あの英語教諭は三階から落下したのにも関わらず、奇跡的に無傷で助かった。 どうやら下に生えていた木と、更にその下の花壇がイイ感じにクッションになってくれたようだ。 こうして、春貴は何とか殺人者にならずにすんだ。が、学校からは今までにない程の厳重の注意を受けた。 星火と一緒に来ていたお袋共々、校長室で三時間近くみっちりと油を絞られる。 その頃星火は、涼しい顔で校内を散策していた。 「・・・・お袋、もうこんなことは二度とゴメンだぜ」 「分かってるわよ。それよりアンタも少しは手加減しなさいよね、あの先生スゴイ勢いで飛んでたじゃん」 「あー、それは不可抗力」 もう日がすっかり傾いた時分、春貴たちは家路についていた。二人の顔には疲労感が漂うが、星火の表情は輝いていた。 先の電車の時もそうだったが、星火は物珍しそうに車内を見回し、子供のように座席に膝立ちしながら流れゆく景色を眺めていた。 今は、お袋に買ってもらった服が入った紙袋を大事に抱えて、足取り軽く歩いている。 朝の彼女の悲惨な状態を思うととても微笑ましく良いことなのだが、学校にまで来るのは勘弁して欲しい。 「で、お袋と買い物に行って楽しかったか、星火?」 「うん。とても」 弾けそうな嬉しさを抑えながら彼女は静かにそう答えた。その表情には、溢れんばかりの光が満ち満ちている。 彼女の今の服装は、恐らく今日買ったであろう物だった。早速着るところを見ると、余程気に入ったのだろう。 それは黒基調の、修道女の服を連想させる、慎ましやかな印象を漂わせるワンピースだった。 確かに彼女のように高貴で気丈な印象をもつ女性には、今日の女性に流行っている華美な服装は似合わない。 モノトーン調で、静けさを感じさせる服装が似合うだろう。彼女の今の服装を見て、漠然とそう思った。 いや、ジーンズにティーシャツというラフな服装も意外と似合うかもしれない、活動的な感じで、かなりいい線をいきそうだ。 『春貴』 「ん、どうしたウィスパー」 『良いのか、このように悠長に構えていて』 「どういう意味だよ」 『・・・我らは、いつ敵に襲撃されてもおかしくはないのだ。それを、このように堂々と行動するのは、はっきり言って危険すぎる』 「甘いな、お前は」 『何ゆえだ』 「敵が昨日お袋の言ってた通りだとすると、こそこそしてたって意味ねえだろ。相手のバックに日本政府があるとしたら、俺らの居場所なんでじっとしてても、  すぐに割れちまうさ。だったら、こそこそと逃げ隠れするよりこうやって堂々とした方がかえって怪しまれ難いし、俺の精神衛生上にも良い」 彼は不服そうだったが、渋々と春貴の言い分を容認した。 ウィスパーの言う事も正しいとは思う、実際春貴も、身を潜めることは本気で考えていた。だが、こうも思ったのだ。 まだ敵と本格的にぶつかってすらいない今から、そのようにこそこそと逃げ回っていたら、それこそ先に負けを認めたようなものだ。 『だが春貴、戦うと言う事は何も真っ向勝負だけが全てではない。頭を使い、身を潜め、策を練ることも立派な戦いだ』 「うるっせえ!そんなまどろっこしくて器用なことは俺には出来ねえよ」 「どうしたの?」 ウィスパーとの口論で声を張り上げた春貴の顔を、星火が覗き込んだ。 身長差が二十センチ近くあるので、春貴も星火の顔を見るには自然と首を下げなければならない。 「な、なんでもねえよ」 「まさか、意識体とケンカでもしてるの?」 「よく分かってんじゃねえかよ」 あっさりと本当のことを言い当てられたことには少し驚いたが、春貴は特に気にもせず肯定した。 脳内の寄生虫との口論ぐらい隠す必要はない。だが、その考えがアダとなった。 「自分の意識から生まれた意識体ですら満足に管理出来ないなんて・・・・情けないのね」 呆れた風に彼女はやれやれと首を振って、そう言い捨てた。先の学校への来訪の件も合い間って、春貴の頭はすぐに沸騰した。 「何だとこのクソ女!大体な、どうしていきなり学校に乗り込んできたりするんだよ、頭が回ってねえのかお前は!?」 「? 