私立東條高校の職員室は、朝から賑わいを見せていた。 教職員がプリントの束を抱えてコピー機に走ったり、他の教諭と意見を交わしたり、しきりに何処かへ電話をかけたりなど、 およそ普通の高校の職員室の朝とは違った様相をなしていた。それもこれも、全ては県内でも有数の進学校であるという地位をより高める為。 だが、そんな職員室を、あっさりと静寂に変える者がいた。琴坂春貴、その男だ。 彼が職員室に入ると同時に、室内は凪いだ海のような静けさに包まれた。何せ、春貴が自ら職員室に訪れるということじたいが初めてであったからだ。 彼はよく注意などで職員室に呼び出されることにかけては全校生徒中で申し分なくトップだったが、自らの意志で職員室へと足を運ぶと言う事は皆無であった。 春貴は職員室へ入ると、硬直した教諭たちには目もくれず、教頭の席へと向うと、一つの茶封筒を差し出した。 教頭はそれを爆弾でも受け取るかのように恐る恐る手に取ると、そこに書かれている文字を見て驚愕した。 茶封筒には大きく黒いマジックで、こう書かれていたからだ。 退学届、と。 嬉しさ半分、惜しさと恐ろしさ半分という、なんとも形容し難い感情が教頭を襲った。彼は、これは間違いではないのか、本気なのかと丁重に春貴にたずねる。 それに春貴は、ああ、そのとおりだ、と仏頂面で答えた。その返答の度に教頭は寿命が縮むような思いをする。 そして春貴の退学の決意が本物であると分かると、冷や汗を流しながら、分かったと言って封筒を引き出しに収めた。 「長い間、お世話になりました」 最後に春貴はそう言って、深く頭を下げた。これには、職員室にいた全ての人間が度肝を抜かれた。 あの琴坂春貴が、あろうことか教師に頭を下げる。急な退学届の提出といい、この一礼といい、教師達は思わず目をこすった。 そんな周囲の反応には構いもせず、春貴は頭を下げ終えるとさっさと職員室を出て行った。ぱたん、とドアが閉じられ、一拍おいてから、 教頭の席に教師達が殺到した。 「どういうことですか教頭!?琴坂は学校を辞める気なんですか!?」 「何でいまさらになってアイツはあんなしおらしい態度を取ったんです!?」 「てゆーか頭下げましたよね、頭!教頭なにか琴坂の弱みでも握ってるんですか!?」 「本当にアイツはこの学校を辞めるんですか?そうなんですか!?よかった、これでストレス性の胃炎から解放される!」 「私もいちいち壊された用具の修理のために用務員に頭を下げずにすむ!」 「ああ、これでやっと平和な授業が再開出来ますな!!」 本人が居ないのをいいことに、教師達は好き放題に喚き散らす。だがそんな阿鼻叫喚の中、教頭だけが沈黙していた。その手には、先ほどの封筒が握られている。 教頭は、春貴のことを良く知っていた。いや、この学校の教師全員が春貴のことを悪い意味でよく知っていた。 素行が悪く、横暴で、教師も生徒構わずにすぐ人を殴り、何故か同クラスの神埼という男子生徒と仲が良い――――と。 東條高校の中で目立って浮いた存在の彼だったが、教頭は知っていた。彼は確かにあのように素行の悪い行動をするが、欠席したことだけは一度も無かった。 そこから彼は、春貴はきっと根は真面目な子供なのだと思った。憶測の域を出ない考えではあるが、彼は確かにそう思っていた。 今となっては、それももう確かめる術は無くなってしまったが。教頭は封筒を握り締め、騒ぎ立てる教師達の中で項垂れた・・・。 職員室を出た春貴は、今は校庭を縦断していた。砂利を踏みしめながら、まっすぐに校門へと向う。その最中に、登校していく生徒達数人とすれ違った。 彼らは一様に不審な目線で春貴の横を通り過ぎたが、それ以上は何も無かった。声をかける者は、誰もいない。 そのまま、校門前に止まっている黒いセダンまで春貴は急いだ。運転しているのは山田で、このままダイソンへと車で直行するのだ。 その背中を、一人の叫びが呼び止めた。 「琴坂!!」 「・・・・・神崎か」 春貴は振り返りもせず、声だけで誰かを判別した。いや、そもそもこの学校で彼に声をかけるのは教師も含め神崎一人だけだ。識別するまでも無い。 恐らく誰かから春貴の退学のことを聞き、急いで走ってきたのだろう。全く、噂が広まるのが早い学校だ。 「どうした、そんなに急いで」 「どうしたじゃないだろう・・・なんだよ、急に退学って、どういうことだよ・・・!」 「・・・・俺が決めたことだ」 相も変わらず春貴は振り向きもせずに、冷淡に告げた。だが、内心では少し驚いていた。神崎がここまで激しい感情を見せたのは、初めてのことだったからだ。 「自分の意志で学校を辞めるっていうのか・・・?」 「そうだ」 「何でだよ、琴坂自身が言ってたじゃないか!『俺は確かに不良だけど、それを理由にして学校をサボったり勉強を投げたりはしない』って!