あれほど吹き荒んでいた風が、何の前触れも無く止んだ。
響次とセガールは、九死に一生を得たといった風だ。もう少しでも長くあの風が続いていたならば、少し危なかったかもしれない。
「・・・響次、今がチャンスだ。目標を即時確保し、あの青年は排除する」
「分かってるよ、それぐらい」
体勢を立て直すと、二人は再び春貴と少女へと向ってにじり寄った。もうこれ以上の失態は許されない。
流石の響次も、いつもの軽薄さが消え、目の前の戦いへと集中していた。
「・・・・なんのつもりだ」
「退け、若いの」
その二人の行く先を、春貴が立ちはだかって阻んだ。身長百八十センチオーバーの体躯が、路地を塞ぐ。
彼の纏っているやたらと裾の長い学ランが、その威圧感を増していた。さながら、地獄の門番といった風情である。
しかし春貴は二人の言葉が聞こえていないのか、微動だしない。それどころか、何の反応も返さない。
「退けつってんだよ、コラ」
響次が有無を言わさずグルカナイフで斬りつけた。警告も何もあったものではない、不意打ちといってもいいくらいに、唐突な斬撃だった。
伊達にプロを名乗っていない彼のナイフは、吸い込まれるように春貴の首筋へと走る。大気を裂くその速度は、並大抵に避けられるものではない。
春貴は、避けようともしなかった。体が硬直したように、石のように立ちはだかっているだけだった。
案の定、グルカナイフが春貴の咽喉元へと直撃する。
胴を軽く両断できるほどの速度と威力を秘めた一撃を、何の守りも無く咽喉に喰らった。本来ならば、人形のように首が飛んでいただろう。
だが、違った。
「こ、こいつ・・・!」
ナイフを一閃した響次の表情が驚愕の一色に染まる。
「はは、こいつは驚きだ」
首に致死の一撃を喰らったはずの春貴が、口を開いた。その口調は余裕そのものだ。
先のグルカナイフの一閃は確かに彼の首にきまった、だが、それを斬りつけるには至らなかったのだ。
ナイフの刃は、まるで鉄骨にぶち当たったかのように、春貴の首を傷付けることなく、止まっていた。
「正直、首を落とされるって思ったけど・・・・なんか不思議だな。全然痛くねえ」
春貴は、自分の首に押し留められているナイフの刃を徐に掴んだ。本来なら、その鋭利な刃に手の平は容赦無く切り裂かれるのだが。
今の彼は違う。まるで鉄板でも掴むように、思い切り握り締めると、そのままナイフを強引に押し返した。
「今度はこっちの番だぜ!歯ァ喰い縛りやがれ!!」
咆哮すると、春貴は腰を落とし、十分に振りかぶってから、正拳突きを響次の胸部へと放った。
空気が、ごうと唸りを上げ、拳が信じられないような速度で飛翔し、響次へと突き刺さった。
胸部のど真ん中に当たった拳から、骨が折れる感触が伝わってきた。恐らく、肋骨を数本骨折したのだろう。
「っあが!」
拳撃の勢いで、響次は路地の外まで吹き飛ばされた。そして道路に路上駐車してあった乗用車に激突し、派手に硝子の破片が飛び散る。
その一連の様子を見て、セガールは呆然とした。
何なのだ、こやつは一体・・・。先ほどまでは“ただの人間”だったはずだ。だが今の奴の攻撃は、明らかに人間の身体能力の範疇を逸している。
いやそれ以前に、先ほどまでは感じなかったが。
今のあの不良からは、確かに“内気”の気配を感じる。
有り得ない。内気とは、言わば心音。隠そうと思って隠せるものではない。ましてや止めることなどもっとできない。
同波長の内気をぶつければある程度の内気の隠蔽は確かに可能だが、その方法はまだ未完成もいいところだ。完璧ではない。
なら何故、我々の目の前に青年から、今になって内気の気配を感じ始めたのか。先に言ったとおり、気付かないわけも、隠せるわけもない。
だが、一つだけ思い当たることがある。あの少女だ。我々の目標である、あの少女が・・・“アレ”を使ったのだ。
