「あー、降ってきた・・・」 しとしと、と降り始めた雨に私は悪態をつく。 もう夜になったというのに、何故いまさらこんな時間に降るのか。第一、昨日の天気予報では雨が降るとは言っていなかったではないか。 「ったく、春貴の奴どこほっつき歩いてるんだか」 そして、電車での帰りに自分を一人置いていったバカ息子のことをぼやく。 確かにあの子は頭がいい。だがいかんせん、校風よろしくない学校にいた期間が長かったせいか、はたまは父親の家業のせいか、あんな不良に育ってしまった。 自分は何かと頑張って、まともで真面目な子に育てようと努力したのだが、何処かで育て方を間違ってしまったらしい。 今ではこうして、高校から連日呼び出しを受ける毎日だ。 春貴はちょっとしたことに腹をたてては、女以外はすぐに誰それ構わず殴る。 だがそれでも、私は微塵も後悔などしていない。あの子は、県内有数の進学校である東條高校に行って正解なのだ。 絶望的に下位ランクで、全国でも有数な不良校である甲賀高校に本人は進学したがっていたが、もってのほかだ。 あの子は、東條高校に特待生として合格するほどの頭の良さを持っているのだ。それを何が悲しくてそんな不良校にいれねばならぬのか。 もう一年生の二学期も中盤にさしかかったというのに、それに関するいざこざはまだ続いている。 夫も仕事でめっきり帰らなくなったし、どうすれば良いのかと頭を抱える日々だ。 その折、部屋のドアが乱雑に叩かれた。 この乱暴極まりなく一定のリズムを刻むノックの仕方は、間違いなく春貴だ。 まったく、うちのアパートは老朽化が進んで今にも倒壊しそうだから丁寧に扱えといつも言っているのに、これだ。 嫌気がさしてくる。 「はいはい、いま開けるからそう叩くなバカ!」 怒鳴りながら玄関まで歩くと、鍵とチェーンを外してドアを開けた。 「あんた、いったい今まで何処を―――――――――――あら?」 ドアを開けて開口一番に説教してやろうと大声を出した私は、目を丸くした。 そこには、雨に打たれてずぶ濡れの春貴が息を切らせて立っていたからだ。いや、それだけならここまで驚かない。 問題は、春貴がその背に女の子を背負っているということだった。 背中の女の子は春貴の長ランを肩にかけていたが、その身体は寒そうに震えていた。良く見れば、病院の検査服みたいな質素な服装だ。 道理で寒いわけだ。季節はもうすぐ冬になろうとしているこの寒空の下で、そんな恰好で雨に打たれればすぐに風邪をひいてしまう。 「ちょっと、その子・・・・」 「お袋、話は後だ。とりあえずこいつを風呂に入れてやってくれ」 背中の少女を降ろすと、春貴は母の手に預ける。 そこで私は初めて、息子のタンクトップが血に濡れていることに気付いた。 「ちょっと、その傷は!?あんたもヤバイじゃないの!」 「大丈夫だ、ほら」 春貴はタンクトップを捲り上げると、その下にある筋肉質な下腹部を見せ付けた。 だがそこは、血に塗れたタンクトップとは裏腹に、何の傷も無かった。しかしタンクトップは実際血塗れで、おまけに刃物で裂かれた跡まである。 怪我をしていないということは、あまりに不自然すぎる。 「いつも通りだ、もう塞がってる」 息も切れ切れに、春貴は告げた。 お袋が少女を風呂に入れてやったあと、春貴もシャワーを浴びた。 もうそろそろ雪がちらつき始めるという季節に、雨に打たれながら何キロも歩いて帰ってきたのだ。身体は芯まで冷え切っていた。 軽くお湯で身体をすすぐと、春貴はさっさと浴室をあとにした。 「お袋、あの女の子は?」 「寝たわ」 狭いリビングに置かれているテーブルにお袋は腰掛けていた。俺も、いそいそとその向かいに座る。 『春貴・・・・』 「?どうした」 すると今度はウィスパーが話し掛けてきた。 彼の声は春貴の頭の中にしか聞こえないので、周りからは独り言をぶつぶつと呟いているようにしか見えない。 案の定、お袋は意味深な視線を春貴に投げかける。 『スピーカーはあるか?小さな物で良い』 「ああ、分かった」 自室に向うと、ゴミに沈んだ室内から安物の小さな外部スピーカーをサルベージした。 スピーカー本体に取って付けたように接続端子がぶら下がっている。こんなものを、ウィスパーはぜんたいどうするつもりなのだろうか。 怪訝に思いながらも、春貴はスピーカー片手にリビングへと戻った。 