あれは――――」 「確かに、俺はそう言った。今でもその考えは変わらない」 「だったら何でなんだよ!そんなに他に大事なことがあるのか!?」 「・・・・もう、余裕ねえんだ。学校に通いながらっていうような、生半可な状態じゃないだよ、今の俺は」 「それは、喧嘩?親の都合?」 「どれも外れだ」 周囲の登校していく生徒達は、二人のやり取りを怪訝な表情で一瞥していった。いま、神崎がどんな表情をしているのかは春貴には分からない。 きっと、物凄く怒った表情をしているだろう。当たり前だ、俺だってこんな風にいきなりダチに退学されたら、同じように怒る決まっている。 「じゃあ誰か―――――好きな人が出来たの?その人のため?」 「・・・・・・・・・・」 「答えてくれ、琴坂」 「そうだ」 春貴は知らなかった。自分が“そうだ”と言った瞬間に、神崎の顔色が絶望のどん底に叩き落されたように真っ青になったことを。 たとえ春貴がそれを知っても、何故彼がそうなったのかまでは分からないだろうが。 「神崎・・・・俺のNS-1、あれ俺んちのアパートの駐輪場に止めたまんまなんだ。俺もうアレに乗ること無いと思うから、良かったら貰ってくれや」 「どうして、あんなに気に入ってたじゃないか」 「ああ。だからこそ持って行けねえんだ」 そう、持って行けない。あのバイクには、あまりにも多くの綺麗な想い出が詰まっている。初めて乗った、あの深夜の疾走のこと。 初めてポリ公に捕まりそうになったこと。初めて転んで、タンクに傷が出来てマジで泣きそうになったこと。そして、神埼と一喜一憂しながら整備したこと。 持って行けば、それらの想い出に引き寄せられる。 それではいけない。俺は、アイツを守るためにも強くならなければいけない。そのためには、過去に引っ張られている暇など無いのだ。 それに神崎になら、あのバイクは安心して預けられる。几帳面で律儀な男だから、大事に扱ってくれるだろう。 「これ、カギ」 春貴はポケットからNS-1のキーを取り出すと、それを無造作に背後に放った。ちゃりん、と背後でキーが地面に落ちる。 神崎はそれを拾おうともせずに、ただ黙って春貴の背中を見つめ続けていた。 「もう戻って来ないの?」 「・・・・たぶん」 「そうか・・・・」 「なあ、一つ良いか神崎?」 「なに?」 「どうして、俺なんかとツルんでくれたんだ?最後に、それだけ聞かせてくれ」 長年ずっと疑問に思い続けていたことを、春貴はこの際にと思い質問した。そう、良く考えてみなくても、これはとても不自然な話しなのだ。 いくらウマが合うからといっても、並みの人間なら普通はこんな人間にはお近づきになろうとは思わない。それがエリート揃いの東條なら尚更のことだ。 だがそれでも神崎は春貴に近づき、友達にまでなってくれた。失礼だとは思うが、何らかの考えがあって近づいたのではと考えざるをえない。 「それは、その俺は琴坂の・・・・春貴のことが、入学した時からずっと・・・・・・」 「ずっと?」 肝心の言葉を言いかけて、神崎はそれを飲み込んだ。 「その・・・・なんか、仲良くなれそうだなって思ったから、ただそれだけだよ」 無理に明るい口調を繕って、神崎はそう言った。 「そうか。残念だな、聞けると思ったんだけど・・・・・ま、しゃーねーか」 「は、春貴・・・ごめん、俺――――!」 「いや、言いたくないんなら、言わなくて良い。無理矢理言ってもらっても、嬉しかねえしな」 そして再び春貴は歩き出した。決して振り向くことなく、背後で立ち尽くす神埼へと手を振った。 彼は結局一度も神崎の顔を見ぬままセダンまでたどり着くと、そのまま乗り込み、扉は閉じられた。今なら、駆けつけてもう一度さよならを言うことぐらいはできる。 だが、それはあえてしなかった。そうこうしている内に春貴を乗せたセダンは走り出し、すぐに神崎の視界から消えた。 情緒も何もあったものではない。 神崎はのろのろと歩くと、春貴が放ったNS-1のキーを拾い上げた。付着した校庭の砂埃を払うと、銀色のキーは日の光を綺麗に反射した。 それをポケットに捻じ込むと、彼は校舎へと踵を返した。帰る準備をするために。 その日彼は、生まれて初めて授業を無断で休んだ。 『良かったのか、春貴。あのような別れの告げ方で。もっと他に良い方法があったろうに』 「あれで良いんだよ。でなきゃ、俺は思いいれ深い性質だからな、後ろ髪を引っ張られるんだよ」 走り出したセダンの中で、春貴はウィスパーと会話していた。春貴が乗っているのは後部座席で、ドライバー席には山田、助手席にはお袋。 そして星火は、春貴の隣りに座っていた。彼女は窓に噛り付いて、一生懸命に流れていく外の景色を目に焼き付けている。 荷物は、昨日のうちにお袋が宅急便で全てダイソンの転居先に送ってしまった。