乗り込んでなんかない。きちんと正門から入った」 「そういう意味じゃねえ!どうしていきなり学校に来たかってことを言ってんだ!お陰で明日っから俺ぁどの面下げて学校行ったらいいんだよ!」 「五月蝿いわね、いいじゃない学校に行くくらい。アンタは物事を誇張して受け止めすぎよ。少し興味があったから見に行っただけで大騒ぎしないでくれる?」 「その少しの興味で俺はいま社会的に立場が危なくなってんだよ!」 しかし春貴の必死の抗議にも関わらず、星火は「なに言ってるの?」と、とても鬱陶しげな視線を向けるだけで取り合おうとはしなかった。 この女・・・俺に相当な恨みでもあるのだろうか。 こちらは一応命の恩人的な存在であるというのに、この扱いは一体なんなのか。いや、この女は出会ったときからそうだ。 助けてやろうと思った俺の肩を噛んだかと思ったら、今回は学校に乗り込んでくるときた。気苦労で頭が真っ白になりそうである、本当に。 俺たちのそんなやり取りを見ていたお袋は、密かに腹を抱えて笑いを堪えていた。こちらにとっては死活問題だというのに、いい立場なものだ。 それにしても本当に、俺は明日からどんな風に学校に行ったら言いのだろうか。 「春貴・・・止まりな」 「? 急になんだよお袋」 頭を抱えていると、抱腹絶倒していた先とは打って変って急に深刻な面持ちをしているお袋が呼び止めた。 見れば、その額にはうっすらと汗が伝っていた。 「見てみな」 お袋は顎でつい、と道の前方を指し示した。春貴もそれに従って視線を上げる。そこには逆光が眩しい道しかなかった――――――。 違う。良く目を凝らして見れば、何者かが道先に立っているのが分かった。 春貴とお袋は足を止め、それに気付いた星火も遅れて歩みを止める。二人の表情は険しかった。 最悪の場合を予想しているのだ。もしかしたら、ここで刃を交えることになるかもしれないと。できれば、それは杞憂で終わって欲しい。 しかし運命は、そこまで心優しくは無かった。 「こんちわ、昨日ぶりだね。お若いの。それとも、琴坂春貴くんって呼んだ方がいーかなー?」 夕陽を背に話し掛けてきた影。その声は、紛れも無く昨日のアイツだ。軽薄な口調で飄々とした態度で性格はやや破綻しているが、腕は確か。 そんな掴み所の無い、妙な男。 「名刺交換した覚えはねえけどなぁ・・・。え、キョウジさんよ?」 「いやはや、俺も有名になったもんだぜ」 皮肉めいた春貴の言葉に、響次は素っ気無く返す。 昨日と変わらないように見える響次だが、明らかな違いが一つだけあった。目だ。目が、昨日初めて会った時とは全く違うのだ。 射殺すような威圧を放つ、憤怒と憎悪・・・様々な激しい感情が渦巻き混沌とした目。そしてその渦中から放たれる、射殺すよう殺気。 「昨日の連れの礼をたっぷりとしてやるからな、覚悟して―――――――――。あ?」 「?」 今まさに飛びかかからんとまで殺気立っていた響次の表情が、突如怪訝に曇った。 その視線の先は春貴でも星火でもなく――――お袋に向っていた。響次は、お袋を足先から頭のてっぺんまで舐め回すようにじっくりと観察する。 そして合点がいったらしく、口元に呆れたような笑いを浮かべた。 「ああ、なんだ。そういうことね。よーやくわかったよ、俺が何で、そこの若いの見ると無性にムカツクのか・・・・」 そこで一度言葉を区切る。そして、ため息のような深呼吸。 「何でその若いのが、ああも簡単にセガールを殺したのか。分かったよ、やっと。そうか、お前の息子だったか、ええ?香坂貴子さんよぉ!」 最後のほうは、半ば叫ぶような声だった。 香坂貴子、その名前を聞くと、春貴は信じられないと言った表情で響次を凝視し、そして、自分の隣りにいる母へと目を向けた。 香坂、それはお袋の旧姓だ。だが、それを何故あの男が知っているのか。全く接点が見出せない。 「まさか本当に生きていたなんてね、片峰響次。てっきりそこいらの道端で野垂れ死んでるものだと思ってたわ」 「貴様・・・!よくも抜け抜けとそんなことを言えるな」 「ええ言えるわ。