相変わらず不審者を見る目つきでじっと凝視してくるお袋をスルーし、席に着くとテーブル上にスピーカーを置く。 『端子を持て』 「こうか?」 言われたとおり、摘むようにスピーカーの接続端子を持った。 すると・・・。 「あ、あーーーー。聞こえるか、春貴?」 「おわ!?」 突然、スピーカーからウィスパーの声が流れた。多少ノイズが混じっているものの、それは脳内で聞いてる彼の声だった。 どういうカラクリなのかは分からないが、無性に感心する。 「・・・?春貴、それなに?新手の手品?」 「ちげえ」 ますますいぶかしむ表情になったお袋に、春貴はこめかみをひくつかせながら言い切る。 「春貴、主の母君が混乱するのも無理は無い。先ずは事態の説明が先決だ」 「ま、そうだな。めんどくせーからお前が全部言ってくれや」 「そう言うと思っていたよ・・・」 気だるそうに頼み込む春貴に、ウィスパーはスピーカー越しにため息をついた。 「それでは春貴の母君、我は主の息子の脳内にいる意識体“ウィスパー”と申す者だ」 「は?脳内、うぃすぱー?」 「肯定だ。我は主の息子に覚醒した固有能力、“漆黒の断章”の管理者。変換式の覚醒と共に春貴の意識の深淵から生じた」 「・・・・・・」 お袋は、言葉も無いと言った様子だった。 押し黙って、険しい表情でスピーカーを睨んでいる。無理も無い、何せウィスパーの言う言葉は、春貴ですら理解できないものが多いのだ。 「覚悟はしてたわ、いつかはこの子が、別脈種として覚醒することは・・・・」 「は?ちょ待てよお袋。それ、どういう意味だよ。その前から知ってたみたいた口振りはよ」 「知ってるもなにも、私も別脈種ですもの」 そんな大事なことを、彼女はさらっと何でも無いと言った風に言い放った。 あまりに唐突な事実と、母の態度に春貴は唖然とする。 「ってことは、何か?オヤジもその別なんたらってやつなのか?」 「別脈種だ春貴」 「違うわ、あの人は普通の人間。別脈種じゃ無いわよ」 「それでは、我は説明にはいっても良いか?」 「ええお願いするわウィスパーちゃん。あなたの方が、春貴よりも何倍も説明力ありそうだし」 「余計なお世話だよ」 口を尖らせる春貴に構わず、ウィスパーは一度咳払いをして気を引き締める。 「主の息子は今日、パチンコで全所持金を使い果たしたあと、徒歩で自宅まで帰ろうと三駅分の道のりを歩いていた」 「あんた、またそんなとこ行ってたのか!?」 「るせえ!集中して説明を聞いとけ!っていうかウィスパー、お前なんでそんなこと知ってんだ?」 「我は主と意識と記憶を共有している。話を戻すぞ・・・その途中、春貴が背負って帰ってきたあの少女を見つけ、保護したのだ。だが、その際にトラブルがあった」 「どんな?」 「襲撃者だ」 その一言で、流石のお袋も気を引き締めた。 場の和んでいた空気が、瞬時に張り詰めるのが分かった。 「セガールと名乗る、おかっぱ頭の日本人男性、推定年齢二十歳前後と、響次と名乗る金髪の眼帯をした日本人男性、推定年齢三十歳前後の二人組みだ」 響次、という名が出たとき母の目の色が変わったことに、春貴は気付かなかった。 もし気付いたとしても、響次と母との繋がりなど到底見出せなかっただろうが。 「二人共、春貴や主と同じ別脈種――――それも羅種だった。セガールと名乗るほうはさほどの腕ではなかったが、響次と名乗るほうはなかなかの手練であった。  二人の目的は件の少女の確保であったが、春貴がこれに抵抗し、敵一人を撃退、うち一人の殺害に成功している」 春貴は顔を伏せた。 ウィスパーが述べる淡々とした事実が、何故か酷く心を軋ませた。 殺害・・・。そうだ、べつに彼は間違えもしなければ誇張もしていない。だが、何故か言い知れぬ感情が込み上げた。 後悔か。後ろめたさか。自責か。それとも・・・・・恐怖か。ありあまる自分の力に対する、慄きなのか。 「で、春貴はその戦いの中で別脈種として覚醒したの?」 「左様。だが正確には、春貴の覚醒には件の少女が関係している」 「どういうこと?」 「春貴の覚醒の起因は恐らく、件の少女にある。あの少女の持つ何らかの力が、春貴の中で眠っていた別脈種としての力を呼び覚ましたのだ」 「・・・そう」 お袋は神妙な面持ちになり、春貴も変わらず顔を伏せていた。場に、言い難い雰囲気が漂う。 すると春貴は突然思い出したように顔を上げると、お袋に質問した。 