だから春貴は、持ち物は全てがリュックサックに入ってしまうほどに少なかった。 「春貴君、見て下さい」 「・・・・ほー、でっけえ壁だなあ」 山田が運転しながら、フロントガラスの先を指差した。春貴は身を乗り出してその指先を視線で追うと、そこには巨大な壁が立ちはだかっているのが嫌でも見えた。 これは厳密に言えば壁ではなく、ダイソン東京の外殻である。あまりに巨大なためそれが半球状をしているとは認識出来ないだけなのだ。 それだけでも、このダイソン東京が如何に巨大な建築物であるかということが窺えた。一つの都を丸々飲み込むだけのことはある。 「これからダイソンに入ります。隊長と春貴君、それと星火君のIDはもう用意していますので。転居先も、ファーストクラスを御用意してあります」 「それって合法?」 春貴が根も葉もない質問をすると、山田は苦笑することもなく自信満々に答える。 「勿論です。KOTRTと内藤君の全権限を使い、正しい手続きに則った上での、正式でクリーンなIDと転居先です。ご心配なく」 彼の言うとおり、春貴たちは車内からゲート詰所の職員にIDを提示するだけで、あっさりと通過できた。 そのゲートでさえも、ダイソンの巨大な壁からすれば小さな穴でしかない。近未来SFなどでよく見られる一場面を実際に体験しているようだった。 車は、暗いトンネルの中を通っていく。どうやらゲートを通ったからといってすぐに中に着くわけではないようだ。それほど、このダイソンの外殻は厚いのだ。 春貴はふと後続の車を見ると、わざわざドライバーが車から降りて何やら書類に必要事項を書き込んでいる姿が見受けられた。 そこで車が停車した。見れば、車の眼前に金庫の扉を彷彿とさせる大きな鉄扉があった。どうやら、開くのには少し時間がかかるようだ。 「俺らはあんな風に何か書かなくていいのか?」 「私たちはダイソンのデータベース上では国会議員の親族という位置付けになっています、政治関係の人間はゲートでの書類記入は免除されるんです。  そのため、転居先のグレードも必然的に一般の人間とは違ってきます」 「へ?家にグレードなんてあんのかダイソンには」 「はい。内装と避難シェルター強度と設備規模の違いによって、それぞれグレードが振り分けられているんです。上はAグレードで、下はNグレードまであります」 「そんなに幅が広いのかよ・・・・」 「ちなみに春貴君たちが転居する部屋のグレードは政界専用のSグレードです。シェルター設備はNBC防御対応型で、密閉状態で連続千九十五日間の居住が可能です。  室内の内装も最高級のシティホテルにも引けをとらないほどですよ」 「聞いたかお袋、俺らがこれから住む家はホテルみたいだとよ。あのボロアパートから、えらい出世だな。・・・・お袋?」 「・・・・そう、良かったわね」 心ここにあらず、といった感じでお袋は投げやりに答えた。どうやら、昨日のことを未だに引き摺っているようだ。 いつもの春貴なら、こんな風にしょげているお袋を怒鳴りつけて勢いづけるのだが・・・・理由が理由だけに、今回は怒鳴れなかった。 何せ、彼女がここまで憔悴しているのは春貴自身の所為なのだ。春貴が一緒にダイソンについて来るなどと言わなければこんなことにはならなかった。 だが後悔もまたしていなかった。これは、自分が選んだ道。自分が必要だと思い、決断したことなのだ。 たとえそれで誰が泣こうとも、構わない。それを、明日とは言わなくとも―――――――遠くないいつの日かに、きっと笑顔にしてみせると決めたのだから。 今はもう、迷わない。 「最終隔壁が開きますよ。・・・・隊長、春貴君、星火君、ダイソン東京へようこそ―――――」 厚さがメートル単位はありそうな重たい鉄扉が開くと、急に視界が開け、眩い光が差し込んだ。春貴も星火も、思わずそれに目を細める。 そして、目に飛び込んできた光景に言葉を失った。 そこには、空が広がっていた。ダイソンは半球状の外殻で覆われた造りをしているから、空はコンクリートか鉄の天井だと思っていたがそれは大きな間違いだった。 青々とした、清涼な空が何処までも広がっていた。外と何ら変わりは無い。だが、立っている建築物は外とは違っていた。 小さな、民家や雑居ビルの類は一切無かった。超高層のビルが天高くそびえ、それがずらりと行儀良く並んでいるのだ。 初めてダイソンを訪れた春貴は、その光景に酷い違和感を覚えた。統制され過ぎた故の、相容れなさとでも言うのだろうか。なんにしろ、そのビル群を見た途端、 驚嘆と共に言い知れない吐き気を覚えた。 星火はもともと外の光景に見慣れていないので、今まで見たことの無い巨大なビルの集団に感動の声を上げている。 「・・・・山田、一戸建ては無いの?」 「はい、ダイソンは建築物が画一化され、居住区はマンションの形態をとって住まいを住民に提供しています。