私はあなたみたいに馬鹿じゃないし、ボロ負けしたからって尻尾を巻いて逃げ出したりしないもの」 「殺す・・・・・!」 響次が飛びかかろうとしたその際に、彼を巨漢の男が制した。 「止まレ、冷静になるんだ響次。奴は元KOTRT隊長ダ、そんな状態で戦えば負けるゾ」 その巨漢に言葉に、響次は意外なほどあっさりと従った。そして萎縮したように、振り上げた拳を忌々しげに下げた。 だがそれ以上に驚いたことは、春貴にはその巨漢が何時現れたのか、全く分からなかったということだ。 それはお袋も同様らしく、驚きと緊張の入り混じった複雑な面持ちになっている。 「いきなり現れやがって・・・んだあ、手前は!」 春貴の怒声に、巨漢はのっそりと振り向く。彼の身長は遠目からざっと見ても二メートルは軽くオーバーしている。百八十の春貴から見てもかなり高い。 そんな長身のくせして、全身はまるで粘土でも盛ったかのように隆々とした筋肉で覆われていた。 折角着ているスーツも、その筋肉の所為でまるでサイズが合っていないかのようにパンパンに張っている。 「俺ハ、オックス」 「その響次ってやつの加勢に来たのか?」 「そうダ」 無機質な声で、端的に答えられた。 途端、春貴は不気味な笑みを浮かべる。 「そうか、なら話しは早えぜ!!」 次の瞬間には、彼は地面を勢いよく蹴って跳躍していた。アスファルトが陥没するほどの脚力を使い、響次とオックスの真上を取る。 そのまま上空から一気に仕掛けるつもりなのだ。 「ウィスパー!漆黒の断章を解除しろ!」 『任された』 冷静な声でウィスパーは答えると、すぐに行動に移ってくれた。春貴の手から、ふっと重みが消える。仕事が速くて助かる。 春貴は落下しながら拳を振りかぶった、見据えた先にいるのは、一番厄介そうな巨漢・オックス。 落下の勢いと筋力を掛け合わせた拳を、春貴はオックスの頭上に炸裂させた。 どずん、という腹の底を揺さぶるような音が大気を震わせた。漆黒の断章を解除しても、春貴の身体能力は依然とと強化されたままだ。 常人ならざる筋力と、高所からの落下の勢いをかけた渾身の一撃、その拳は確かに相手を打ちのめした―――――はずだった。しかし。 「!?ま、まさか・・・!」 「確かに強烈な一撃だ、だが私を殺すには全く足りン」 春貴は、自分の拳は確かにオックスの頭を捉えたと思っていた。だが、実際はそれは寸での所で防がれていた。 オックスが、咄嗟に頭上に回した腕が、春貴の先の一撃を受け止めたのだ、しかも片腕だけで。恐るべき筋力だ、とても人間とは思えない。 彼は受け止めた拳ごと、春貴をぶんと振り回して放った。まるで、犬か猫でも放るかのような手つきと余裕で。 『無理だ春貴!あの男の筋力は常軌を逸している、漆黒の断章を使わねば負けるぞ!』 「そんなモン使ったらあの筋肉野郎でもミンチになっちまうだろうが!」 『道徳的な考えは捨てろ、でなければ君だけではなく周囲の人間までもが傷つく』 「くっ・・・」 痛いところを突かれ、春貴は返す言葉が無かった。ウィスパーの言うとおりだ、彼の言っていることは全くもって正しい。 だが、いま春貴には漆黒の断章を、相手を殺さずに勝つほどに上手く扱える自身が無かった。 セガールとかいう男の脳漿をぶちまけた時の映像がフラッシュバックし、さらに彼を躊躇わせた。あんなことは、もう、二度と御免だ。 守りたい、でも、敵と言えども殺してしまうのは怖い。そんな臆病風が、春貴の中に吹き荒れた。 何か、漆黒の断章を使わずに倒す方法は無いのか。逃げ道は、楽な方法は、どうやって見つければいい、どうやって求めればいい。 『我は殺人を肯定するつもりはない。だが、時と場合を考えるのだ。春貴、思想はお前を救ってはくれないのだぞ!?』 「馬鹿野郎!お前は実際に戦っていないからそんなことが言えるんだよ!」 反撃を開始してきたオックスの拳を、紙一重の差でやり過ごしながら怒鳴った。 砲弾のように唸りを上げて耳もをと通るその一撃に、思わず冷や汗が流れる。 『心外だな!