「なあ、お袋にはウィスパーみたいな奴は居ないのか?」 「もう一つの意識体とかいうやつ?ないない、そんなの」 あっさりと否定された。 「ってゆーか、そんなの聞いたことない。自分の中に固有能力を統轄するもう一つの意識があるなんて。異例中の異例よ」 「ほーう、じゃあ本来ウィスパーは居なくてもいい存在ってわけか」 「春貴・・・・!」 「冗談だよ」 語気を強めて言い寄ろうとするウィスパーを春貴はあしらう。 勿論、春貴は本心からそう言った訳ではない。実際、春貴は彼に感謝している。この力の事は、自分自身は何一つ分からないのが現状だ。 それを懇切丁寧に説明し、レクチャーしてくれる存在が居るのは、これから先、心強い。 これから先――――きっと、あの二人組みのような奴らが襲ってくることがあるはずだ。奴らの口振りからして、恐らく彼らは何らかの組織に属している可能性が高い。 なら響次とかい男の再度襲撃、もしくは新たな刺客の存在も懸念される。 確かに、自分のこの能力“漆黒の断章”ははっきり言って怖い。だが、臆している暇などないのだ。 ―――――そんな一時の感情に任せて何でもかんでも首を突っ込んでると、そのうち死ぬわよ。 ふと脳裏に、あの女の胸糞悪い台詞が蘇えった。OK、臨むところだ。これがただの気紛れか、偽り無き真実か、その目にしかと刻ませてやる。 琴坂春貴、十五歳、高校生でバケモノ。喧嘩の腕は天下逸品。吐いた台詞は、死ぬまで徹す。 「・・・とにかく、今日はもう休むことだ春貴。変換式の突然の覚醒や戦闘で、主が思っている以上に身体は疲弊している」 「そうか?俺はけっこう平気だけど――――」 「我は主の身体に住まう意識体だぞ?主の身体のことは主以上に分かる。何なら主の健康状態を明確かつ具体的に述べても良いのだぞ?」 これ以上の口論は無用とばかりにウィスパーは釘を刺す。 春貴は返す言葉がなく、渋々と指示に従った。席を立つと、自室に向う。 「じゃ、おやすみ。お袋」 「ん、よく休みな」 そういって春貴はリビングを後にした。 自室に入ると、春貴は改めて自分が持っているスピーカーをしげしげと眺める。確かに、ウィスパーはこのスピーカーを通して喋っていた。 だが、その原理は一体どうなっているのだろうか。 「なあウィスパー、お前このスピーカーでどうやって喋ってんだ」 「何度も言うようだが我は主の中にある意識体、平たく言ってしまえば電気信号の反芻に過ぎない。主の身体に流れる神経系の電気信号を倍加すれば、  そこから我の言葉を電気信号に変えてスピーカーから流すことも可能・・・という訳だ。分かったか?」 「まあ、漠然と」 「ならば良い。さあ寝るぞ、明日からはさっそく主の能力の錬磨にかからねばならぬ」 「練磨?」 「特訓だ」 「げー・・・。ま、いっか」 露骨に嫌そうな声を出す春貴だったが、それも一時のことだった。すぐに諦めたように承諾する。 だが彼の心の中では、覚悟の炎が緩やかに揺らめいていた。 「あ゛ー、眠い・・・マヂ無理」 朝。携帯の目覚まし機能に春貴は叩き起こされた。電子音に変換された流行歌の着メロが、今は仇敵のように恨めしい。 寝ぼけ眼で布団から這いずり出ると、手探りで携帯を探り出し、五月蝿いこと極まりない着メロを止める。 そして、春貴の意識は再び眠りの海に没しようとした。 『起きろ春貴。もう朝だ』 「黙れ、死ね。俺は眠い」 『なんと寝起きの悪い・・・・・。春貴、早急に起床しなければこちらにも考えがあるぞ』 「あっそ・・・・」 脳内に響くウィスパーの声に構わず、春貴はいそいそと布団へと潜行を開始する。 冬も近いこの季節、布団から出るのは辛い。何より眠い。春貴は布団の温かさと柔らかさを噛み締めながら、どうどうと二度寝に入る。 『起きろ!!』 「んごおっ!?」 だが、それはウィスパーの怒号と共に全身を駈け巡る激痛に阻まれた。 急な痛みに、春貴は自分の身に何が起こったのか全く理解できなかった。ただ悶え苦しむ。 『どうだ、これで我の恐ろしさが少しでも分かったか?』 「て、手前・・・・一体なにしやがった・・・」 悶絶しながら息も絶え絶えに春貴は詰問する。 それに、ウィスパーは鼻息荒く自信満々に答えた。 『主の感覚神経に、瞬間的にだが高圧の電流を流した。なに、案ずる事はない。健康に支障はない範囲内での威力だ、目覚ましには丁度良いだろう?』 「クソ・・・分かったよ、起きるよ。