例外はありません。  それ故に部屋にグレードが振り分けられているんです、隊長」 さして興味が無さそうなお袋だったが、さすがに色々な関心が湧いてきたようだ。これは、ダイソンを始めて訪れた人間全てに共通するそうだ。 普段、大小いろいろな大きさの建物が入り乱れて立ち並ぶ街に住まっている人間から見れば、この正確無比なビル群は圧倒されるものがある。 このドームにだけ、一足先に未来が訪れたといった感じだ。 「オッサン、この空っていったいどうなってるんだ?」 「最新のホログラフィック・トレースという技術を使って、天井に立体的な空を投影しているんです。いってしまえば、プロジェクターの応用ですね。  夕方になればきちんと暮れますし、朝陽も見れます。四季にも対応していて、色々なパターンが投影されるんですよ」 「へぇー、で俺らの家は?」 「ここから四ブロック先の中央支柱付近の要人用の居住棟ですね。その前に、KOTRTの本部に寄りますが。問題ありませんか隊長?」 「別に、顔出しするのは当たり前でしょ。さっさと向ってちょうだい」 「了解しました」 そうして車は、KOTRT本部へと向った。 「・・・・でっけーなー。これ全部が本部?」 車を降りた春貴は、本日何回目か分からない驚きの言葉を漏らした。 山田の運転によって連れてこられたビルは、この超高層ビルが肩を並べるダイソンにあって、なお高かった。 どうやらこのビルが建っている場所は、ドームの中心部近くに位置するらしい。なるほど、高さをとれるわけだ。 「はい、このビル全体がKOTRT本部になっています。表向きは、ダイソン東京の警備の一角を担う私企業の警備会社ですが」 「ふーん、私がいたころとは随分と変わったわね。こんなビルを丸々貸切なんて」 「そのかわり、割に合わない仕事と待遇になりましたがね・・・」 山田を先導に、春貴たちは本部ビルへと足を踏み入れた。一階のフロアは、外観に引けを取らない造りだった。白基調でシンプルに纏められているが、 所々にある装飾が、そんじょそこらの企業のフロアとは桁違いの質を持っていることが窺える。 受付のカウンターの後ろの壁には、企業名が刻印されたプレートが飾れている。 「こちらです」 山田の指示に従って、一同はいそいそとエレベーターに乗り込んだ。そのエレベーターは、地下の階へのボタンが無かった。 最初春貴は元々作っていないのかと思ったが、それはありえない。ここは、仮にもKOTRTという政府がバックについている組織だ。 そんな組織が腰を構えるビルに、地下が無いとは考えがたい。それ以前に、これほどの超高層ともなれば駐車場という目的にために大抵地下がある。 そう不思議に思っていると、山田は懐から一本のカギを取り出した。そのカギの切先は、従来のカギとは全く異なった幾何学的な形をしていた。 山田は、そのカギをエレベーターのボタンの、一番下に設けられている鍵穴に差し込んだ。すると、表示されていなかった地下へのボタンが現れた。 なるほど、こういう仕組みだったのか、と春貴は合点がいく。山田はおもむろにB1のボタンを押すと、エレベーターはゆっくりと降下を始めた。 春貴は降下の最中、KOTRTとはいったいどのような組織なのか。Gメンのような集団なのか、はたまたメン・イン・ブラックのような集団か。 と、思いを巡らせるのは良かったのだが、地下一階に降りるだけなのに、嫌に時間が長い。 「なあオッサン、たかが地下一階になんでこんなに時間がかかるんだよ・・・」 「あ、地下一階は地表から約千五百メートル地下にあるんです」 「千五百・・・!?そういうことはもっと早く言ってくれよ」 そうこう言っている間に、エレベーターはやっとのことで地下一階に到着した。 扉が開くと、春貴は今度は肩を落とした。なぜなら、その光景が先ほどまで目に飛び込んできた物と比べるとあまりに貧相だったからだ。 エレベーターを降りると、そこは病院の廊下にも似た通路だった。白いタイルが清潔感を漂わせ、案内標示が曲がり角ごとにあった。 「ここは旧本部とはあまり変わらないのね・・・」 「はい。ほとんど移植したといっても過言ではありませんからな。それでは隊長、私は内藤君に会ってきますので、しばらくここで待っていて下さい」 立派な造りの木製のドアの前に着くと、山田はそう言って春貴たちを待合の革張りの茶色い椅子に座らせ、ドアの中へと消えていった。 三人はしかたなく、暇を潰すてもなく無為に座って待つしかなかった。 『・・・・春貴、聞こえるか春貴』 「どうした、急に?」 『すまんが・・・・ここはどこだ?病院か?』 「はあ?なに言ってんだよ、ここはKOTRTの本部だろ?」 『何と・・・!我が寝ている間にそんな場所に来ていたのか主は』 「お前、意識体なんだろ?