ビルを後にし、正面玄関の目と鼻の先に路上駐車してあったロードスターまで歩く途中、理代子は春貴に訊ねた。
「・・・琴坂春貴、君は自分の実の父との間に何があったのだ?」
その質問に、春貴は機嫌を損ねるでも、話を逸らすでもなく、ただ意外そうにきょとんと理代子の顔を見つめた。どうやら、彼にとっては相当意外な質問だったらしい。
しかしあの場に居合わせた人間なら、十中八九そう訊ねたくなるのは仕方の無いことだろう。親子間であそこまで不仲となると、その原因は想像もつかない。
けれども、春貴には「父とは何があって仲が悪くなった?」という質問は意外だったようだ。もしかして、自分が何かをして不仲になったという自覚が無いのか。
それとも春貴は本当に何もしていないのか。
「別に、なーんもしてねえよ。向こうもこっちも」
「では何故、あそこまで険悪な仲なんだ?」
「ああ、親父は俺のことが世界で一番嫌いだからな。生まれてこのかた、俺に触ったことが無いっていうのが何よりの証拠」
「触った事が・・・・無い、だと?」
あの男は、春貴がこの世に生を受けてから一度も春貴に触れたことがないだと。そんな、馬鹿なことが・・・。あるんだ。事実、目の前に。
だが、信じ難いことであるのに変わりは無い。自分の子供に、一度も触れたことがない。いったいどんな精神をしているのだ、あの男は。
如何な理由があろうとも、自分の子供に触ろうともしないなどと、はっきり言って普通の精神状態ではない。
ロードスターの前まで辿り付く。
「あんま詳しくは話せねえけど、紆余曲折あってな。親父はお袋が俺を産むこと自体に反対してたんだ。堕ろせってな。でもお袋はそれに反対して、
俺を産んだ。そんでもって完全にトサカにきた親父はお袋と別居・・・まあ、正式な手続きを踏んでないだけで、事実上の離婚ってとこだ。
毎月仕送りはしてくるけど十五万ぽっち、大人と子供一人養うには、日本では厳しい額だ。だからお袋はパートやら何やらしながら、必死に俺を育ててくれた。
離婚の原因になった、この俺をな」
「・・・・・・」
言葉が出なかった。春貴は別に気にかけていないような軽い口調で話しているが、嘘だ。そんな平静にいられるわけがない。きっと彼は、泣いている。
心の中で泣いているのが、私には分かる。私も兄が死んでから大分と苦労をしてきたが、彼も彼なりの苦労を味わっている。世界の酷薄さを呪いたくなった。
どうして、こんなにも悲しみや苦しみや憎しみや妬みや奢りや愚かさが、世界には満ち満ちているのだろう。何故、涙は流れ続けるのだろう。
「そう言えば、例の話がどうとか言っていたな。それは?」
「俺が琴坂の籍から抜けること。そんでもって、お袋の元から離れること・・・それだけ」
「そうか・・・悪かった」
「・・・・」
車の鍵を開けると、二人は乗り込もうとドアを開いた。そこで――――――そこで、体が動かなくなった。否、動かすことが出来なくなった。
何だ、こりゃあ――――。全身の筋肉が硬直したかのように、直立不動となった春貴は、戦慄した。春貴を、理代子を、何処からともなく吹き荒ぶ、
内気の波動が包み込んでいた。それも、桁違いに大きな内気の波動だ。以前に響次とセガールと相対したときにも内気の波動を感じたことがあったが、
これはそんなものとは比べ物にならない。響次らの内気の波動がそよ風だとしたら、これは台風か竜巻だ。全身を、五感を、蹂躙するように駈け巡る。
こつり、と靴音が響く。
音のしたほうに、二人は竦む身体を必死に御して何とか振り向いた。
そこには、頭の天辺からつま先まで、黒一色で統一された、ロングコートを羽織った人物が。頭には、コートと一体になったフードを目深に被っている。
その男を渦中として、内気の波動が吹き荒んでいた。気を抜けば、容赦無く意識が叩きのめされるような、暴風と呼ぶに相応しい波動。このタイミング・・・、
まさかこの人物が、いま起きている政界関係者連続殺人事件―――――通称“ファントム”事件の、実行犯・・・。“ファントム”なのか。