「覚醒したのか・・・」
呆気にとられているセガールへと、春貴がのっそりと近寄る。
セガールはそれに気がつくと、急いで身を引き締めた。響次は、我が部隊内でも屈指の実力を持つ男だった。正直、私よりも遥かに強い。
その響次が、ああもいとも容易く・・・。確実に殺す気でかからなければ、こちらが負ける。
「死ねい!」
しゃがみ込むと、燕の様に早い足払いを繰り出した。
響次は真っ向からぶつかって押し負けた、なら私は姑息ではあるが、相手の隙をついて勝つしかない。
この青年は確かにパワーだけは強い、だが隙だらけだ。足払いをして体勢を崩したところを畳み掛ければ――――。
「遅い」
「なっ・・・・!?」
しかし、彼の目論みはあっさりと崩れ去った。
蛇のように地を這い、燕のように速いセガールの足払いを、春貴はまるで空き缶を拾うかのように止めた。
その顔には、強者の余裕も、達人の威厳もない。だが、戦いに対する、どこまでも貪欲な欲望が潜んでいた。
「はっは!どうしたおかっぱ頭!」
掴んだを足ごとセガールの身体を振り回すと、春貴はそれを路地の壁へとぶつけた。
春貴の常軌を逸した筋力と、セガ―ルの常人ならぬ体躯の頑丈さが合い間って、セガールの身体はコンクリートの壁へとめり込んだ。
その様はぶつけた、というよりも埋め込んだという方が形容が近い。人で無き者にしか出来ない戦いだ。
『ぬるいな』
だがその折、突然声が聞こえた。
「新手か・・・?」
春貴が辺りを見回すと、それらしき人影は見当たらない。
コンクリートに叩き込まれたセガールに、のそのそと全壊した車の残骸から這い出す響次、そして路地の奥で不安そうに見守る少女・・・。
それ以外に、人の影も気配もない。今の彼の全身の機能は飛躍的に強化されていた。聴覚もその例に漏れず、かなり鋭敏化している。
だから、空耳ということは考えられない。では、どこから。慎重に辺りを窺う。
『空け者が、此処だ。此処に居る』
また聞こえた。
良く耳を澄ませば、その声はおかしかった。まるで安いカラオケ機材のように、妙にエコーがかかった声なのだ。
拡声器やスピーカーで、誰かが遠くから話し掛けている・・・・いや、そんな風ではない。音はほとんど拡散していなかった。
それに、いま自分がいるのは狭い路地だ。そんな所に遠くから拡声器などで話し掛けたら音が反響するはずだ。だが、その反響もない。
ますます頭をこじらせていると、三度声がした。
『頭の硬い童だ・・・。此処だ、お前の空っぽのお頭だ』
「・・・・・?は・・・・?」
頭の中・・・。
いま聞こえた声は、確かにそう言った。俺に頭の中だと、そんな馬鹿な。いったい何処のサイコ野郎の仕業だ。
春貴はよりいっそう集中して辺りを警戒する。
『馬鹿者。我の言う事を信じぬか。それに我は「さいこやろう」等ではない』
「・・・まさか、マヂか」
『左様。二度も言っておるだろう』
「ふ・ざ・け・ん・な!」
春貴は、思い切り頭を振り回した。
軽く脳震盪になるのではないかと心配するほどに力強く、乱暴に、自分の頭ということを忘れて頭を振り続ける。
冗談じゃない。自分の大事な頭の中に、そんな変でワケの分からないものを置いていられるものか。
『・・・頭を振るのは構わんが、損をするのは貴様だけだぞ』
「あ、目が回る。マジ気持ち悪い・・・・」
込み上げる吐き気を堪えながら、今日は厄日だと悪態をつく。
学校には呼び出されるし、パチンコで全額すっちまうし、挙句には変な噛み付き女を見つけ、これまた変な二人組みに襲われ、
果てには自分の頭の中に誰かの声が聞こえ始めた。
きっと今日は人生で最も運の悪い日だ。ああ、なんて可哀想な俺。
『悲観ぶるな、気色の悪い』
「人の考えを読んでんじゃねえ!」
『我はお主の意識の深淵に生まれた、新たな意識体だ。お主の考えは別に知りたくなくても分かってしまうのだ』
