだろう。 そんなことを考える自分を春貴は自嘲すると、学ランの襟に顔を埋めた。そして、戦いの疲れを癒すように眠りに落ちた。 マンションの前まで送ってもらうと、春貴と理代子はお互いに簡素な礼を交わした。彼女は仕事がまだ残っているからと、部屋に上がっていくことも無く去っていった。 車を見送り、取り残された春貴は部屋へと戻った。フロントを通り、従業員に会釈する。フロントの照明に照らされた自分の姿を見て春貴は、 先の戦闘の凄まじさを知った。一張羅の学ランは所々に弾痕が穿たれ、おまけに、気付かなかったが何箇所か身体が撃たれていた。その証拠に、服に血が滲んでいる。 それに埃は全身いたるところに付着し、ものすごくみすぼらしい風体となっている。 そんな自分の恰好に気恥ずかしさを覚えながら、春貴は部屋へと急いだ。 「ただいま・・・」 入ってすぐに、春貴は室内の異様な静けさに気付いた。腕時計を見ると、時刻はもう午後六時過ぎ。夕飯ととっていてもいい時間帯だ。 だが、そんな音は聞こえてこない。電気はついているが、不気味なまでに音がしない。自然と、身体が緊張に張り詰める。 まさか、ここが襲撃されたのか・・・。 鼓動を早める心臓をなだめながら、春貴は一歩一歩慎重に歩いて、リビングへと向った。そして、それまでの緊張が全て杞憂に終わったことを知る。 「なにやってんだ、お前ら・・・」 「あ、おかえりハルキ」 「む。戻ったか」 真剣な面持ちの星火と内藤は、帰ってきた春貴に振り向くことなく言った。 彼らは、熱中していた。テーブルゲームでも一際と名を馳せるこの玩具――――――――――ジェンガに。 そして、そのブロック一本一本を引く抜く二人の姿は、まるでガンマンの果し合いのような緊張感を醸し出していた。 「なんでジェンガ・・・てゆーか、どこにあったんだよ、こんなの」 「今日、内藤に買ってもらった」 次に何処に積むべきかを思案しながら、星火は答える。 「うむ。いや、彼女があまりにも退屈そうだったのでな。私が気分転換も兼ねて外に連れ出し、偶然に見つけた玩具店に入ったところ、これが在庫セールで安かったのだ」 「それで、お昼からずっと勝負してるの」 「昼から!?お前ら正気か!いま六時ってことは、約六時間ぶっ通しかよ!」 「因みに、私が二十五勝して、内藤が三十七勝。だから、いま挽回してるとこなの」 「聞いてねえ!」 「これはバランス感覚を養うのに良いな・・・」 そんなずば抜けた集中力を、こんな無駄なことに費やす二人に呆れながらも、春貴は安堵した。先までの陰鬱な思考が、今は嘘のようになくなっている。 この二人の雰囲気が、いい意味で移ったのだろう。そうだ、俺はなにを絶望し屈折していたんだろう。何を憤る必要があったんだろう。 俺を取り巻く世界なんて関係無い、俺には俺の見ている世界があって、その中にこんなにも愛しい人々がいる。そして、そんな彼らが俺を癒してくれる。 これが、何物にも勝る幸福だ。 だから俺は戦えるのだろう。どれだけ傷ついても絶望しても、俺が愛する人々がいる限り、俺を愛してくれる人がいる限り。俺は俺の世界のために戦う。 明日も戦おう。明後日も、その次の日も。俺は俺の世界を守ろう。たぶんそれが―――――――――人が生きるという事だから。 蒼志達を乗せたヘリは、ビルから撤退したその足で、京都の山中深くへと向っていた。 まだ一般に公開されていない最新型のヘリの足は予想以上に早く、東京から京都まで一時間足らずで到着できた。 すると、周囲の山々が急に拓け、大きな盆地がヘリの前に現れる。恐ろしく広いその盆地の中に、ぽつんと屋敷が建っていた。 ヘリはその門前に着陸し、蒼志たちはヘリを降りた。ひとりでに開く門をくぐると、彼らは屋敷内へとズカズカと足を踏み入れる。 すると屋敷のほうから、数人の女中が出てきた。彼女達は突然の蒼志達の訪問に、かなり動揺しているようである。 「ど、どうなされましたのですか蒼志様?こんなお時間に、それに今日は御館様はいらっしゃらないとご存知筈では―――――」 「今日は御館様に会いに来たわけではない」 蒼志は慌てふためく女中の脇を、無視するかのように通り過ぎる。そうして彼は響次とオックスを率いて、屋敷の中へと入っていった。 中は、まるでここだけが平安時代に取り残されたかのような、立派な寝殿造りであった。おまけに、相当に広い。 その長い廊下を、三人のオフルマズドが悠然を歩く。 「では今日はどういったご用向きで・・・」 「例のロシア人を借り受ける。御館様には許可は貰っている」 彼は一枚の書類を投げ捨てるように女中に渡した。彼の言う、例のロシア人――――――女中はそれを聞いて、顔を青ざめた。 「そ、そんな!危険です、いくら蒼志様といえど、あの蛮人に接するなど――――――」 「黙れ。そしてこれ以上ついてくるな。・・・・死ぬぞ?」 蒼志の冷酷な視線に見つめられ、女中はまるで金縛りにあったかのように硬直し、動かなくなった。