てっきり響次やオックスと同等ぐらいの相手を予想していたのだが、まさかこれほどの力を持つ別脈種が現れるとは。想像もつかなかった。
逃げよう、本能が叫ぶ。だが、理性が不可能だと哭く。
「春貴ッ!!」
「っ!」
叫ぶと、理代子は黒コートの男から退くように大きく跳躍して、近くの雑居ビルの屋上へと逃れた。彼女の声に弾かれ、春貴も遅れて跳び退く。
春貴がついて来たことを確認すると、彼女はビルの屋上を継いで一目散に駆け出す。春貴もそれにワンテンポ遅れて続いた。
「おいっ!一体何なんだアイツは!?」
「私が知るわけ無いでしょう!?少なくとも、とびっきりヤバイ相手だということだけは確かね!それよりも喋る間があるなら少しでも走る!」
「何処に行くんだよ!」
「この前、テロリストと戦った廃ビル群!」
「そんなとこに行ってどうすんだよ!?」
「街中で戦うつもり!?」
彼女の言うとおりだった。あの黒コートからは、まず十中八九逃げられない。いまこの瞬間も、何時追いつかれても不思議ではない状態だ。
ならば迎え撃つしかない。だが、街中で別脈種の力を解放して真っ向からぶつかり合うわけにもいかない、でなければ前回の失敗から何も学んでいないことになる。
だからこうして、あの人気の無い廃ビル群に向っている疾走しているのだが―――――――。
「あそこにも、過激派とかテロリストとかの連中がいるだろ!巻き込むのか!?」
「じゃあ代わりに、何の罪も無い一般人を巻き込む?」
「・・・・・・」
二の句が継げなかった。人の命に優劣をつける気は無いが、犯罪者と一般人のどちらかを択一しなければならないと迫られれば、選ぶ答えは自ずと決まってしまう。
人間一人に救える人数は決まっていて、それを破ろうとすれば厳しい罰が下る―――――これもまた、前回の失敗から学んだことだ。だから選ばなければならない。
誰を救い、誰を切り捨て。誰を守り、誰を殺すのか。決定を下さなければならない。猶予は少ない、より迅速かつ的確に、判断を。こめかみに、銃口を突きつけられる、
イメージ。強迫される。答えを。
どういう鍛え方をしているのかは知らないが、羅種並に足の速い彼女の後ろをついていくこと数分、俺たちは何時の間にかあの廃ビル群に突入していた。
周囲の景色が、朽ちたコンクリートの塊だけに変わっている。
「どこまでいくんだ?」
「もっと先、この廃ビル群の中央部まで。そこなら、屯している輩も少ないはずでしょ――――――――」
会話は、突如として天を裂き、飛来してきた無数の火の玉により断絶された。俺と黒咲は、散開する事によって、それを凌いだ。狙い違った炎達は、
そこいらのビルに突き刺さり、爆発するように炎上した。何棟かのビルが、その威力に耐え切れずに倒壊していく。
仰げば空の上に、あの黒コートが何の足場もなく空中に佇んでいた。その背には、紅く輝く円陣が。先の火球はあの法陣から射出されたのだろう。
錬精術。
山田のオッサンや黒咲から話には聞いていたが、まさか現実にこんな魔法のようなものが存在するとは。宙に浮いているのも、恐らくは錬精術なのだろう。戦い辛い。
「起きろ、ウィスパー!!」
『うむ。漆黒の断章、展開!自重六百トンに設定!』
手の甲に十字傷が開き、漏れ出る黒い液体が硬化、漆黒の断章が両手に纏われた。その刹那、黒コートに僅かだが、動揺が走った。それを、春貴は見逃さなかった。
屈み込み、自身をバネのようにして跳躍すると、空に佇む黒コートとの間合いを一気に詰める。すかさずして、漆黒の断章を振るった。
しかし拳は纏われている黒いコートに、ぞぶんと音をたてて沈み込んだ。何事かと思い、慌てて手を引き戻す。まるで、タールの沼に手を入れたような感触だった。
おまけに、六百トンもの拳で殴ったにも関わらず、相手には全く効いていない様だった。どうやらこのコート、物理的衝撃を緩和する作用があるようだ。
手を引き抜くと、春貴は落下に身を任せて間合いをとった。手ごろなビルの屋上に着地すると、理代子が言霊を紡いでいた。
「――――――地を駈け、天を灼き、母なる源を渇かす焔よ。我に仇なす者を、遺さず、還らず、無に帰せん・・・・第三焔術“アグニの眼差し”」