睡眠なんて必要あんのかよ・・・」 『失礼な。我は意識体であると同時に、立派な一つの生命体だ。睡眠は高等な多細胞生物には必要不可欠な生理現象だ』 「電気信号のくせして器用なやつ」 『春貴・・・!』 「あー、はいはい。悪かったよ」 「何を話しているの?」 ウィスパーと会話をする春貴に、星火が話し掛けてきた。ウィスパーは春貴の脳内にある電気信号の反芻に過ぎないため、その声は周囲には聞こえない。 よって、周りからは春貴は大声で独り言の会話を繰り返しているように見えるのだ。だが、星火はウィスパーの存在を知っている為、問題は無いが。 「ウィスパーとだよ、こいつ電気信号のくせして今まで寝てたんだとよ」 「そう・・・。意識体と戯れているところ悪いけど、一つ質問してもいい?」 「なんだ?」 『春貴、我にも会話に参加させろ』 「わかったよ。星火、悪いけどウィスパーも話しに参加してえってよ、ちょっと待ってくれ」 春貴は長ランのポケットからポータブル式の小型外部スピーカーを取り出すと、その接続端子を摘む。 「これで良し・・・と。喋れるか、ウィスパー?」 「うむ。感度は良好だ。その状態の保持を頼む」 「準備が整ったところで、質問していい?」 「おう、バッチこい」 と、堂々と構える春貴であったが、内心はあまり気が進まなかった。こいつの質問は、いったいどんな内容を聞いてくるのか分かったものではない。 それがこちらの痛い所を突く場合もあれば、逆鱗に触れる場合もある。だが、ここはKOTRTの本部だ。 ・・・出来れば、我を忘れて怒鳴り散らす必要の無い、当り障りの無い質問にしてほしい。 「貴方、本当に私を守ってくれるの?本当に、守れるの?」 「貴様・・・!なんという事を言うのだ、春貴がどれだけの決意を抱いてここまできたのか、よもや忘れたわけではあるまいな!?」 「落ち着けよウィスパー・・・そんな怒鳴んなって・・・」 「これが怒鳴らずにいられるか!星火は主の気も知らず、いまだこちらを疑っている!こんな侮辱は無い!!」 珍しく感情的になるウィスパーをなだめようと、春貴はスピーカーを、なでなでとさする。 「ウィスパー、別にこいつは俺らのことを未だに信じきれないってわけじゃねえんだ。ただ、不安なんだよ。そうだろ、星火?」 「・・・・別に、信じていないだけよ」 「・・・・俺、前々から思ってたんだけどよ。お前ってさ、本当に自分に素直じゃねえよな!?ああ!?不安だって言えや、正直に!!」 「そんなの癪じゃない」 「癪とかそういった問題じゃねえだろ!?今の場面はお前が素直に“不安なんです”って言って、信頼を確認しあうところなんだよ!流れ的に!!」 結局は、大声を張り上げる羽目になってしまった。お袋はその横で先が思いやられると言わんばかりに、やれやれと頭を振った。 だが、さして注意をしようとも思わなかった。・・・正しく言うならば、何と言って春貴に話し掛ければ良いのか分からなかった。 先日の一件から、彼女はもうずっと春貴と口をきいていなかった。おかしい。いつもなら、こんなことは寝ればすぐに忘れて、明日には元通りになっているはずだ。 けれど、そんな朝はこなかった。起きても、自分の息子に何と声をかければいいのか分からなかった。情けない話だと、自分自身、思う。 しかし見つからないのだ。もう、春貴は自分の知っている“子供”ではなくなってしまった。そんな春貴に、どう接すればいいのか、分からない。 明るく話し掛ければ良いのか。普段の態度で話し掛ければ良いのか。物静かな口調で話し掛ければ良いのか。 答えが、見つからない。 自分がお腹を痛めて産んだ子だというのに、今まではなんの問題もなく、接していられたのに。急に、何もかもが変わってしまった。 自問自答を繰り返していると、彼女は廊下の奥から誰かが歩いてくることに気付いた。春貴と星火は痴話喧嘩に精を出しているため、気付いていないようだ。 「貴方が、香坂貴子隊長ですね?」 近づいてきたのは、真っ黒なスーツに身を包んだ女性だった。髪も目も日本人らしく真っ黒で、それがスーツと合い間って古風な印象を醸し出している。 そんな、見覚えの無い凛とした女性にいきなり声をかけられ、彼女は動揺しながらも答えた。 「え?あ、はい。そうですけど・・・」 「私は山田次郎の弟子です。彼は急用のため遅くなるとのことですので、私が代わりにお迎えにあがりました」 「じゃあ、貴女が私たちを家まで?」 「その通りです」 そう言って、女性は一礼した。礼儀正しく、物腰も丁寧だ。春貴と星火もその女性に気付いたらしく、痴話喧嘩をやめてこちらを向いていた。 「んだ?あんたは?」 「春貴、もう少し物の聞き方を改めなさい」 「構いませんよ、隊長。君は琴坂春貴君だったね、話は聞いているよ。