我は文字通り主と一心同体の思いで戦いに臨んでいるというのに、主と知覚を共有しているから痛みも恐怖も我は主と共に感じているのだぞ!?』 「そうだったのか、スマン!」 オックスの一撃一撃は、さほど速くは無かったが、その一発一発に篭る威力は想像を絶した。 繰り出された拳を春貴は軽快なフットワークで何とかかわし、その拳が周囲に当たるたびに、アスファルトが陥没したり電柱が倒れたりした。 まるで、歩く竜巻とでも戦っているようだ。パワーが段違いで、防ぐことなど考えたくも無い。 「響次、今の内ダ!」 「さんきゅ、オックス」 オックスと拳を交えるのが手一杯な春貴の真横を、響次が疾風の如く駆け抜けていった。 虚を衝かれた形となった春貴は彼の後を追おうとするが、目の前の巨人の猛攻のために、そんな余裕は無かった。 「十五年前の借り・・・・いま返すぜえ!!」 懐からグルカナイフを引き抜くと、響次はそれをお袋に向って閃かせた。 咄嗟のことに判断が間に合わなかったのか、お袋は防御するでもなく避けるでもなく、ただ呆然と立ち尽くしていた。 間に合わない。オックスとの攻防の最中で春貴はそう確信した、今ここですぐに駆けつけても、あの刃はお袋を殺すだろう。 肝が浮くような感覚と共に、冷や汗が全身から噴出した。 しかしグルカナイフがあと一歩で斬りかかるといったところで、二人の間合いに何者かが飛び込んだ。 その影は間合いの最中に踊り込むや否や、グルカナイフを掌底であっさりと払い除けると――――――あろうことか、拳銃を引き抜いて響次目掛けて発砲した。 五発近い弾丸が撃たれ、その全弾が響次の胴体へと直撃した。流石の響次も、吐血し倒れ伏す。 そしてお袋は、自分の窮地を救ってくれた何処かの誰かさんを見上げると、呆気に取られた表情になった。 「な、どうしてここに・・・・!?山田次郎!」 「お久しぶりです、香坂隊長」 お袋に“山田”と呼ばれた男は、軽く帽子を掲げて会釈した。 くたびれたスーツに、年季のいった帽子を被った、一見どこかの中小企業のサラリーマンを彷彿とさせる風貌の男だった。 だが、彼が人外の強さを持った“バケモノ”であるということを、春貴は先の一瞬の動作を見ただけで看破した。 一見単純な動作に見えて、かなりの正確さが求められる先の一連の動作を、この男は瞬時にやってのけたのだ。 響次よりも、はるかに強い。一体、この男は・・・。 「そこの君!」 「? え?もしかして俺のことか!?」 オックスと鬩ぎあう最中、春貴は山田に名指された。 「そうだ君だ。私は君のお母さんの知り合いだ、心配することは無い、存分に戦いたまえ」 「・・・・・・・あんがとよ」 振り返りもせず、呟くように言った。何にしても、あのオッサンが味方であると言う事は、実際ありがたかった。 お袋が警戒しないところを見ると、嘘でもないようだ。なら、周囲に気兼ねなく存分に戦える。 「ウィスパー!もうウジウジ悩むのは止めだ、上手く使えるとか使えないとか、そんな問題じゃねえ。俺は、この力を使いこなさなきゃならねえんだ!」 『そうだ春貴。漆黒の断章、いつでも展開可能だぞ!』 「でなきゃ俺は、人殺しよりも最低なところにまで落ちちまう・・・!だから、俺はこの力を受け入れるんだ、今こそ!!」 『出来ればもっと早くにそうだと気付いて欲しかった!』 「うるせえ!」 突然、春貴はオックスの拳をかわす足を止めた。ろくな構えもとらずに、オックスに立ちはだかる。 しかしその行為は、オックスを前にした春貴には死を意味する。オックスの拳は並みの重さではない、あんな一撃を喰らえば、重症は必死だろう。 いや、殺されてもおかしくはない。そんなことは、百も承知のはずだというのに、春貴は敢えて足を止めたのだ。 ウィスパーが脳裏で、動け、逃げろ、と叫ぶが聞き入れなかった。彼は、まるで地面に足を縫い付けられたかのように立ち尽くす。 そして案の定、彼の頭はオックスの巨大な手の平に鷲掴みにされた。 『動け!殺されるぞ春貴!!』 「心配すんな、ウィスパー」 オックスの一撃は、容赦という言葉を知らなかった。