刹那、理代子の掌に炎が瞬いたかと思うと、其処から激しい炎を柱が現れ、まっすぐに黒コートの男へと向って伸びていった。
しかし黒コートは急く事も無く、ゆっくりとコートの下から腕を引きずり出した。その手には、身の丈よりも大きい、漆黒に鈍く光る一本の大剣が。
そして、自身に向かい来る火柱を、剣を薙ぐその風圧で消し去った。余波を受けたビルが、一たまりも無く崩壊する。間一髪のところで理代子は他のビルに移っていて、
何ら傷は無かった。それを見て、春貴は胸を撫で下ろす。しかし彼女は諦めず、もう一度詠唱を開始する。
「――――――黒の空、虚無の空、一切の光を断つ絶無の世に在りし君臨者よ。我は血を贄に御身の力の片鱗を望む・・・・第百七雹術、“天穿つ眼差し”」
黒コートの周りの空気が白く霞むと、そこから幾つもの氷柱が飛び出し、その身体を押し固めて身動きを取れなくさせた。彼女の意図を察した春貴は何も言わずに、
黒コートに向って再度跳躍する。燕のように、迷うことなく真っ直ぐと飛翔し、瞬く間に肉迫すると、拳を振り上げた。コートに覆われているところは攻撃しても、
意味がない。ならば、コートの僅かな切れ目である、フードから覗く顔を狙えば―――――――ダメージを与えられる。春貴は、突き刺すように拳を振り切った。
だが寸での所で体勢を反らされたため、拳はフードの端を掠めるに留まった。その衝撃で、目深に被られていたフードが肌蹴、黒コートの顔が露になった。
先ず真っ先に目が行ったのは、まるで澄んだ海のように鮮やかで深い青をした――――――碧眼。そしてその眼に反した、抜けるように漆黒な黒髪。整端な目鼻・・・・。
だが何より驚いたのは、その顔付きが、理代子に似ているということだった。
唖然となっている春貴に、黒コートは大剣――――――ツーハンデッドソードを容赦無く振り上げると、斬り捨てた。肩から袈裟に斬り付けられた春貴だったが、
痛みによって呆けた意識が舞い戻った。傷は、斬られたその瞬間から回復を始めていた。本来なら致命傷の部類に入る傷も、春貴の回復力の前には意味を成さない。
コートの襟首を乱暴に鷲掴むと、春貴は漆黒の断章を爪を向き、黒コートの男の頬を切り裂いた。並みの肉食獣よりも鋭い爪は、男に深い切り傷を刻んだ。
しかし黒コートの男は引っ掻かれたことなど意にも介さず、春貴の下腹部にツーハンデッドソードを突き刺した。そして捻じ切るように、剣をぐりんと一回転させる。
「ぐげッ・・・!?」
傷口から内臓が漏れ出し、口からは大量の血が溢れ出した。如何な不死身に近い回復力といえど、臓物を掻き回されては無事ではいられなかった。
だが戦闘に支障をきたさなかったのは、流石としかいいようがない。春貴は負けじと、黒コートの男の頭を鷲掴みにして、爪をたてる。だがそれでも男は、
眉一つ動かすことは無かった。同時に、ツーハンデッドソードから内気が猛烈な風となって噴出し、突き刺さった春貴を吹き飛ばした。
身体は確かに上半身と下半身の二つに断絶されたはずだが、落下し、どさりとビルの屋上に転がる頃には、とりあえず身体は一つに戻っていた。
全く、不快なほど強靭な治癒力だ。
「大丈夫か、琴坂春貴!?」
「・・・何とか」
心配して駆け寄ってきた理代子に、とりあえず無事である事を告げる。理代子に支えて貰うことで、何とか身体を起こすことが出来た。そして二人で、空を見上げる。
其処には変わらず、“ファントム”の姿が。何時の間にか、フードは目深に被り直されていた。
状況は最悪だ。取りあえず何とかここまでは、相手の攻撃を凌ぐことに成功している。けれど黒コートの男は、まだまだ余裕といった雰囲気だ。せめてあの顔面に、
一発でも極めることができて、相手を気絶させることができればいいのだが・・・そう簡単にもいかないだろう。相手もフードから覗く自分の顔が唯一の弱点であると、
知っている。ならばそこを重点的に守れば良い訳だから、逆に罠などを張られる可能性も出てくる。
「攻守交替だ、琴坂春貴。今度は私が前に出る、君は援護を」
「・・・・オーケー」