起きりゃ良いんだろ?」 『他にも主の脳内で大声を出すなどと言った古典的な手段から、運動神経に電気信号を流し主の身体を操るなどという、高等な手段もあるぞ』 「・・・・お前にゃ負けたよ」 『よろしい』 項垂れる春貴の頭の中でウィスパーは満足げに言った。 「あら春貴、起きたの?今日はえらく早いのね」 「おう、脳内の寄生虫に叩き起こされた」 自室を出てリビングに出ると、既にお袋が一番乗りに朝食をとっていた。 春貴の朝食は用意すらされていない。いつも起きてくるのが遅い春貴なので、彼女はいつも自分が朝食を終えてから彼の朝食を用意することにしているのだ。 「ウィスパーちゃんは?」 「ほれ」 春貴は予め持っていたスピーカーをすかさず構えた。 「好調だ、母君」 「そう。じゃあウィスパーちゃんの為にも、春貴に早く餌をやるわね」 「餌って・・・・ってゆーかウィスパーのためかよ」 そう言ってお袋が台所に立つのと、ほぼ同時に、物凄い物音がリビングに届いた。 まるで、食器棚を丸々引っ繰り返したかのような、けたたましく壮大な音の氾濫だった。それは、お袋と親父の寝室であった。 その部屋には今、あの少女が寝かせてあった――――。 「まさか――――――!」 良くない考えが脳裏を過ぎり、春貴は駆け出した。まさか、昨日の連中があの女を取り戻す為にもう・・・。 だとしたら、彼女の身が危ない。そう思い、寝室のドアを乱暴に開けた。 だが、飛び込んだ寝室内には奪還者の姿はなかった。 変わりにお袋のドレッサーが引っ繰り返され、その他の家具やカーテン等がぐちゃぐちゃに引っ掻き回されていた。 遅れて駆けつけたお袋は寝室内のその惨状を目の当たりにすると、その場で卒倒した。 「・・・・いや・・・だれか・・・・っあぁ・・・た、たすけ・・・・」 引っ掻き回された物が散乱した寝室の片隅で、少女は震えていた。目尻からは涙が零れ、哀願するように何度も同じ言葉を繰り返し呟いていた。 異常なまでに怯える姿に、春貴はどうしようもない無常感と、同時に激しい怒りを感じた。 この少女を蝕んでいる恐怖の暗い影に、目を覆いたくなるような気持ちになり。この少女をそこまで追い込んだ恐怖に、止めようのない憤怒が暴走を始める。 「おい、落ち着けよ。ここは安全だ」 春貴は、そっと少女に手を差し出した。 そうすれば、彼女が少しでも安心できると思ったからだ。誰かが、優しく囁きかけて手を差し伸べれば、彼女も怯えなくなるのでは――――そう考えてのことだった。 だが、現実は違った。 「ああぁあぁぁぁ!!」 「ッつ!?」 絶叫と共に、少女は差し伸べられた手に噛み付いた。 歯は容易く皮膚を食い破り、彼女の口の中には血の味が溶ける氷のように広がっていく。 まるで、狂犬だ。昨日初めて見た、あの気高い猫科を連想させる気丈で高貴な印象など見る影もない。 「・・・すまねえ」 しかし春貴は、動じなかった。手を噛まれても、少しうめいただけで、後は振り払おうともしなかった。 変わりに、怯える彼女を硝子の人形を抱くが如く抱擁した。 元々こういう事に不慣れな彼だったので、殊更慎重に。 「怖いんだよな。苦しいんだよな。待っててくれ、俺がすぐに・・・・そこから助け出してやるから。だから、な。もう泣くのは止めろ」 「ふーっ、ふーっ、ふーっ・・・・・・・・ふー・・・・」 荒いでいた彼女の呼吸は、彼の言葉によって段々と落ち着きを取り戻していった。そして、春貴の手から口を離した。 彼女の目は、ある程度の落ち着きを取り戻していた。口の端からは、春貴の手に喰いついた時の血が、僅かに付着している。 「落ち着いたか?」 「・・・・うん、ありがとう」 少女は素直に答えた。 春貴は改めて、自分が背負い込もうとしているものの大きさを実感させられた。 「はい、二人ともどーぞ」 少女も落ち着いたという事で、お袋は俺たちに朝飯を用意してくれた。 先の部屋の惨状は、まあ容認するらしい。お袋は散らかった部屋が死ぬほど嫌いなのだが、ここは何とか我慢するようだ。 二人の目の前に、皿に乗ったこんがり焼けたトーストが差し出される。 「いただきます」 「・・・・・・」 春貴は常套句と共にトーストにかぶり付いたが、少女は無言のまま口に運んだ。先刻の件もあることからか、心なしかリビングの空気は重い。 お袋もそれを察しているらしく、微笑んでいるものの額にはうっすらと汗が浮かんでいる。 