蒼志はその様を鼻で嘲笑うと、先を急ぐ。 いくら真門の家に仕える女中と言えど、所詮は人間。人間如きが、別脈種においそれと話し掛けるなど、無礼も甚だしい。 それに私は、いずれはこの世界を救う存在なのだ。あのような下郎が話し掛けていい存在ではない。私は、崇高な存在なのだ・・・。 歩みを進めていくうちに、蒼志達は南京錠で頑丈に閉ざされた鉄扉の間に辿り付いた。 その鉄扉には、よく分からない、漢字とも記号ともつかない文字が書かれたお札がびっしりと張られている。彼にはその札が、 あらゆる錬精術を無効化する代物だということが分かった。その他にも、物理的なダメージを無効化にする札なども見受けられる。 厳重さから、その扉の内に住まうものの恐ろしさが伝わってくる。 「リーダー、ここは・・・」 「ふ、怖いのか響次。お前でも」 「当たり前だ。こんな空気、生まれて初めてだぜ・・・」 彼も、空気から異質さを感じ取っているようだ。口を開かないがオックスも、何か異様なものを感じ取っている様である。 蒼志はそんな二人に構わず南京錠に手をかけると、予め貰っていたカギを差込み、封を外した。そして、重たい鉄扉を開く。 錆びた金属の擦れる音ともに扉が開いていく、すると中からは、射殺すような殺気が空気にのって噴出す。 響次とオックスは、その殺気に身震いした。数多の別脈種や、KOTRTとも戦ったことのある彼らが慄く空気・・・常人ならば、すぐさま失神しているだろう。 開かれた鉄扉の中は、表の厳重さとは打って変って、なんとも質素な造りだった。スチール製の椅子と机が一対ずつあり、そして小さな本棚が一つ。それだけだ。 そんな物悲しさの漂う部屋の真ん中に、椅子に腰掛けて本を読んでいる一人の初老の男――――――。彼に、蒼志は話し掛ける。 「久しいな、セルゲイ。変わりないようだ」 「・・・・その声は蒼志だな。お前も、その態度は相変わらずだな」 初老の男――――――セルゲイは、本から目を離さずに受け答えする。 身長は百七十ほどで、割腹のいい体型だ。口には立派な髭がたくわえられ、まるで頭を二分する線のようである。それが、このセルゲイの大方の外見的特長だ。 そんな何の変哲も無いような男が、この一帯に立ち込める異様な空気の原因だとは、にわかに信じがたい話である。 だが響次やオックスも、伊達でオフルマズドにいるわけではない。外見に惑わされずに相手の力量を推し測ることぐらいはできる。 そして、慄く。このセルゲイと呼ばれる男の、底の知れなさを・・・・・。 「今日は何の用で来た?やっと私のボルシチを食べる気になってくれたかね?」 「あんなゲロみたいな物を、食う気になるわけがないだろう」 「酷いな・・・」 「そんなことはどうでもいい。お前に、ここから出てもらう」 「・・・何だって?」 そこで初めて、セルゲイは蒼志へと顔を向けた。 「我々オフルマズドのために、力を貸してもらおうか・・・。別脈種でも禁忌中の禁忌と、忌み嫌われた最強の羅種――――――竜種としての力を」 「なッ!?リーダー、こいつがあの竜種だっていうのか!?嘘だろ!」 「事実だ」 「けどよ、史実では五百年も前に血筋は完全に途絶えたって・・・!」 「それは単なるカバーストーリーにすぎん。コイツは“学院”の馬鹿な学者どもがこっそりと匿っていた、正真正銘の竜種。それも最後の生き残りだ」 響次は、生きた心地がしなくなった。ただでさえ、この異様な殺気漂う空気に参っているというのに、その上にこんな重大な事実を突きつけられてはひとたまりも無い。 竜種――――――。それは太古、羅種の中で最強の名を欲しいがままにした血統種の名である。 羅種は賢種とは違って、独自の格付けを持っている。先ず下等の種族として、獣人種。そして、その上に鬼種が君臨している。 余談ではあるが、春貴とその母も共に羅種の鬼種である。 竜種とは、その鬼種の更に上を行く種族であった。いや、強力過ぎたのである。どんな別脈種の追随も許さないその圧倒的な戦闘力は、如何な生物も無力であった。 そして今から約五百年前に、竜種の大討伐が行われたのである。その詳しい内容は残ってはいないが、凄惨を極める戦いであったことは確かだ。 このセルゲイは、その竜種の最後の生き残りだというのだ。響次が驚くのも無理はない。 「強さも半端ではないぞ。なにせこの男を捕縛するために、あの哉原諺該が命を落としたぐらいだからな」 「最強の人間として恐れられた、哉原の御老公をか!?・・・・なんてバケモンだよ、おい・・・」 益々生きた心地がしなくなる響次を他所に、蒼志は口元に嬉しそうに笑みを浮かべていた。 「さあ・・・・・・ここからが、本当のショータイムだ―――――――春貴・・・!」 最凶最悪の生物を前にして、蒼志は満足げに呟く。 その表情には、言い知れぬ闇が翳っていた。
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