俺は回復したばかりの身体を鞭打って無理矢理に奮い立たせた。まだ腹の辺りが痛むが、問題は無い。
「――――――乖離されし天の海よ、乖離されし地の海よ、失われしその絆を我は欲さん。第十九気術“明星不坐”」
内気が彼女の足を中心に渦巻き、やがては光の膜となってそれぞれの足下に展開された。彼女はその光の円に乗り、空に舞い上がる。それを見届けると、
春貴も行動を開始した。ビルの屋上から飛び降り、援護の下準備を開始する。
『春貴、援護できるのか?』
「勿論」
『しかし主の固有能力は近接戦闘系、遠距離からの援護には使えん』
「ばーか、頭を使え頭を」
『ヘッドバッドでもするのか?』
「・・・まあ、見てな」
理代子は空へ昇ると、ファントムと対峙した。近接戦では春貴にすら遅れを取る理代子に、接近戦闘でファントムに勝てる道理は無い。ならば残る道は一つ、
錬精術の連発によるごり押しの力勝負だけだ。これで圧倒するしかない。重要とされるのは、スピード。いちいち詠唱している暇はない。
一か八かの、思想詠唱と略式詠唱を併用した術の高速展開。しかしこれには、想像を絶する技術力と集中力を要する。成功する確率は、限りなく低い。
けれどそうでもしなければ、この敵には届かない。
「拘禁せよ、“天牛戒鎖”!」
「ッ!?」
ファントムの周囲の空間が澱み、歪み、捻れ、男の身体に空間そのものが巻きつき、その一切の動きを封じた。呪術系でもかなりの高位に属する、“天牛戒鎖”。
その段位は実に八十六にして、本来ならば普通に言語詠唱を用いたとしても発動が難しいとされる難術である。それを彼女はぶっつけ本番の土壇場で成功させたのだ。
だが、彼女はそれだけでは止まらなかった。動きを封じられたファントムに向け、更に錬精術を構築する。
「射貫け、“煉獄の矢”!」
背に巨大な紅い円陣が冠される。漢字、英語、数字、その他にも様々な言語や記号や幾何学模様が織り交ぜられた陣。それはにわかに回転を始め、そこから幾つもの、
細く長い―――――矢と称するに相応しい炎が次々と飛び出す。その様はさながら、幾束もの銃身を回転させて弾丸を発射するガトリング・ガンにも似ていた。
疾走する焔の矢たちは、狙いを違えることなく、全弾がファントムに直撃した。しかし、当のファントムはびくともしなかった。春貴との戦いを見て、
あの黒いコートは物理的干渉を遮断することは推測できていたが、まさか霊子的な攻撃である錬精術まで遮断するとは。余程に高度な隔封呪術のようだ。
ならば―――――。
「滅却せよ、“天上白架”!」
ファントムの頭上に理代子から溢れ出た内気が集束し、光の十字を成す。その十字架は、ファントムの胸に深く突き刺さった。錬精術の中で、最も修得困難とされる、
天術に分類される“天上白架”。段位は僅か七だが、その発現は百番以上の呪術よりも困難を極める。それは内気を集束させ、物質的に具現させなければならないという、
天術共通の特徴に由来する。口で説明するのは簡単だが、これは何千ヤードも先の標的を狙撃するより難解なのだ。それを思想併用略式詠唱で成功させられるのは、
世界でも数人しかいないだろう。そして、この“天上白架”は、ここからが本当に難しいところだ。
「煮沸せよ、“アグニの眼差し”!」
“天上白架”は錬精術の中でも極めつけに珍しく難解な、二段展開型の術なのである。先ず“天上白架”を発現し、その発現を維持したまま更に別の攻撃型、
錬精術を発現。術同士を重複させることで、この“天上白架”は元来の特性―――――あらゆる物理的、霊子的、呪術的、次元的、障壁を突破しての目標内部への、
直接攻撃を可能とするのだ。
白光と輝く十字架が、紅く染まり――――――刹那、その赤色は“天上白架”を介する形となってファントムの黒いコートの中へと雪崩れ込んで行った。
「ッッ!?」
“天牛戒鎖”に身動きを封じられたファントムの口から、苦悶の声と血が零れる。コートの中にどんな守りを敷いていたのかはしらないが、錬精術の中でも、
特に攻撃力の高い焔術を喰らって焼き切られなかったことは流石としか言いようがない。止めと言わんばかりに、理代子は更に術式を展開した。