「皆の者、食事中ですまんが一つ良いか?」 食事を遮るように、スピーカーから堅苦しい言葉使いでウィスパーが話し掛けてきた。 無言のまま二人とも食事の手をいったん止める。春貴はトーストをもう殆んど食べ終わりそうだったが、少女はまだ一口かじっただけだった。 口に合わない・・・というよりも、心的な要因が強いのだろう。 「なんでえウィスパー、メシ中に話し掛けるなんてよ」 「うむ。出来れば早急に消化したい事項だ。そこの少女、我らは主のことを何も知らん。せめて、名だけでも教えてはくれまいか?」 少女はスピーカーから聞こえてくる謎の声に動じることもなく、俺やお袋を一瞥した。 そこには先のような狂的な恐怖なかったが、明確な警戒心が見え隠れしていた。確かに、信用するにはまだ心許無いだろう。だがそれは仕方のないことだ。 俺が信用しろと何百回言ったところで、解決できるような問題でもない。 「・・・・星の業火」 「? ほしのごうか?」 不意に少女の口から出た言葉に、春貴は意味が分からず聞き返す。暗号か何かの一種だろうか、それともかなり複雑な比喩を用いた意思表示。 思考は飛躍するが、どれも今ひとつの結論にたどり着けない。だがそれは、少女自身から解決してくれた。 「私の名前、“星の業火”。御館様はそう呼んでた」 「ま、マジか・・・」 「呼びにくいなら、“星火”で良い。“オフルマズド”の連中はそう呼んでたから」 「ああ、そう。“せいか”ね、それなら呼びやすい」 困惑しながらも、春貴は受け答えた。この少女―――――星火のいう“御館様”っていう奴はいったいどういうネーミングセンスをしているのやら。 全く、普通とは思えない。“星の業火”、とてもじゃないが一端の女の子につける名前ではない。 「それで星火とやら・・・主の言う“御館様”や“オフルマズド”とは?」 「御館様は、私の父親みたいな人。でも、とても怖い人なの・・・・」 顔を俯かせ、星火は絞るようにそう言った。深く詮索はしなかったが、余程に思い返したくない仕打ちを受けたのだろう。 ウィスパーもそれを察したのか、それ以上は聞かずに質問を変えた。 「では、“オフルマズド”とは?」 「それは昨日アンタが戦った奴ら」 「あいつ等か・・・・」 昨日のあいつ等・・・詰まる所、あの響次とセガールと名乗る男たちのことだ。やはり、何らかの組織に属していたようだ。 「オフルマズドは、御館様の兵隊。私達の世話や、人殺しなんかやってた。人数は、全部で四人だと思う。それ以外は知らない」 「良かろう。では星火、主は今までどこに住んでおったか、それは覚えておらぬのか?」 「覚えてる」 「して、そこは?」 「ダイソン東京」 星火を除く全員が、その場で言葉を無くした。ダイソン東京、いくら隣の都道府県だからと言っても、その距離は人間の足で並大抵に移動できるものではない。 第一、ダイソン東京にいたということは、日本政府がその“御館様”や“オフルマズド”なる存在を黙認しているという事実でもある。 ダイソン東京は、言うなれば世界のテロ対策の象徴だ。外部からの攻撃に対しては言うまでもなく、内部のセキュリティも群を抜いている。 徹底した住民の管理から、市街に死角がないように所狭しと配置された監視カメラ、赤外線センサー、感圧センサー、エトセトラ、エトセトラ・・・。 そしてそれを二十四時間管理可能な高度な電子技術。天球の中では、ゴキブリ一匹でさえ監視の目から逃れることは出来ない。 そんな中に、ましてやオフルマズドなる組織が居を構えることなど出来得るはずがないのだ。 つまり、極論的に言うならば、天球内を管理する日本政府が彼らをバックアップしているとも考えられるのだ。 どうやら、事態は春貴が考えている以上に、相当に危険だ。もしかしたら、余裕などもうないのかもしれない。 「そうか、ダイソンか・・・・。じゃあお袋、俺学校行ってくる」 「え?もう行くの、まだ八時にもなってないけど――――」 「行ってくる」 半ば強引に会話を打ち切ると、春貴は席を立ち、そのまま自室へと向った。手早く長ランへと着替えをすませると、さっさと玄関へと向う。 「ちょっと、いつもは遅刻ぎりぎりに登校するくせに、なんだって今日はこんなに早く出るのよ」 「何でもねえ。それより・・・・お袋、そいつの面倒頼むぜ」 振り向きもせずに、春貴は足早に家を出た。 