「るせえ!出ててけ!」
『我の話を聞いておったか?我はお主の意識より生まれ、お主の意識の深淵に住まう者。肉体を形成する力も、お主から出て行く力も我には無い』
「手前・・・医者に診てもらうぞ、そんでもって病気よろしくワクチンか何かで殺す、決定」
『現代医学では我を如何こうすることは不可能だ。医師に診察を受けても二重人格者としてしか診断されんだろう。だが我はそんな虚構よりも遥かに高度な存在だ。
お主の意識の海より生まれ出る新たな生命とでも言うべき存在、その定義はあまりに不確かで、あまりに確固たるものだ』
「・・・意味分かんね」
頭の中に鳴り響く声に、げんなりとする。
あの少女に首筋にキスされたかと思うと、いきなり体が滅茶苦茶に動けるようになって、今度は頭の中の変な声である。
厄日もここまで不幸のフルコースを用意することは無いのに。
「じゃあ、俺の頭の中でワンワン響くお前は一体何なんだよ、どーして俺の頭ん中に急に出てきたんだよ」
『我は主の意識の深淵より参りし、主の真なる力を支え、その真価を引き出し発揮する者だ』
「俺の真なる・・・力、だと?」
『如何にも。我は主の持つ固有能力“漆黒の断章”を御するために主の意識より出る守護者』
「よーするにだ、俺にはこの常人ならざる身体よりも、もっとすげー力があって、お前はそれの制御のために生まれたってワケか」
『理解が早くて助かる』
脳内の声は淡白に答えた。
春貴は気付かなかったが、路地の奥に隠れていた少女は一人でぶつぶつと話し込む彼の背中を物凄く怪訝そうに見つめていた。
彼女は、彼が何処か頭を強く打って、精神病院のお世話にならなければならない人になってしまったのではないかと思っていた。
「で、お前さんの名は?」
『我の名だと?そのような物は持ち得ておらん』
「しゃーねーな、じゃあ俺が名前をつけてやるよ。えーとな・・・・」
自信満々に名前を付けてやると言ったが、早々に悩み込んでしまう。
何せ、名前を付けるなど小学生のころに飼った犬に付けて以来、考えたことなど全く無かった。だからどんな名前がいいのか、考えあぐねいてしまうのだ。
出来るだけ、的を得た、この脳内に響く声の主に相応しい名前が良い。
「・・・・・ウィスパー?」
『英語で“囁き”という意味だな。しかし、安直な名だな。もう少し捻れんのか?』
「うるせえ、文句言うとポチとかタマとか、犬猫みたいな名前つけっぞ」
『・・・・横暴だな』
「へ、勝手に人の頭の中に住み着く奴に言われたくねえな――――――――っ」
じゃり、という砂を踏み鳴らす音が聞こえた。
見れば何時の間にか再起していた響次が、春貴に向って疾駆していたのだ。その拳が肉迫と同時に繰り出される。
「うわっ!」
拳は春貴の鼻先のぎりぎりをかすめて、空振りし、そのまま路地のコンクリート壁に激突した。
コンクリートが豆腐のようにへしゃげるほどの威力だった。着弾箇所から、白煙が上がる。
「トーシロだと思って手ェ抜いたのが間違いだったみてえだな・・・こっからは本気で殺す」
背中を、いや全身を言いようの無い怖気と悪寒が駆け抜ける。殺気だ。ただの殺気で、こいつは相手にここまでの威圧感を与えているのだ。
漫画でよく殺気だけで殺されるイメージを受けるという描写があるが、これはそんなものよりも遥かに恐ろしかった。
イメージも何もあったものではない。言い知れぬ恐怖と、本能的な危険信号が全身に告げる。殺される―――――と。
この金髪野郎は、あのおかっぱ頭とは比べ物にならない強さだ・・・。空気だけでそれが、ひしひしと伝わってくる。
先刻のグルカナイフの一閃でさえ、本気の一撃では本気ではなかったということだ。
『我を使え』
頭の中でウィスパーが言った。
お前を使えたって、何をどうすればいいんだ。俺には、そんなことは分からない。