「滅却せよ、“天上白架”!」
再び白い十字架がファントムの頭上に―――――いや、ファントムの周囲至るところに顕現した。上下、左右、前後、斜、ありとあらゆる方位からファントムを囲む。
その数、実に十本。並みの術者なら、術を発現させる内気を変換式から抽出することすら叶わないだろう。だが、流石は御三家に最も近い血統と呼ばれた黒咲の血を、
継ぐ者である。両極並にずば抜けた変換式から巧妙に内気を抽出するだけには飽きたらず、まさか難解を極める“天上白架”を多重展開してしまうとは。
十本の十字架が、残らずファントムを貫く。
本当の正念場はここからだ、“天上白架”は二段展開型。その上に、複数の攻撃型錬精術を多重展開するということは、最早、人に与えられた領域を越えた業だ。
「“アグニの眼差し”!“煉獄の矢”!“殲焔一陣”!“天穿つ眼差し”!“絶無極白”!“風雲発破”!“天満聾雷”!“嚼風”!“空覇葬送”!“黒の雪月花”!!」
十本の“天上白架”に対し、十の錬精術。略式詠唱どころか、完全なる詠唱省略による二段多重同時展開。十本の十字架を十の錬精術が満たし、ファントムへと流れ込む。
高位攻撃錬精術を同時に喰らったファントムは、成す術も無く内側から爆ぜた。黒いコートがちぎれ飛び、ズタズタに引き裂かれた体が露になる。
「・・・・・」
「くそっ、しぶとい!」
確かにダメージを与えることには成功した。だが、致命傷とまではいかなかったようだ。黒いコートも、すぐに再生されてしまった。
高位錬精術の連続多用により変換式が疲弊しきったため、“天牛戒鎖”が維持できなくなり、ファントムが歪みの束縛から解放される。
何とか形と構成を保っている“明星不坐”を酷使し、急いで間合いを取ろうとするが、それよりも速くファントムはツーハンデッドソードを引き抜き、疾走してきた。
「おうらあっ!!」
それを突如、威勢の良い声と飛来した岩石が阻んだ。直径数十センチ四方のコンクリート片だ。ファントムは疾る足を止め、大剣でそれを切り払う。
その眼下には、いくつものコンクリート片を足下に率いた春貴の姿が。彼は、投石という非常に原始的な方法を使って、理代子を援護したのだ。
原始的極まりないということは言い訳のしようの無い事実だが、その原始的な方法でも春貴のような常軌を逸した筋力を持つ者が使えば、その意味は変わってくる。
投げ様と当て様によっては、ヘリや飛行機でさえ落とすことも過言ではない。それに、当たらずとも石が次々に飛来する事は、ファントムにとって邪魔な障害となる。
目の前にいる理代子をいざ斬り伏せようとしても、阻まれる可能性が出てくる。ならば、この場合でのファントムにとっての最良の選択とは何だろうか。
それは―――――どうせどちらも殺せるのなら、鬱陶しい方から先に殺してしまおう、
という、非常にシンプルかつ合理的なものだった。ファントムはすぐに、それを実行へと移した。下で新たに投石の準備にかかろうとする春貴の胸の真ん中へと目掛け、
ツーハンデッドソードを逆手に構え直し、槍のように投擲した。その巨躯に似合わず燕より速く鋭く飛翔する大剣は、逸れることなく春貴の心臓を串刺しに貫いた。
「はがッッ!!」
胸骨を砕き、最も重要な臓物まで破壊されたうえ、ツーハンデッドソードの刃渡りの半ばまでが春貴を刺し貫いていた。全身の血液が止まるのが、如実に感じられる。
全身が弛緩し、姿勢を保てなくなり、力無く膝を折りそうになる。だがそれよりも速く、閃きや瞬きよりも刹那に肉迫したファントムが、伏そうとしている春貴の胸から、
ツーハンデッドソードを引き抜いた。それでも尚、倒れ込もうとする春貴の頭を無造作に鷲掴みにすると、一閃、彼の眉間にその大きく鋭い切先を突き入れた。
頭蓋は容赦無く切り開かれ、その奥の脳をズタズタに破壊する。だが、それでも意識だけは失われなかった。体の全ての機能はその一撃の下に死したはずなのに、
まるで意識だけが別の場所にあるかのように、鮮明だった。その鮮明で鮮烈な意識の中で、春貴は必死に手を伸ばそうとした。