彼は春貴の頭を鷲掴んだ手を、まるでペットボトルの蓋でも開けるかのように、ぐりんと捻ったのだ。 大玉の西瓜でさえ用意に包み込みそうな巨大な手に掴まれた春貴は、それに抗うことなどできるはずがなかった。 ごきり、という骨が砕ける音と共に春貴の首は向いてはいけない方向へと向いた。 即死だ。誰もがそう思った。あそこまで完膚なきまでに、首の骨を折られてしまえば、人間など呆気なく死んでしまう。 そう、例え別脈種であってもそれは変わらない。変換式以外に身体的特徴の差異が無い彼らは、人間のように心臓や脳を破壊されれば簡単に死んでしまう。 オックスの今の攻撃も、それを狙ってのものだった。 特に首は格闘家でさえ、鍛えてもなかなかカバーすることができない急所だ。それを、喧嘩屋でしかない春貴受けたのだから堪らない。 しかし、次の瞬間、それらの言葉は全て覆された。 「今だウィスパー!漆黒の断章!!」 『心得た!』 春貴の両の手に十字傷が刻まれたかと思うと、瞬く間に黒い甲殻が覆い尽くし、あっというまに漆黒の断章が顕現した。 拳を思い切り握り締めると、彼は振りかぶる間も惜しいとばかりにオックスの下腹部に正拳突きを見舞った。 足場こそ侭ならなかったものの、全力をつぎ込んだ一撃はオックスの巨躯を風船のように弾き飛ばす。 その巨体はそのまま道の突き当たりにある民家の塀にまで飛び、そこに派手にぶち当たって、ブロック塀を盛大に散らしながら沈黙した。 誰もが、その光景を目の当たりにし、一様に口を開いて呆気にとられた。確かに首を折られたはずなのに、それを物ともせずあの巨漢を殴り飛ばした。 事実、彼の首は今も人として向いてはいけない方向を向いていたからだ。普通の人間―――――いや、別脈種といえどもあのような状況では命は無い。 「ふうっ――――――。よいせっ!」 掛け声と共に、春貴は自分の首を本来のあるべき位置へと戻した。ごきん、といって首の関節が合致する。 誰もが己が目を疑った。 「ちっ、なんてバケモンだよ・・・・!」 舌打ちすると、響次は残りの力を振り絞って跳躍すると、そのまま民家の屋根伝いに撤退を開始した。 山田という男はそれを取り立て深追いしようともせず、だまってそれを見逃す。 彼はそれよりも、響次のタフさに胸中で感心していた。彼が撃った拳銃はベルギーのファブリック・ナショナル社が開発したファイブ・セブンというハンドガンだ。 このハンドガンに使われている五・七ミリ特殊高速徹甲弾はクラス3までのボディーアーマーを貫通し、なをかつ体内に侵入すると同時に回転する作用を有する。 貫通力とマンストッピングパワーに非常にすぐれた弾丸で、並みの人間がこの弾丸を五発も喰らえば、ほぼ確実に死ぬだろう。 いくら羅種といえども、弾丸を防ぎきることは難しい。よほど硬質の皮膚を持つか、ずば抜けた筋力を持たなければ、漫画のように簡単に防ぐことなど出来ない。 それなのに、響次は跳躍するほどの余裕がまだあり、そのうえ逃亡したのだ。身体能力だけでなく、彼は並ならぬバイタリティまでも持ち合わせているようだ。 「ぬ・・・不覚」 次に、瓦礫の中からのっそりとオックスが立ち上がった。先の一撃は流石に堪えた様だ、相変わらず無機質な表情だが、若干の焦りがみられる。 彼はスーツのポケットからスモークグレネードを取り出すと、それをすかさず爆破。オックスの姿はあっという間に煙に包まれ隠れた。 春貴はそれを見て、相手が不意を衝いて突進してくるのではないかと警戒したが、杞憂に終わった。 スモークグレネードの煙が晴れると、そこにはオックスの姿は無かった。どうやら、逃げる時間を稼ぐ為のものだったようだ。彼はそれに少し拍子抜けした。 あれだけ大きな巨躯を持ち、大振りな攻撃を繰り出すくせに、やることは意外と細かく丁寧で慎重だったからだ。 「とりあえず、目の前の脅威は去りましたな」 一仕事終えた、と言わんばかりに山田が一同に告げた。 その言葉に春貴は振り返り、質問を投げかける。 「助けてくれてありがとうよ、でもよ、アンタいったい何者だ?」 