第一、俺の真なる力って奴は―――――こんな恐ろしい相手に勝てる力を持っているのか。
「おらおら、さっきに比べてえらく動きが鈍いぜ、お若いの!!」
「ちっくしょう!」
グルカナイフから両の拳へと攻撃を切り替えていた響次の動きは、素早かった。プロのボクサーもかくやという機敏なフットワーク。
隙の無い、腕で顔面を覆うようなガード。そして、グルカナイフなどよりも遥かに鋭く固く速い一発一発の拳。
それを、春貴は寸での所でかわし続ける。
「す・き・だ・ら・け・・・・だぜえ!」
「ぐふっ!?」
その内の一発が、春貴の下腹部を捕らえた。鉛のように重く鉄の様に硬い一撃が、内臓を押し潰すようにめり込む。
ショックで、呼吸が上手くできなくなる。肺が思うように動かず、口が魚のようにパクパクと開閉するばかりだ。
「おネンネしてな、一生よお!」
「あがっ・・・・!」
ふらつき、前屈みになる春貴の後頭部に響次は肘打ちで追い討ちをかける。
意識が飛びそうになったが、危ないところで何とか耐え切った。しかし視界が霞み、思考も白濁する。
だがそんな中でも、その声ははっきりと聞こえた。
『このままでは嬲り殺しだ。犬死したくなければ、我を発動させろ』
だから、それをどうすれば良いのかが分からないって言ってるんだよ。さっきから。
それに俺に本当に、そんな力があんのかよ・・・。
『弱気になるな。羅種の固有能力も要は錬精術、何より精神面が重要となる。さあ、強く願うのだ。力を・・・!』
力・・・だって。
春貴が思案に暮れる中でも、響次の猛攻は収まることはない。こうしているうちに、どんどんと余裕が削られていく。
『掴み取れ、本当の主を』
「本当の、俺・・・・」
手の甲が、熱い。焼けそうだ。
この感覚・・・似ている、あの少女に口づけされたときの、あの首筋の熱さに似ている。
焼けるように熱いのに、何故か、力が漲ってくる。不思議な感覚。
『呼べ、その名を!』
「――――――掴むは光、生まれ出は闇」
知らない言葉が、すらすらと出てくる。
まるで頭の中に直接刻み込まれていたかのように、澱みなく。
「光輝なる暁闇―――――“漆黒の断章”」
春貴は慟哭した。
己の秘めたる真の力の名を。
途端、両の手の甲に十字の傷が走る。出血はない。ばっくりと皮膚が裂け、その下にある淡い肉が鮮やかに覗く。
十字傷からタールのように黒く濁ったゲル状の液体が溢れ出した。それは瞬く間に手をすっぽりと覆ってしまう。
グローブのように手を覆い隠してしまうと、そのタール状の液体は、みるみる凝固していった。
いや、形を成し硬化していったと言う方が正しい。手はあっという間に、漆黒に鈍く光る甲殻のガントレットにつつまれた。
関節部分と、甲に刻まれた十字傷のみが、紅々と輝いている。
これが――――――俺の、本当の力。
「な・・・・・何だその固有能力は!?」
その様を見て響次は驚嘆の声をあげた。だが当の春貴はそれに気付きもず、ただ唖然と自分の手を負おう甲殻を眺めていた。
昆虫のように禍々しく、刺々しいが、流線型を描くフォルム。鈍く光る、黒い甲殻。
指先は、第三関節から先が丸ごと鉤爪となっていた。それは以前見たことのある、熊の手を連想させた。
重さは感じない。元来の身体の一部であったかのように、しっくりと馴染む。
『これが主―――――――琴坂春貴、主の真の力だ』
「こ、こいつが・・・」
恐る恐る、腕を掲げて見せる。
『主は感じぬだろうが、その両手の甲殻の自重は現在、弐トン。大抵の障害物は難なく破砕できる』
「マジなのか・・・?全然重くねえぞ」
『左様。主の体内から抽出されたカーボンを変換式が自動的に増幅し、質量を虚数的に変動させている。重量を感じないのは周囲の重力場を限定的に遮断しているからだ。