「春貴いいいっ!!」
死した眼に映っているのは、ファントムの肩越しから見える、こちらに向って疾走してくる理代子の姿。
駄目だ。あんな大技を連発して疲れ切っているのに、無茶をするな。俺は別に死なないが―――――お前は違う。だから、俺に構わず逃げろ・・・・。
叫ぶが、それは決して声になることはなかった。脳を破壊された身体は、一分も動かなかった。糞、いくら意識が残っていたって、死ぬことはなくったって、
目の前の大事な人を一人守れなければ、まるで意味が無いだろう。動け、動けよ、死んでるんじゃねえぞ、俺の身体。死した身体を動かすことは、精神論だけでは、
不可能なことぐらい分かっていた。でも、無理を承知でも、やらなければならないことがある。だから、大切な人がまだ生きている内に、俺は――――――。
「春貴っ!はる―――――――」
ぞぶり、と嫌な感触と音と共に俺の頭から剣が引き抜かれたのと、理代子の心臓がその剣に穿たれたのはほぼ同時だった。刹那の、流れるように華麗で一時の動作。
瞳孔が窄み、まるで状況が把握できていないような理代子の表情。そして背からは散り逝く命を象徴するかのような、血飛沫。剣は、ほぼ根元まで突き刺さっていた。
ショックで一時的に声が出なくなった状態でも、まだ彼女は俺の名を呼んでいた。全ての動きが、まるでスローモーションのように、鈍く、重く見えた。
糸が切れたように、力を無くして垂れて行く彼女の手が、ファントムのフードの端に引っ掛かり、肌蹴た。そして露になったファントムの素顔を見て、彼女は一言呟く。
「―――――」
けれども、その声を俺は聞き取ることが出来なかった。彼女が何と言ったのかは定かではない、だがその一言によって、ファントムにも微かに動揺が走っていた。
そこで突如、水面から浮き上がるように意識が身体へと戻った。破壊された心臓は復活し、もう早鐘を打っている。手も、足も、五感全ても、正常に動いている。
ダメージに軋み嘶く身体を、自壊せん勢いで無理矢理に動かすと、春貴はファントムを押し退けた。
「理代子っ!!」
押し退け、ファントムの手からツーハンデッドソードを奪った。ファントムは放心でもしていたのか、驚くほど簡単にあっさりと剣は奪い取ることができた。
すぐに、彼女の胸から大剣を引き抜く。途端、大きく縦一文字に斬り裂かれた彼女の胸から血が溢れ出た。
「ウィスパー、聞こえるか!?どうすれば彼女を助けることができる、ウィスパー!?」
内なる彼に必死に呼びかけるが、返事は無かった。何故こうも大事な時に返事が無いのだ、まさかこんな時にまで記憶の詮索でもしているのだろうか。
大して深く考えることはしなかった。今は一刻を争う。春貴は自分の手の平に内気を集中させると、それを理代子へと注ぎ込んだ。治療系の錬精術など習ったことなど、
無かったが。内気の扱いだけは習得していた。だからこうして傷口に内気を注ぎ込めば、何とか彼女を助けられると思ったが・・・。
「無駄よ、琴坂春貴。内気はきちんと加工して傷口に注ぎ込まなければ、無為に拡散するだけよ」
「理代子ッ!意識があったのか!」
「ええ・・・。今は自分で身体の内側から治癒錬精術を発現しているけど・・・それも時間稼ぎにしかならない」
「諦めるな!今すぐ内藤さんに連絡しよう、応援を送ってくれるはずだ。無線、借りるぞ!」
彼女のスーツのポケットから無線機を探り当てると、春貴はその周波数の調整にかかった――――――が、その手を、理代子がそっと制する。
「・・・いいの」
「どうしてだ!?このままじゃ、本当に・・・本当に・・・!」
「ええ、どうしたって私は死ぬわ。今は騙し騙しに心臓を錬精術で動かしているけれど、直に限界がくる。錬精術は細胞の自己治癒能力を助長することは出来ても、
失われた身体の一部を―――――死んだ臓器を蘇えらせることはできないから」
「でも・・・でも駄目だ!死ぬなんて・・・・そんな・・・・」
理代子の手を取ると、俺はその手を自分の頬にあてがった。冷たかった。まるで、陶磁器のように、無機物的に、不気味なほどに、絶望的に、冷たかった。