私は、山田先生の代わりに君たちの迎えに来たんだ」 「山田・・・“先生”?」 「そうだよ。私は彼の弟子だからね、先生と呼ぶのは別に普通だろう?それと、君は新しく山田先生に弟子入りしたんだってね・・・」 「ああ、あんたは姉弟子ってとこかな。宜しく頼むよ」 すっと手を差し伸べて、春貴は握手を求めた。流石の彼でも、これぐらいの礼儀は弁えている。いや、不良だからこそこのような関係は大事にするのだ。 不良といっても、ただ無軌道に素行を悪くするわけではない。弁えるところは弁え、シメるところはシメる。そして、仲間は思いやる。 この握手は、これからの仲間を快く迎え入れるための儀式の一環でもあるのだ。 しかし、スーツ姿の女性はその手をとらなかった。 「・・・確かに、君は新しく山田先生に弟子入りする。だが、私はそれに一抹の不安を覚えてならない。報告によれば、君は別脈種として覚醒したのが、  ごく最近だそうだね。いくら羅種が即戦力としての使用可能なほどの汎用性と即応性を兼ね備えているといっても、まだ君は生まれたての赤ん坊も同然。  そんな状態の君に、果たして山田先生の門下に入るほどの力があるのか・・・とても疑問だ」 「要するにだ、お前は俺には弟子入りできるほどの強さが無いってことを言いたいワケか?」 「極めて簡潔に要約するならば、そういうことだ」 「馬鹿な!主は師範の報告を聞いてはおらぬのか?春貴は従来の羅種を遥かに凌駕する能力と、それに見合う経験を持っている。事実、二度に渡って、  別脈種の手練と戦い、これを退けることに成功している。その事実を聞いてなお、主は疑問が残ると申すのか?」 「君がウィスパーだね・・・。君のことも、先生からの報告で聞いているよ、なるほど珍しい。確かに、私も先生からの報告はきちんと聞いている。  しかし、先生とて人の子だ・・・・過ちはある」 「主の師範の見誤りだというのか?全く、あの山田という男はよほど弟子に恵まれなかったようだな。師範を疑う門下生など、聞いたこともない!」 「先生を思えばこそ・・・だ。これは先生への侮辱でも何でも無い。ただ、先生の名を汚すような輩が許せないだけだ」 「ふん、物は言いようだな。主のような者が――――――ッ!」 「やめろやめろ!もういいって、ウィスパー。十分だ。そこのネエちゃんは、俺と戦いてえってだけだ。そうだろ?」 何かと今日は感情的になりやすいウィスパーをなだめ、春貴はスーツ姿の女を挑戦的に見上げた。 だが、スーツ姿の女も伊達に喧嘩を売ってきてはいなかった。春貴に負けじと、威圧感たっぷりの目線で、じろりと見下ろす。 「話が早くて助かるよ。要はそういうことだ。一手交えて・・・君の実力を私が直接判断する」 「貫かせ、主はそう言って春貴を同じ門下に入れぬ心算であろう!?見え透いたことを言うな!」 「ウィスパー、お前ちょっとうるさい。黙れ」 「こら、春貴――――」 春貴が接続端子からぱっと指を離すと、スピーカーはたちどころに静かになった。 「で、どこで勝負するよ?」 「ここの二階下に、丁度いい柔道場がある。そこでお手合わせ願おうか」 「上等ッ!」 こちとら昨日までは、喧嘩上等の不良高校生。厄介ごとと暴力沙汰は大歓迎だ。そう息巻くと、春貴はスーツの女に連れられた階下に降りていった。 その後を、げんなり顔のお袋と、涼しげな表情の星火が同行する。 スーツの女の後に続く形で、春貴たちは彼女の言うところの“柔道場”についた。そこには畳を模したマットがしいてあり、広さは学校の教室一個分。 格闘技の練習をするには、丁度いい大きさだ。スーツの女と春貴、両者は柔道着など着ずに、すぐさま対峙した。 その脇で、お袋と星火が呑気に観戦としゃれこむ。 「そういえば、あんたの名前なんて言うんだ?スーツのネエちゃんよ」 「私の名前は・・・・・・・・黒咲。黒咲、理代子だ」 「な、何ですって!?」 スーツ姿の女の名前を聞いた途端、何故かお袋が仰天して立ち上がった。どうやら、その名前に何か覚えがあるようだ。 「あなた・・・まさか、黒咲英翔の妹の・・・・黒咲、理代子?」 「その通りです、流石は香坂隊長ですね」 「白々しいことは言わないで。私が英翔と親しかったことくらい・・・知ってるんでしょう?」 「ええ勿論知っています。そして貴方が本部に出向いていた間に、兄が死んだことも・・・!」 お袋は、まるで罪状を突きつけられた犯人のように目を逸らした。春貴は、そのやり取りを全く話が見えない状態で見つめていた。 兄。どうやら、あのスーツの女―――――黒咲理代子って奴には、兄貴がいたらしい。それで、その兄貴が俺のお袋がいない間に死んだ・・・。 俺は、KOTRTにいるときのお袋を知らない。だが、黒咲の兄の死に直接、お袋が関係無いということは、何となく分かった。 「おい、それあんま俺のお袋に、関係なくねえか?」 