『春貴、何ゆえ唐突に家を出た』 「別に。学校があるから出てきただけだよ」 高校までの道中の電車内で、ウィスパーは意味ありげに質問してきた。周囲への対策のため、電源を切った携帯を構えているため、不審に思われることはない。 実のところ春貴はウィスパーが聞かんとすることを自ずと分かっていた。彼は、こう聞いているのだ。 逃げたのか、と―――――。 内心では違うとは思っているものの、深層的な心理は違う。迷っていた。確かに、俺は逃げたのかもしれないと。 彼女を覆う、あの言い知れぬ凄惨さから。目を背けようとしたのかもしれない。だがそう断言することは、プライドが許しはしない。 「百歩譲って、俺があの女から逃げたとしよう。でもな、俺は絶対に降りたりはしねえ。守るって事は決めたんだ、手前で抜かしたことは徹す」 『・・・そうか。なら良い』 「じゃあ今度は俺の質問だな。これ、どうすんだいったい?」 携帯電話に耳をあてたまま、春貴は長ランのポケットから安い皮製の黒い手袋を引っ張り出した。それは、彼が普段バイクに乗るときなどに使うものだ。 急いで着替えている時に、ウィスパーが指示して春貴に無理矢理に持たせたのだ。それをぴらぴらと弄びながら、携帯電話に話すフリをする。 『うむ。それでは手袋をはめ、漆黒の断章を発動させろ』 「はあ?今ここでか?」 『左様。愚図愚図するな、主の錬磨には何より時間が不足しておるのだ』 「わーったよ・・・・・。はいよ、これで良いのか?」 携帯電話を押さえつつ、春貴は両手に皮製のグローブをはめた。 「えーっと・・・・発動って言っても、どうすりゃ良いんだ・・・?」 『・・・・はぁ』 「あ、ため息つきやがったな手前、こっちは変換式ってやつが出てきたのが昨日の今日って状態なのによ。ええ、おい?」 『分かった、我が現出させよう。確かに、主が慣れるまで我が漆黒の断章を御するのは当然の務めだな』 「おうよ、分かればいいんだよ」 ちりちりと焦げる様に首筋が熱くなるのを感じると、急に手に違和感を覚えた。 手袋を少し捲り上げて中を見ると、そこには先日見たのと同じ―――――黒い甲殻に覆われた手があった。 「で、漆黒の断章を出したのは良いけど、これからどうするんだ?」 『今日一日中、ずっとそれを維持し続けてもらう』 「は・・・・・・?」 何の悪気も無くきっぱりと言い切ったウィスパーに、春貴は思わず間の抜けた声を出してしまう。 「な、なに言ってやがんだ手前は!これけっこう疲れんだぞ!?知ってるだろ、俺が昨日この力のお陰で布団に入ったら即行でぶっ倒れたの!!」 『無論知っている。だがな春貴、事態は主が想像している以上に急を要する。手段は選んでいられないのだ。主はなるべく漆黒の断章を使わずに戦いたいのだろう?  ならば、先ずは変換式を使うことから慣れろ。さすれば、自然と身体が内気に順応し、主の力はそれだけでも倍加するであろう。幸いなことに、  主は戦うということが如何なものかということを心得ておるからな、技術や心がまえに関する事に関しては申し分ない』 「・・・・・詰まり、どういうことだ?」 『簡潔に述べるならば、漆黒の断章を使うことによって内気を使うということを身体で覚える。主は羅種だ、羅種とは身体に内気を巡らし、己が身体を強化して戦う者。  内気の使い方を覚えるだけで、主は身体的にも精神的にも格段に強くなるのだ』 「要するに、強くなるにはこれが一番の近道って事か」 『そうだ』 納得すると同時に電車が止まり、ドアが開く。 雪崩のように降りていく人々の中に春貴も紛れ込むと、電車を後にした。 がらり、と教室のドアを開けて中に入ると、春貴はなんとも言い難い心境になった。春貴が教室に入ると、それまで賑わっていたクラスの面々が急に押し黙るからだ。 当然といえば当然だ。ここは県内でも有数の進学校として知られる私立東條高校、本来ならば春貴のような不良のいるべき場所ではない。 それ以前に、春貴自身が色々と問題を起こしているということも大いに関係している。 クラスの至る所から、ひそひそとクラスの奴らの囁きが耳に入ってきた。 ・・・ったく、なんでウチの学校にあんな時代遅れの不良が。 昨日も、三組の小暮君を殴り飛ばして病院行きにしたそうよ。 ああ、やだやだ。ホント、早く退学か何かになってほしいわ。 等など。決して春貴自身が聞き耳を立てているのではない。