故に主は両の手が幾ら重くなろうとも、羽根のように軽々と扱うことが出来る。空気抵抗もなくなるからな。しかも虚数的な質量増大のため、
原子が自重で崩壊する心配もない』
「っは、ワケ分かんねえけど、えらく大仰だな」
『主の言葉を借りるなら、「最高にヘビーで硬え拳骨」とでも言ったところだ』
「言うねえ、お前さんも」
ウィスパーの気遣いに、春貴は口笛を吹き鳴らして答えた。
確かに、ウィスパーから聞いたスペックが真実なら、この拳はどんな得物よりも遥かに強烈だ。
自重が現在約弐トン。そんなものが、重力の干渉を受けずに、猛スピードでぶつかったら・・・・・人間など、紙切れのように千切れ飛ぶ。
「・・・っく、覚醒した挙句、こんな出鱈目な固有能力とは、ますます全開で殺さなきゃならねえようだな」
「やってみろよ」
額に脂汗を流しながら呟く響次に、殴られていた時とは打って変って調子を取り戻した春貴が言う。
春貴が駆けた。歩くように足を踏み出すと、みるみる速度を上げていく。
そのまま漆黒の甲に覆われた拳を構える。
「やってられるかよ・・・!」
悪態をつきながら、響次は路地裏から駆け出し、通りへと出る。彼には、ウィスパーの声は聞こえていない。元もと春貴の頭の中に響いていた声だ、無理もない。
即ち、いま彼は、春貴が手に纏っている黒い甲殻が自重――――約弐トンもあることなど、知りうるはずもなかった。
春貴の拳が閃く。
それを素早いサイドステップで、響次は首をひん曲げる様にして避ける。勢いの止まらぬ拳は、そのまま彼の後ろに止まっていた車のボンネットへと走り・・・・。
次の瞬間には、耳を覆いたくなるような、悲鳴にも似た、鉄がひしゃげ砕ける音が響き渡った。
その後を、呆然とした静寂が場をつつむ。
「・・・・・あ?」
自分の背後で起きた凄惨な出来事に、響次は気のない声を出す。
彼の後ろに止まっていた車のボンネットが、完膚なきまでに破壊されていた。ペーパークラフトで出来ていたかのように無惨にへしゃげていたのだ。
そのボンネットに、春貴は自分の拳を突き刺したまま唖然としていた。
まさか、ここまでの威力があるとは、本人でさえ思わなかったのだ。
車のエンジンブロックは、エンジンが入っているためそれなりに頑丈に作られる。弾丸でさえ、よほどの威力でなければ破壊することは出来ないほどだ。
交通事故ではよくぺしゃんこに潰れたエンジンブロックが写るが、時速何十キロという車が衝突するエネルギーを考えれば当然だ。
だが、彼の拳は車ではない。
しかし彼の拳が突き刺さったエンジンブロックは、まるで対向車と正面衝突したかのように、見るも無惨に破壊し尽くされていた。
たった、一発の拳でだ。
「んだよ、これ・・・・」
その様を見て、春貴は凍りついていた。
彼は今・・・恐怖していた、自分自身の力に。今まで、色んな喧嘩をしてきた、だが彼は武器など使わずに断固として己の拳だけを頼って戦ってきた。
武器を使うのは、卑怯だと思うし、何より怖かった。
感触が無いからだ。
拳なら、色んな感触が如実に伝わってくる。まだまだコイツは倒れないとか、これ以上殴れば死ぬ、などなど。
だが武器は、それが全く分からない。鉄パイプや木刀などの殴打系はまだしも、ヤッパやハジキなどはもう駄目だ。加減が掴めなくなる。
この拳は、そういった武器と同じだ。
感触が、つかめない。
「くっ・・・」
拳を叩き込んだ姿勢のまま硬直している春貴を一瞥すると、響次は素早く距離をとる。
もうこの相手は並大抵の方法では殺せない。だから、こちらも“とっておき”を使うと決心した。
『春貴。相手が離れたぞ、早く追随しろ。春貴・・・?どうしたんだ、聞こえているか』
返答は無かった。沈黙が、彼の胸中の一切をウィスパーに告げる。
『春貴、ショックなのは我も分かる。だが生憎今は同情している時間も慰めている暇も無い。春貴、死ぬぞ!?』