「関係無い?確かにそうかもしれないね。だが、隊長はKOTRTにまだ在隊していたころ、私の兄と住居を共にしていた。そして彼女が本部に出向いている間に、  私の兄は死んだんだ。これでも、全く何も完全に関係無いと言えるのかな?可能性は無限大だ、彼女が居合わせたことで、未来は変わったかもしれない」 「屁理屈こいてんじゃねえぞ、このアマ・・・・」 「やめな、春貴」 「でもよお袋、こいつ―――――」 「彼女の言っていることは本当だ。彼は―――――黒咲英翔は、私が本部に出向を命じられていた数日間の間に・・・死んだ。これは事実なんだ。  私自身、そのことに負い目を感じている。あの時、あそこに居合わせたらと、何回も思ったことがある。だから、彼女は責められない・・・」 そう言って、お袋は顔を伏せた。春貴は、ここまで萎縮した母を見るのは初めてだった。 らしくねえじゃねえかよ・・・。春貴は心の中で呟いた。何なんだよ、その態度。いつもの威勢の良いお袋は何処に行った。 少しぐらいのことを言われても、豪快に笑い飛ばすあの気丈さを落として来ちまったのか。 ぎり、と思わず歯軋んだ。 「あーもー・・・・。うっとーしんだよ、お袋もお前も!!」 ついに、抑え切れない感情が爆発した。元々、気が長い方ではない。黒咲とびしっと指差しながら、春貴は声を張り上げる。 「お袋、いつまでもそんな女が腐ったみてえな態度やめろ!あとお前!お前は俺と闘り合うためにここに来たんだろ!?だったらとっとと始めようじゃねえか!  あと言っとくけど、俺は“あの時こうしときゃよかったのに〜”・・・とか温いこと貫かす馬鹿に負けるほどヘタレてねえから、覚悟しとけよ!!」 「咆えるね、餓鬼・・・」 中指を立てて挑発する春貴に、理代子はショルダーホルスターから拳銃を引き抜くことで応える。 こっちも奴さんも、準備万端。 「言っとくけど、この銃に入っているのは非致死性ゴム弾だから安心していいよ。琴坂春貴くん?」 「遠慮せずに実弾でも何でも使えよ・・・負けてからベソかいたって遅いぜ?兄貴はもう、あやしてくんないんだろ?」 「っぐ・・・・!この下賎がァ!」 理代子は突発に、有無を言わさず春貴に向って拳銃を発砲した。その弾丸は、春貴の頬をわずかに逸れて、空を切る。 だがそれに臆することなく、春貴は両の拳を構えて戦闘体勢に移行した。 「行くぞ、ウィスパー!」 『任されよ・・・!』 手の甲に十字傷が走り、そこから漆黒の断章が形成された。毎度の事ながら、ウィスパーの展開の手際の良さには舌を巻く。 春貴は漆黒の断章が完全に展開されたことを確認すると、前傾姿勢をとって理代子めがけて突進した。 だが、相手は銃を持っている。直線的な闘い方は、接近戦しか攻撃の術が無い春貴には自殺行為だ。本来ならもっと左右にジグザグに動き、照準を狂わせるべきなのだ。 しかし、そんな温いことはしない。 俺には、これから必死で守っていかなきゃならねえ奴がいる。そいつの為にも、俺はもっともっと強くなるんだ。 だから、こんな相手に――――たかが銃なんかに怖気づいているわけにはいかねえんだ。 「おおおおッ!」 豪快に振りかぶって、春貴は強烈な一撃を繰り出した。接近戦に持ち込まれては、銃はかえって不利だ。相手のアウトレンジから攻撃するという特性が殺がれてしまう。 銃を扱うものなら、普通はここで銃を使うことを諦めて格闘に切り替える。だが、理代子はそうはしなかった。 トリガーガードを軸に、人差し指で銃本体を曲芸のように、ぐりんと回してグリップを逆手に構えた。銃は、あっという間に即席のトンファーへと姿を変える。 その銃を代わりにしたトンファーで、理代子は春貴の拳を受け止めた。 「!? どうしたウィスパー。何でこんなチャカの一丁がぶち抜けねえんだ!」 『いま漆黒の断章は自重をデフォルトの二トンから七百グラムへと変更し、甲殻の強度も最低レベルに設定している。当たり前だ』 「んでそんなことしてんだよ!」 『相手はゴム弾なんぞを使っているのだぞ。ならこちらも、それ相応の対応を取るべきだろう』 「けっ、知ったような口きくじゃねえか」 そうは言うものの、春貴の表情は喜びに歪んでいた。元々春貴は、拳一つでこれまで数多の闘いを潜り抜けてきた。 そんな彼に、漆黒の断章の力はあまりに強力すぎて、逆に彼の足枷となっていた。その足枷が、いま解き放たれたのだ。 「おらあッ!」 威勢のいい声と共に、春貴は腰を落として足払いをかける。今の彼の身体能力は、漆黒の断章の解放で数倍に上昇している。 倍化した彼が放つ足払いは、プロボクサーの放つジャブよりも速くキレがあった。だが、理代子も伊達に山田の弟子を名乗ってはいない。 人間離れした速さの足払いを、たんっと跳躍して軽やかに避ける。