漆黒の断章の使用に伴い、身体能力が倍化されているからだ。鋭敏な聴覚というのも考え物である。 そのまま教室の隅に孤立するようにある自分の席に直行しようとした春貴は、とある人物の席の前で足を止めた。 大抵のクラスの奴らは、こんな風に春貴にいきなり席の前に立たれると、怯えるか迷惑がるかの、どちらかの行動しか取らなかった。 たった一人の、例外を除いて。 朝、席に座って無為に時を過ごしていた彼は、春貴が自分の席に近寄っていたのに気付く。 「ああ、おはよう琴坂。元気?」 「別に」 琴坂――――ちなみに言い忘れていたかもしれないが、琴坂とは春貴の苗字である。琴坂春貴、それが春貴のフルネームだ。 そして春貴に軽く朝の挨拶を交わしてきた肝っ玉の据わったこの人物は、神崎正憲という男だ。 彼は、この学校で最も春貴と親しいという、かなり奇特な人物である。 柔和で整端な顔立ちに、春貴にも引けを取らない長身を持つ。成績も上々、性格も言動も穏やかで、女子の人気も高い。ただ、少し風変わりな雰囲気をもっている。 ルックスも容姿もかなりの高レベルなのだが、外見とは打って変って相当な“オタク”である。 渋谷を歩いていても何の問題も無さそうな一般人に見えて、プラモとバイクに五月蝿く、ゲームは買ったらとことんやり込む。アニメはさほどではない。 最近はフィギュアやパソコンゲームに興味あり・・・・という、とにかく妙で掴み所のない男なのだ。 「じゃあNS−1の調子は?」 「そっちは上々。おとといも駅前を転がしたけど、相変わらず良い音出してるよ」 「良かった」 NS−1とは、春貴のバイクの名称である。HONDA NS−1、れっきとしたレーサーバイクだ。 ちなみに、春貴は未だ十五歳。原付の免許すらとれない年齢であるのだが、彼はとある親しい仲のバイク屋からこれを高校入学祝ということで無償で手に入れたのだ。 当然、そのバイクの存在は両親には知られているが、なんの忠告も無いので本人は気にせず乗っている。 通学の時などは、ポリ公に見つかると面倒なので電車にしている。制服などから身元がバレるからだ。 そしてそのNS−1を、この神崎正憲が春貴に代わって整備しているのだ。 どこで習ったのかは知らないが、その腕は確かなモノで、一端の整備工よりも余程熟練している。本人曰く、それも趣味の一環らしい。 そういうワケもあって、春貴はこの神崎というクラスメイトと仲が良いのだ。 「そんじゃ数学のノート借りるぞ。俺、先週の授業の公式ぜんぜん写してねえんだ」 「あっ、ちょっと琴坂。今日は小テストがあるから勉強にノート使いたいんだけど・・・」 「テスト寸前にノート見るなんていう中学生みたいなその場凌ぎをするお前が悪い。放課後には返すよ」 ノートを巻き上げると、春貴は自分の席へと歩いていった。 そのとき、春貴が家族以外の人間と――――ましてや学校の人間と親しげに話していることに、ウィスパーが驚愕しことは言うまでもない。 意識や記憶を共有していても、分からないことはあるものだ。 そして、この後あのような事態が起こるとは、春貴は夢にも思わなかった。 春貴は椅子に深く腰掛けながら、神崎から借りたノートを写していた。別に提出の義務がある訳でもないのだが、さすがの春貴も基礎なしにはどうしようもないのだ。 だからこうやって人並みには勉強をする必要がある。 今は英語の授業なのだが、そんなことはお構い無しだった。実際に春貴は、映画を見て培った常人ならざる英語力があるため、流暢な英語を話せる。 それに、文法は数学の公式と一緒で、覚えてしまえば後はそれを状況に合わせて組替えたりするだけだ。何も難しいことは無い。 加えていうならば、春貴を注意するような教諭はこの学校には居ない。だから、こうも堂々とノートを写せるわけなのだが。 これで成績が学年でトップだというのだから、ふざけた話だ―――――と春貴は内心で自嘲した。 その折だった。 「・・・・?」 授業中にも関わらず、唐突に教室のドアが開いた。東條には春貴以外に遅刻するような生徒は居ない。 では一体誰が、授業中に教室に入ってきたのか。不思議に思い、ノートを写す手を一旦休めると、春貴は顔を上げた。 その瞬間、自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。何故、春貴の顔から生気が抜けていったのか。