「いやあ、それはこちらが言いたい台詞ですよ」 「質問してんのはこっちだ、答えろよオッサン」 有無を言わさずという春貴の態度に、山田はやれやれを頭を振った。 「私は山田次郎というものです。KOTRTの使いで、香坂隊長をお迎えにあがりました」 「ああ?お袋をだと?」 「はい。立ち話と言うのもなんですし、とりあえず場所を変えませんか。ここでは誰が聞いているやも知れませんからね・・・」 「・・・分かった」 山田の提案に、春貴は特に物言わず従った。 「粗茶で悪いけど、どうぞ」 「やや、すいませんな隊長。このような持て成し、感無量です」 一同はアパートにまで帰ると、山田を部屋にへとあげた。 そして全員でリビングのテーブルを囲んで座った。そしてお袋が、粉末の緑茶にポットに湯を注いだ茶を差し出したのだ。 更に何故か、星火まで一緒になって席を囲っていた。こいつには全く関係の無い話なのだが、仲間外れ的な感覚が嫌なのか、強引に席に座ったのだ。 「なんでオッサンはお袋のことを“隊長”なんて呼ぶんだ?」 さり気なく疑問に思い、素直に質問しただけだというのに、山田はそれに酷く驚いたようだ。春貴をまるで珍獣でも見るかのように凝視すると、一度咳払いする。 どうやら、この男は春貴がお袋が“隊長”と呼ばれる由縁を知っていて当然だと思っていたようだ。内心で、知らなくて悪かったなと毒づく。 「君の母、香坂貴子氏は私の所属する内閣直属の対別脈種特務隊KOTRTの元・隊長なんだ。言うなれば私の元上司ってことだね」 「あのさ俺きのうから思ってたんだけど、誰か俺にその“別脈種”って奴のこと、具体的に教えてくんない?かなりあやふやなイメージしかないんだけど」 春貴は机に頬杖つきながら、不服そうに言った。確かに、彼は別脈種という存在を知ったのも、別脈種として覚醒したのも、昨日の今日だ。 周囲の人間は当然の事実として知っているが、春貴は今までそのような事実を全く知らなかったのだ。少しぐらい説明が欲しかった。 「つーか、お袋は何で今までそんなこと黙ってたんだよ?」 「だってわたし春貴はずっと普通の人間だと思って育ててたのよ?それに自分が別脈種であることを周りにカミングアウトするってことは、  自分がバケモノだって告げるのと同じことなのよ?ゴメンだけど、わたしそこまで精神タフに出来てないわ」 当たり前と言えば、当たり前の返答だ。いや、むしろそれが一番妥当で当然の答えと言えるだろう。 確かに、自分の親がバケモノであるということを教えるなどと、親からしても子からしても、相当な苦痛を伴う。避けて通れるのなら、それにこしたことはない。 「では私から春貴君へと説明いたしましょうか。別脈種という種族について」 「おう、宜しく頼むぜ」 一礼すると、山田は春貴に説明を始めた。 「先ず、別脈種の定義についてお話しましょう。別脈種とは、中枢神経に変換式と呼ばれる特殊器官を持つ人間のことを指します。逆を言えば、  通常の人間と別脈種には、それ以外には何ら差異はありません。さて、この変換式ですが、これは別脈種の最大の特徴であり、武器です。  別脈種は変換式を介して、魂から内気と呼ばれる霊子エネルギーを抽出します」 「ちょっと待てよ、それじゃ俺らは命削って戦ってるってことか?」 「はい。ですが魂とは人間が唯一持ちえる永久機関、そのエネルギーは無尽蔵。それは輪廻転生が証明しています。内気の出力に差異が生じるのは、  変換式が汲み上げることの出来る内気の量が個人個人によって違うからと言われています。まあ、どれも科学的立証は済んでいませんが。  次に、別脈種を二分している“賢種”と“羅種”についてお話しましょう。  賢種は、別脈種のほとんどを占める種族です。彼らは変換式から汲み上げた内気を、錬精術という、簡単に言うなら魔法みたいな術に使います。  対する羅種は、その内気を身体能力の強化と固有能力に費やします。これが、別脈種という種族の大まかな定義。  私や、かつて君の母が所属していた組織は、それらの別脈種を狩る為に作られた組織。