あの速さの足払いを回避するとは驚きだが、春貴は焦りはしなかった。 腰を落とした体勢から、ブレイクダンスの要領で手で体を支えると、身体を竹のようにしならせて、跳躍している理代子めがけて蹴り込んだ。 ほとんど寝そべっているような体勢から、思いも寄らない方法でいきなり蹴りを喰らった理代子は、空中できりもみし、受けも身侭ならずに床に落ちる。 春貴はその間に素早く体勢を復帰させると、理代子に向って追い討ちをかける。正拳突きの構えを取ると、瓦でも割るかのように横たわる理代子を打つ。 間一髪の所で、彼女はそれを弾けるように身を跳ねさせ、何とか回避した。 『今のところ、我らが優勢だな春貴』 「ああ・・・。おい、黒咲ってやつよ、手加減は無しだぜ?もっと本気でかかってこいよ」 「そんなことを言って・・・後悔するよ?」 「うるせえ。闘い終わってから、実は本気じゃなかった―――――とか咆えられるよりよっぽどマシだ」 「そうかい。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうか・・・・!」 言い終わりざまに、理代子は拳銃を水平に横薙ぎに撃ち払った。春貴は身を屈めてやり過ごすと、理代子に肉迫する。 彼女は、自分に向って馬鹿のように猪突猛進ししてくる春貴を嘲笑った。弾がもうほとんど残っていない銃を放り捨てると、ホルスターから新たに二丁取り出し構える。 そして二丁の拳銃の弾倉に詰まっている全弾を、春貴にぶち込んだ。息をもつかせぬ連射に、拳銃はあっという間にホールドオープンする。 「そんなヘタレ弾が当たるか!!」 春貴は突進のブレーキをかけるその足で、柔道場に敷かれている畳を模したマットの端を踏みつけた。マットは、そのアスファルトさえ砕く力に、 まるで壁のように捲れ上がった。ゴム弾は、壁のように立ちはだかったマットに全て防がれる。 彼女は舌打ちし、そのまま横に回って春貴を仕留めようと動き始めた―――――そのときだった。 マットをぶち破って、春貴の手が理代子の襟首に伸びた。唐突のことと、あまりに破天荒な攻撃に唖然とし、一瞬の隙ができた彼女を春貴の手が捕らえる。 「捕まえたぜ・・・覚悟しろよな」 腕が貫通したマットを、まるでコンニャクか何かのように引き千切ると、春貴は彼女をぐいと引き寄せた。 そのまま理代子の下腹部に、容赦無くかつ無造作に拳を見舞う。 「・・・っがは!」 「俺の勝ちだな」 襟首を持って彼女の体を持ち上げたまま、春貴は冷徹に呟いた。だが彼女はまだ戦意は残っているらしく、気丈に春貴を睨みつける。 そんな彼女を見て、哀れみを交えた視線と共に質問した。 「お前の負けで、俺の勝ち・・・。それでいいな?」 返答は、あるはずも無かった。やれやれ、と春貴は頭をふる。これでは、勝敗の喫しようが無い。 相手が負けたと認めなければ、勝敗など決まるはずも無い。だが、この女は自分が負けたとは断じて認めようとはしないようだ。 「私ではなく・・・・お前の負けだ・・」 がちゃり。 不敵な台詞と共に聞こえた金属音に、春貴は戦慄した。聞き覚えがある―――――あれは、撃鉄を起こす音だ。 気がつくと、自分の目に拳銃の銃口が何時の間にか押し付けられている。今の一瞬の怯みの間に、突きつけられたのだ。 そこで初めて、春貴は自分の甘さを呪った。この女と、自分の中の喧嘩の概念には星ほどの距離があるということを悟った。 俺は、相手が負けたと認めればそこで勝負は終わりだった。そういう喧嘩をしてきた。 だがこの女は違う。相手が負けを認めることなどない、どちらかが、死ぬか二度と戦うことが出来なくなるようになるまで、戦い続けるのだ。 冷や汗が、全身から滲むのが分かった。いくらゴム弾といえど、こんな至近距離で目を撃たれれば失明は先ず確実だ。 ぱん。 呆気ないほど簡単に、そのトリガーは引かれ、酷く乾いた発砲音が産声をあげた。その瞬間、春貴の片目の視界は・・・一切の真紅に染まる。 痛みは、不思議なことになかった。だが、片目を潰された、身体の一部を壊されたという形容し難い恐怖と不快感が襲う。 「春貴いいい!」 お袋の声が聞こえる。けれど、その声はとても遠くに感じられる。いや、感覚器官の全てが、あまりのショックに混乱し切ってしまっている。 がちゃり。 もう一度、あの不吉な金属音が鼓膜を叩いたかと思うと、残っている片目を銃口が覗いた。この女は、どうやら両目とも潰す気らしい。 絶望・・・というより、妙な諦めと倦怠感が身体を襲った。もう、指先でさえ一分も動かせそうにない。 ああ、何もかもここで終わるんだ。 鈍った思考が最後に、そう思考した。 今はもう、いちばん大切なことさえ思い出せないというのに。
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