そこから彼女の言っていることが全て真実であると分かった。どうしようもなく認めたくない現実だった。
「お願い・・・最後に、話・・・・・・聞いて?」
「・・・・ああ、なんだ?」
彼女の頬に水滴が落ちたのを見て、俺は自分が泣いていることに初めて気がついた。
「この事件の、ファントム事件の犯人は・・・ファントムは―――――――」
「ファントムは?」
オウム返しに聞き返す。一呼吸の間を置いて、ゆっくりと、彼女は唇を動かす。
「兄だった」
「・・・・・・・・え―――――――――――?」
夢想だにしなかった答えに、俺は絶句した。だって、彼女の兄は十五年も前に他界していると、お袋から、山田のオッサンから、そして何より理代子本人から聞いた。
そして、その兄の死に関わっていたお袋に恨みがあると言っていたことも、よく覚えていた。お袋が、理代子の兄の死に負い目を感じていると言っていたことも、
全部全部、何もかも、全て余すところ無く、一切の澱みなく覚えていた。だからこそ、彼女の言っている言葉が信じられなかった。彼女の兄が、生きていて、
そしてファントムだった。そして彼女の兄は、その手で――――――――自分の妹を、刺したと言うのか。知らずとはいえ、自分の妹を手にかけたというのか。
彼女は、死別したと思っていた兄に、再会したと思ったら刺されたというのか。そんな、馬鹿なことが――――――。
「でも春貴、悲しまないで。いま私は、とても嬉しいの。だって、ずっとずっと生きていると思っていたんだもの。そのために、私はKOTRTに入ったんだもの。
兄さんは今も何処かで生きていて、そして何時の日か必ず私に会いに来てくれるって―――――ずっと思ってた、祈ってた、信じてた。だから、私は幸せだよ。
悲しまないで。春貴にはまだ、守らなければなら・・・ない、子が・・・いるで―――――――――」
握った彼女の手から力が無くなり、するりと手の中から滑り落ち、ぱさりと地に落ちた。眼は見開かれたままだったが、もう何も映してはいなかった。
傷口から溢れ出ていた血も今や止まった。これが、これが―――――――――――死か。誰かが目の前で死ぬ様を見るのは、これが初めてではない。けれども、
大切な誰かが目の前で去るのは、これが初めてだった。呆気ない、まるで人形の糸が切れ、倒れるように呆気ない。そして、呆気ないはずなのに、胸にどうしようもなく、
大きな穴が空いたような――――――絶対にして絶望的な喪失感。心臓や肺や、およそ生きていくことに必要最低限と思われる器官が、根こそぎ無くなるような。
全ての気力が萎縮し、同時に、ある感情に微かに火が灯る。
「・・・・・・・」
動かなくなった、喋らなくなった、聞かなくなった、笑わなくなった、悲しまなくなった、何もかもが出来なくなった彼女の見開かれた目を、俺はすっと閉じさせた。
無言のままに、彼女の遺骸を整える。刺された時に顔についた血痕を服の袖で拭い、乱れた髪を手櫛で梳き、刺し傷で破れ汚れた箇所はどうにもならなかったが、
乱れた着衣も埃や汚れを払って、整えた。そして最後に、胸の上で彼女の手を合わさせる。そうして掛け替えのない人物の死体を整え終えると、春貴は、傅き、黙祷した。
目を閉じて、静かに。もう、涙は流れてはいなかった。
胸の中で、空虚となった心に灯った火が、静かに炎へと姿を変え、焔となった。それは、如何な感情も、理性も、倫理も、道徳も、道理も、理屈も、理論も、論理も、
何もかも。地獄の劫火も、天国の祝福も、静かなる死も、形を成す成さないに拘らず、万物を。一切を焼き尽くし灰燼に帰す絶対の憤怒の焔が、心に静かに渦巻いた。
「聞いてたんだろ、いまの言葉・・・・」
未だ、春貴の押し退けられた時のままと変わらない姿勢で放心し続けていたファントムに――――――否―――――――黒咲、英翔に。春貴は、静かに声をかけた。
静かだが、怒気を、殺意を、無念を、正義を、孕んだ声だった。
「聞いてたんだろ・・・・・気付いたんだろ・・・・・こいつが、お前の血の繋がった妹だって。斬ってから、気がついたんだろ」