勿論、狩るのは何らかの違法行為をした別脈種だけだがね。  別脈種を部隊の構成員として組み込んでいるのは、世界でも日本だけ、それもKOTRTのみ。それは、日本が別脈種の人口密度が最も集中している地域だから、  という事実が絡んでくる。現在日本にで確認されている別脈種の全個体数は千四百体、ちなみにこれは世界中に分布する別脈種の約七割を占める数です。  如何にこの国に別脈種という種族が集中しているか分かって頂けたかな?」 「何でそんなに大勢が日本に住みたがるんだ?」 「別に住みたがっているワケじゃありません。たまたま日本に多く生息していたというだけのこと。まあ、他にも理由はあるんだろうけど、そこいらは畑違い。  私は民俗学者じゃないのでね。ま、別脈種とKOTRTについての説明はこのぐらいです」 説明を終えると、山田は茶に手を伸ばし、それを飲んだ。 とりあえず春貴は、別脈種が何たるか、お袋が昔いたというKOTRTとはどんな組織か、そういったことの事情や背景を掴むことが出来た。 しかし、お袋がかつてそんな集団に所属していたなどと、話しを聞いても未だに嘘のように感じられる。 何せ、内閣直属の組織だ、そんなものに所属するぐらいなのだから、この山田っていうオッサンぐらいの戦闘力をもった輩がいるのだろう。 とてもではないが、春貴は自分の母にそれほどの強さがあるとは到底思えなかった。 「待てよ、内閣直属・・・・?」 「はい。そうですが、何か問題でもありますかな春貴君?」 茶をすすり飲んでいる山田に、春貴は不意に疑問を投げかけた。内閣直属―――――ということは、彼らは日本政府がバックアップについている組織だ。 ならば、響次やオックスといった“敵”が所属する組織―――――オフルマズドの影にもまた、日本政府の存在が感じられている。 だとすればこの山田という男も、オフルマズドと繋がっている可能性は無いだろうか。繋がりまでは無くとも、何か情報を持っているかもしれない。 「さっき襲ってきたあの連中のいる組織にも、日本政府が味方についている臭いがある。・・・・あんた、何か知らないのか?」 「奴らの背景に日本政府?それは初耳ですな」 驚いた山田は、ずいと身を乗り出して春貴に問い返した。どうやら本当に知らなかったようで、聞き返すその顔は真剣だ。 これでオフルマズドに関する情報が得られる可能性はなくなったが、この山田という男が味方であるという可能性はより強固なものとなった。 いくらお袋の元同僚とはいえ、油断するわけにもいかなかったが、これで安心である。 「そうだ。ここに座ってる女が言うには、あいつらは“オフルマズド”っていう組織の人間で、どうやらダイソン東京内にアジトを構えてるみたいなんだ」 春貴は隣りに座っている星火を指差していった。 すると山田は俯いて黙考してしまった。どうやら、余程に予想外の事実だったようで、対応に考えあぐねいているようだ。 「そうですか・・・。判りました、それは追々考えるとしましょう」 「それで良いのかよ」 「はい。今の私には優先すべき事項がありますからね。香坂隊長、KOTRTに戻って頂きます」 その一言に、春貴は別に動じることは無かった。ただ、ああやっぱりそういった感じの用件だったんだ、と思っただけであった。 だが、お袋は違った。石の様に固まり、呆然と山田を見つめていた。どうやら彼女にしてみれば、かなり想定外の言葉だったようだ。 「・・・絶対に嫌よ。それよりも、KOTRTは志願制でしょ?いつから徴兵制になったの?」 「十五年前からですよ。隊長が除隊すると同時に、隊は全てが変わりました。今まで志願制だった隊員の採用も徴兵制へと変わったように、運用まで変わりました。  それまでは別命あるまで待機という体制は無くなり、全隊員が三百六十五日、二十四時間、本部ビルに待機。その合い間は訓練に勤しむという風になり。  それぞれの席官には専属の小隊が着くようにまでなりました。もう、あのころの温い部隊ではないのですよ」 「で、とうとう私にも呼び声がかかったと。