それは、 教室の入り口に、星火が立っていたからだった。 その後ろでお袋が春貴に向って、両手を合わせて無言でゴメンと言っている。・・・・いや、ゴメンっていうぐらいなら、この状況を今すぐどうにかしてくれ。 いや、いっそのこと夢か幻にして欲しい。春貴は、このまま星火が何も口走らないことを切に祈る。 「ハルキはどこ?」 しかしそれも、星火のたった一言によって見事に轟沈された。教室中の視線が、一斉に春貴へと集中する。 その視線の集中砲火から逃れるように、春貴はワザと視線を窓の外へと泳がせる。 人違いです、私はそんな女とは無関係です――――と身体で周囲に告げるが、あまり意味は無かった。 授業をしていた英語教諭も、いきなりのことに呆気にとられたまま固まったままだ。 (これは夢だこれは夢だこれは夢だ―――――ってか、何で!?どうして!?何故にあの女はここにいるワケ!?) 脂汗を滝のように流しながら自身に問答する。その最中に、盗み見るようにちらりと、横目で星火へと視線を向けた。 彼女も春貴の居場所に気付いたのか、じっとこちらを見つめている。それも、一心不乱に。 良く見れば、彼女の着ている服は真新しかった。恐らく、お袋と一緒に買い物にでも行っていたのだろう。で、そのついでに俺の学校へ来たと・・・。 いや、来るなよ。マヂで。 明日からの学校生活を本気で心配し始めた春貴に構わず、星火は再度呼びかけてきた。 「ハルキ、ここが貴方のガッコーってところ?随分と変わった建物ね」 「変わってんのは手前だ!」 思わず叫び返すと、教室から集まる視線はさらに激しさを増した。いかん、判断ミスだ。ここは徹底して彼女の言葉を無視し続けるのがベストだったのだ。 そうすれば、あとで何なりと事実のもみ消しは効いたのだ・・・。が、時すでに遅し。こうも阿吽良く返答してしまったら、もう取り返しはつかない。 春貴の叫び声に、英語教諭はやっと意識を取り戻すと、泡を食って星火ににじり寄った。 「ちょっとちょっと何ザマス、ユーは!?アタクシのエクセレントかつエレガントな授業をジャマーするとは、一体どういった了見ザマス!?」 ちなみにこの英語教諭は男性である。その独特の口調は生徒間でも評判だ。 英語教諭は星火に極限まで顔を近づけると、鼻息荒く詰問する。 「それにユーは東條のステューデントじゃないザマスね!一体誰の許可をとってエンターしてきたザマスか!?」 どうやら、彼には星火の後ろの春貴の母には気付かなかったようだ。 詰め寄る英語教諭を見かねた春貴は、ため息まじりにすっくと腰を上げた。こうなれば、後はどうにでもなれだ。 元々不満だらけだったこの学校生活、こういう終わり方も意外と良いかもしれない。 「汚ねえ顔面コイツに近づけてんじゃねえよ、この似非カマ教諭が・・・」 ドスの聞いた声と共に、春貴は教諭と星火の間へと割り込んだ。 教諭の前に、身長百八十センチオーバーの春貴が立ちはだかった、その様はまさに壁といった様相である。 威勢のよかった英語教諭も、春貴を前にするとみるみる萎縮していった。 「え?あ、あのー。ミスターのお知り合い?ならヴェリーにソーリーでザマス。でも、こういう来客のヴィジットは出来れば授業が終わってから――――」 「黙れ。失せな」 こつん、と春貴は手の平で教諭の肩を押した。その直前にウィスパーが『止めろ、春貴!』と制止をかけるが、遅い。 「ああああれええええええええええええええええ!?」 春貴からしてみれば少し小突いたつもりだったのだが、それに反して英語教諭はワイヤーアクションも真っ青な勢いで吹き飛ばされた。 そしてそのまま真っ直ぐに、換気で開けていた教室の窓から外へと飛び出していった。 ちなみに、この教室は三階。 彼の脳裏には、明日の東スポの一面が手に取るように想像できた。 「高校生、注意に腹たて教師を殺害」「教員、生徒に突き落とされ死亡」「犯人の生徒は不良」「校内で暴行を繰り返していた」「以前から問題が――――」などなど。 ナイアガラの滝のような脂汗をかきながら、春貴はその場に凍りつく。 『春貴、現在の主は漆黒の断章の発動に伴い筋力が飛躍している。主には少しのつもりの力でも、常人からしてみれば度外の力なのだ。それを忘れるな』 「いや、もう遅いから」
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