立ち尽くす春貴を十分に間合いを取った距離から、響次は嘲笑って見つめた。
所詮、中身は素人だったというわけだ。ただぶん回す力が異様に強いだけ。そんな相手に一瞬でも肝を冷やした自分が馬鹿らしい。
「くっくっく・・・戦場で固まっちまうなんて、可愛げがあるね」
右目につけられた眼帯にゆっくりと手を伸ばし、それを捲った。眼帯の下の目は、堅く閉じられていた。
十五年前の、あの事件―――――シグルドリーヴァによる東京占拠事件の際に彼は、右目の眼球を丸々失った。
まだ若く、血気が余り冷静な判断が出来なかった自分の失態ゆえのことだったが・・・彼は狂気的というまでに、右目の光を奪った相手を恨んでいた。
何時の日か見つけ出し、この右目の報いをきっちりと受けさせる。
「呪眼・・・“バロール”、開眼!」
“呪眼バロール”。それが今彼の右目に埋め込まれている義眼の名だった。
高度な呪術系錬精術の粋を集めて造られた一品であり、よほど名のある名家でも手に入れることは不可能と言うまさに超一級の貴重品だ。
その効果は――――――即死。
“バロール”の義眼の視界内に捉えた生物を、任意で即死させることが出来るのだ。物理的防御も、防御系錬精術も、その全てを強制的に無効にし、死に至らしめる。
まさに生き物を殺すにはうってつけの品なのだが、いかんせん副作用が酷いのが欠点である。
変換式、中枢神経にもたらす負担が、生半可ではない。下手をすれば、数回の使用で廃人になることもある。諸刃の剣だ。
まさに正真正銘の奥の手と言うわけである。
その目蓋を、響次はゆっくりと開いた。その視界に映るは―――――――――己が力に怯え慄き、動けなくなっている春貴の姿・・・。
「苦しみゃしねえ、安心しな」
右目を開くと、入れ替わりに左目を閉じる。両目を開いていると、たまに照準がずれることがあるからだ。
視界のど真ん中に、棒立ちになっている春貴の哀れな姿を収めこむ。心臓の高鳴りを抑え、撃鉄を引くように慎重に―――――。
「バイバイ・・・」
嬉々とした表情で、そう呟いた。
同時に、バロールの術式が炸裂した。高度な呪術の塊が、音よりも速く春貴へと襲い掛かった。
次の瞬間には春貴は、ばしっという快音と共に、バットに打たれたボールのように弾け飛んでいた。
「っが・・・・!」
突然に襲い掛かった、まるで車が突っ込んできたかのような衝撃に彼は、空き缶のように飛び、道路を転がった。
あまりに唐突で一瞬の間の出来事だった。
春貴は訳が分からず、衝撃を受けた際に開いたグルカナイフの切り傷を押さえながら立ち上がった。
立ち上がったのだ。
「!?」
当然、響次の頭は一瞬にしてパニックの嵐に陥った。
“呪眼バロール”が効かない・・・。そんなことは在り得ない。どんな防御も構えていなかった彼に、今の一撃を防げるはずが――――。
だが、バロールの一撃が効かなかったのは事実だ。それには何らかの理由があるはずだ。
何より第一に、バロールの手応えがおかしかった。
バロールの視界に捉えられ、呪殺された生物は、一様に糸が切れた人形のように崩れ落ちるのだ。人間であれ犬猫であれ、例外は無い。
だが、彼は――――――弾き飛ばされたのだ。バロールの呪術に。
それは暗に、彼が錬精術的に何らかの障壁を展開していることを意味していた。
元来に即死の効果しか有しないバロールの呪術により弾き飛ばされた・・・つまり呪術の有する内気が何らかの障壁にぶつかり、術式を無効化、
その霊子エネルギーが運動エネルギーへと変換されたということだ。
だが、奴にはそんな障壁を設ける暇も、錬精術に関する知識も皆無なはず。先ほど“覚醒”したばかりの人間だ、知っているほうが不自然だといえよう。
『春貴、危険だ!今のは即死の効果を有した高度な呪術だ・・・本当に殺されるぞ』
「けどよ・・・こんな力で、下手したら―――――」