内藤に同意が得られなければ殺せとでも言われた」 「はい。どうか再び隊に戻って指揮をとってください。内藤も、ダイソン東京で待っております」 「・・・・分かったわ、行くわよ」 話しをしても無駄と思ったのか、お袋は大して反論せずにあっさりと同意した。 それを確認すると、山田は次に春貴へと振り向く。 「そして、琴坂春貴君・・・・君にも是非ダイソン東京へと来て欲しい」 「え?俺もなのか?」 「な、なに言ってるの山田!?そんなことは絶対にさせないわよ、あんなところに春貴は絶対にやらないからね!!」 お袋は、その一言に異常なまでに反応した。先までとは打って変って、感情むき出した。 「何も隊に入れるとは言っておりません。まあ、結果的にはそうなる可能性は高いでしょうが」 「だめよ!春貴は絶対にあんな部隊には入れさせない、絶対に、あんな野郎の作った部隊になんて入れさせないんだから!!」 「落ち着いてください隊長!私は、春貴君を私の弟子として貴方と共にダイソン東京へ連れて行こうと思っているだけです。彼には、強さが必要だ」 「何が強さよ!あの子にはヴィードルッシェでもスネークでも護衛につけるわ、そうすれば戦う必要なんか無い!」 「待てよ、お袋・・・・」 ヒステリックにまくし立てるお袋を、春貴は静かに制止した。彼女は、睨みの矛先を山田から春貴へと変えた。 その目尻には、うっすらと涙が溜まっていた。それほどに、春貴をKOTRTへと入れることが嫌なのだろう。何故かは知らないが。 しかし、ここまで取り乱すお袋を見るのは初めてだった。 「そのオッサンの言うとおりだ、俺には、強さが必要だ・・・」 「春貴、あなた・・・・!」 「聞けよ!俺は、この女を守るって決めたんだ」 隣りに座っている星火の方を、春貴は勢い良く掴み、さらに続けた。 「だから俺には、こいつをあいつ等から・・・オフルマズドから守る力が必要だ。そのオッサンは、別脈種との戦い方には詳しいんだろ?  だったら教えてもらうに越したことはねえよ」 「でも、ダメよそんなの、別に良いじゃない女の子を守ることぐらい、お願いだから、一緒にダイソンについて行くなんて言わないでちょうだい・・・」 「お袋・・・・俺は、この女を守るって決めた。そのためにこの力とウィスパーをこいつから貰った。だから、俺はそれに応えるんだ。  でなきゃ俺は、野郎どころか人として最低な奴になっちまう。分かってくれ、お袋」 お袋は、返す言葉が無かった。もう、息子の顔をまともに見つめることさえ出来なくなり、両手で顔を覆うと、さめざめと涙を零した。 山田はそれを見て、申し訳無さそうに帽子を深く被り。星火はワケが分からないと言った様に、周囲を落ち着きなく見回し。 春貴は、力無く頭を下げていた。 俺にだって、何が正しいのかなんてことは分からない。ここでお袋の言う事を聞くのが、本当は正しかったのか否か。 だけど俺はそれでも、俺自身に従った。そうだ、人間が信じて従って行動するのは、何時だって自分自身だ。それに変わりは無い。 俺は決めたんだ。守るって、情けなくもあっさりと一目惚れしちまった女を、守るって決めたんだ。端から聞けば理由としては弱いかもしれない。 けど俺の脳裏には、怯えて竦む星火の姿がこびりついて離れなかったのだ。 惚れた女が、震えて泣いている。 だから、守りたいと更に強く思った。助けたいと思った。 彼女の笑顔を、不動のものにしたいと思った。だから俺は、お袋が泣いても、決してこの考えは曲げない。曲げられない。 頬を、溢れた涙が伝っていった。俺はいま年甲斐にもなく泣いている。お袋の悲しみを思い、星火の絶望を思い、泣いている。 それは決して、同情や哀れみからくる涙ではない。 もっと大事な何か。 これは、決別の涙だろうか。 それとも、誰かを守りたいと願う涙だろうか。 どちらにしても、それは言葉では言い表せない感情からくる涙だった。
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