『甘ったれるな!!』
脳内にワンワン響かんという大声で、ウィスパーは怒鳴った。
「い、いきなり人の頭の中で大声出すなよ・・・ったく」
『五月蝿い。良いか春貴、主がどんな思想を持とうと我は一向に構わん。だがな、思い出せ・・・主は何ゆえに、そのような力を得た?』
「・・・・・っ!?」
『守るためだろう。守りたいと願ったのであろう。ならば、今だけでも良い、綺麗事は捨てろ。悔いるのも嘆くのも、全てが終わってからたっぷりと済ませるんだ』
「・・・・・・・俺も、相当ヤキがまわったみてえだなあ。頭ん中でする変な声に説教されるとはよ」
吹っ切れたか・・・、春貴の調子の戻った声を聞いて、ウィスパーは安堵した。
自分がいま言った言葉が正しいとは、彼自身思ってはいない。だが甘んじて殺されるほど、彼は寛容でもなかった。
命あってのモノダネ・・・。全くその通りだ。何事も、生き残らなければ意味が無い。死を選択するのは、何時だって愚かなことなのだ。
例え何を失っても、何を敵に回しても。生き残って、明日を向える。
「じゃあ、仕切り直しでもう一回・・・・行ってみようかあ!」
「ひっ!」
春貴は迷い無く、響次へと向って拳を振るった。
彼は先の使ったバロールの反動により、酷い頭痛に見舞われていた。視界も定まらず、ろくな回避行動もとれない。
死ぬ―――――、そう覚悟しかけた。
「響次いいいい!」
「!?セガ―――――っ」
その間合いに、再起したセガールが踊り込んだ。
満身創痍の身体を挺して、響次を守るように立ちはだかった。
ぐしゃり。
その音はあまりに生々しく。その感触はあまりに呆気なかった。
間合いに飛び込んできたセガールは当然の如く、春貴の拳の直撃を食らった。重さ約弐トンの鉄槌を。
彼の拳は、止まることもせずにセガールの頭を粉砕した。血と骨と肉が混じった飛沫があがる。
「セガアァァーーーール!!」
響次は絶叫すると、崩れ落ちる戦友の身体を支えた。
頭から上は忘れてきたかのように綺麗さっぱりに無くなり、血が脈々と溢れ出ている。
即死だ。
満足に痛みを感じることも、恐怖することも侭ならなかっただろう。しかしそれだけが、唯一の救いでもあった。
「ああ、畜生、この野郎・・・!よくもよくもやりやがったな・・・・!!」
悲鳴に近い声で、彼は春貴を罵った。だが当の春貴は、それを苦渋の面持ちで静聴しているだけだった。何の言葉も返さない。
返せない。
正直、あの少女をここまでして守る理由など無かった。
いくら気に入った女でも、人を殺してまで守ろうという気なぞ、彼には到底なかった。
だが俺は殺した。人を。
この目覚めた力によって、惨たらしく死に至らしめた。不可抗力などではない。明確な意思のもと、殺したのだ。
暗く虚な感情が心を覆いだす。
ではどうして、俺はこいつを殺した。どうして殺す必要があった。
答えは単純にして明快―――。
これがれっきとした、殺し合いだったからだ。
それ以外に理由など無い。俺にその自覚が無くとも、相手は俺を殺す気だった。端から聞けば、理不尽極まりない理由だろう。俺自身そう思う。
だが、いざ目の前に自分を殺そうと迫り来る者がいたら―――――そんなことはいっていられない。殺すか殺されるかのどちらかだ。
生きると言う事は戦うことであり、殺すことでもある。どんな形であれ、生物は他者を殺さずには生きていけない。
これも、その延長――――――――。
春貴は自分にそう言い聞かせた。でなければ今すぐにでも気が触れそうだった。
「畜生、お前・・・殺してやる、絶対に殺してやるからな!!」
頭一つ分軽くなった友の亡骸を抱えながら、響次は春貴に背を向けて走り去っていった。
当然だ。あのセガールとかいう男は、響次では俺に勝てないと判断した上で、彼を守ろうとして飛び込んだのだ。
なら、その意を汲むのが死んでいった者へのせめての手向けというものであろう。
『春貴・・・・』
「ああ、分かってる。綺麗事は抜き・・・だろ?」
『すまない』
「謝るこた無え、殺したのは、俺自身の意思だ」
彼の手は震えていた。
覚悟していたつもりだった、人を殺すと言う事を。でなければ、こちらが殺されると、そうすれば誰も守ることなど出来ないと。
心が揺らぐ。自問を繰り返す。
本当に殺す必要があったのか。もう、何十回もした問答だ。だが、やはり殺すべきではなかったという答えが頭を過ぎっていく。
ああ、その答えには俺も納得だ。だけどもう俺は、人を殺してしまった。
あのセガールとかいう男が飛び込んでこなくても、俺はあの金髪野郎を殺すつもりだった。
「なあ、ウィスパー」
『どうした』
「俺は、軽く見てたのか?」
『何をだ』
「誰かを守るってこと・・・誰かを殺すってこと・・・何もかも、甘く見てたのか?」
『・・・・春貴、主はいま後悔しているか?』
「ああ。あのおかっぱ頭を殺したことは、正直間違いだと思ってる。でも、あの女を守るってことは、今のところ後悔してねえ」
脳裏に思い出されるのは、あの少女の怯える手。
小さく、か細い。震えながら、俺の背中を掴んでいた。
『過ちは、気付かなければ本当の過ちになってしまう・・・。中国の古い偉人の言葉だ。主は自分がしたことを過ちだと認めている、ならそれは真の過ちではない』
「そうだな。でも、それは言葉だ。俺がいま考えてることは、リクツじゃねえんだ」
『確かに。だが、割り切ることもまた重要だ』
「・・・努力はするさ」
路地裏へと足を運ぶと、その奥で少女が崩れたダンボール群の影に身を潜めていた。
固く目を閉じ、手で耳を覆っている。どうやら、俺が人を殺したところは見ていないようだ。それだけでも何となく安心する。
「おい、もう終わったぞ」
「・・・・?なに、やっつけたの?」
「ああ、追い払ってやったぜ」
「そう・・・・・いっつ!」
立ち上がろうとした少女が、急にその場に尻餅をついてしまった。
見ると、彼女の足の裏に、少し大きめの硝子の破片が刺さっていた。そういえば先の戦いで、ビール瓶の入ったケースに盛大にあの金髪野郎を叩き込んだ。
その破片を踏んでしまったのだろう。出血もそんなに多くないし、きちんと消毒しておけば破傷風などの感染症の心配も少ないだろう。
「・・・・痛い」
「はあ―――しゃーねーな。負ぶってやるよ」
恨めしそうに硝子の破片を見つめる少女を、春貴は強引に引っ張り上げると背中に乗せた。
先にも言ったとおり、彼女の身体はとても軽かった。家までは相当な距離があるが、まあこの重さならどうということは無いだろう。
大体、一時間ぐらいで着けるだろうと目算する。
その際、春貴の頬にぽつりと一滴の水滴が落ちてきた。見上げると、陽が沈んだ空には、分厚い雲がさしかかっていた。
けっこう派手に一降りきそうな空模様に舌打ちしながら、春貴は家路を急いだ。
「ねえ・・・」
「んだよ。俺は人一人背負ってんだ、話し掛けんじゃねえよ」
「――――――誰か死んだ?」
春貴はすぐに答えなかった。
短い沈黙のあと、思い出したように。
「いや。誰も」
とだけ簡潔に答えた。
だが背中の少女は知っていた。この男の身体から―――――――むせ返るほどに血の匂いが香ることから。
きっと、誰か死んだのだろうと思った。だが彼は、誰も死んでいないと言った。
「下手くそ」
「ああ?人を負ぶるなんて数年振りなんだよ、文句たれんな」
春貴は気付かなかった。その言葉が、不器用な気遣いに対する不器用な感謝の言葉ということに。
そんな二人に構わず、雨脚は次第に勢いを増そうとしていた―――――――――。
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