「・・・・・・・・・」
「何か、言ってやるべきだったんじゃないのか。死ぬ前に一言」
「・・・・・・・・・」
「何だっていい。ごめんとか、ただいまとか、会いたかったとか、久しぶりだなとか・・・・・・嘘でもいいから、何か、声をかけてやる、べきだったんじゃないのか」
春貴は振り返り、黒咲英翔を見つめた。彼のフードは、肌蹴たままだった。理代子の指が引っ掛かって、肌蹴た時のままだった。彼は、何も喋らなかった。
「何とか、言えよ」
「・・・・・・・・・」
「謝罪でも、言い訳でもいいから―――――――――――――なんとか言えよ、この野郎!!!」
喉を壊しそうな大声で怒鳴った。そうしてやっと、黒咲英翔は春貴へと振り向いた。海のように蒼い目と、夜のように黒い髪。そして、理代子とそっくりの顔立ち。
優しく、聡明で、柔和な顔立ちだ。今はもう、目を閉じて動かない理代子と、同じ・・・顔立ちだ。どうしてだろう、似た顔なのに。抱く感情はまるで違う。
黒咲英翔は未だ理代子の死体の傍らで傅いている春貴に歩み寄ると、傍らに転がっていたツーハンデッドソードを拾い上げた。そして、何事もなかったかのように、
そのまま立ち去ろうとする。
「待てよ」
その肩を、漆黒の断章を展開した手で掴んだ。
「逃げんなよ。もっと、他に取るべき行動ってもんがあるだろうが」
「・・・・・・・・・」
「今からでも遅くねえ、言ってやれよ」
「・・・・・・・・・」
「何て言うべきかは、分かってんだろ?」
静寂と蒼い眼で黒咲英翔は、首だけを春貴へと向けた。そして、たった一言。
「何がだ?」
何の悪意も無く、何の意図も無く、ただ自然に、一言、そう吐き捨てた。悪意が無いからこそ、意図が無いからこそ、感情が無いからこそ、悪だった、意図だった、
感情だった。肉親を斬り捨て、殺した男の。たった一言の、嘘と欺瞞とやせ我慢に満ちた、精一杯の、虚勢の言葉。だからこそ許せなかった。許そうとも思わなかった。
初めて、心の底から―――――――――――――――――――――人を殺したいと思った。
知らずに斬ったことを責めるつもりはなかった。そうして殺してしまったことを責めるつもりは無かった。死んでいく彼女に何も言わなかったことも責めないでおこうと、
思った。だけど、彼女の死から眼を背けることを許そうとは――――――――――思わなかった。唯、それだけは許せなかった。
「野郎おおおおおおおおおおおッッ!!」
感情が爆発する。暴走した思考により、内気が溢れ出て吹き荒ぶ。
どくん、と手の十字傷が疼いた。胎動した。鼓動し・・・・・更なる黒い液体が、十字傷から溢れ出した。タールのようなその液体は、瞬く間に両腕を包み込み、
更には背中の上部半面までをも覆い尽くし――――――硬化した。両腕と背中の一部までをも覆い尽くす、漆黒の断章、その進化形態。名など分からない。
これは、理代子の死と、黒咲英翔への怒りが生み出した、琴坂春貴という人物に渦巻く、一遍の偽り無き純粋なる憎悪の塊なり。
「殺す、お前だけは・・・・絶対に!!」
背までも覆う甲殻から、ずるり、と産道から生れ落ちる赤子のように“翼”が生えた。翼竜のような、鳥や天使などとは違う、悪魔のような、羽根無き翼が・・・・。
禍々しいまでに黒く、醜い、異形なる翼。
「・・・奇遇だな、私も君を殺そうと思っていた」
噴出すような、春貴の殺気を感じながら、ツーハンデッドソードを構え、英翔は悠然とそう言い放った。
両者はほぼ同時に、弾かれるように空へと舞い上がった。
「死ねえええええええっ!」
廃ビル群の上空を、火花が舞い散る。暴走した漆黒の断章と、堅剛な漆黒のツーハンデッドソードがぶつかり合い、その度に、地を揺るがすような衝撃と、
紅く熱い焼け切れそうな火花を生む。自重既に数千トンとまでなった漆黒の断章から繰り出される一撃一撃は、最早、瞬間的なエネルギー量で言うならば核と同等か、
それ以上にまで達している。黒咲英翔はそれを、あろうことか一本の大剣だけで、受け流し、弾き返し、凌いでいた。
「お前は―――――ッ!」
渾身の右ストレートが、撃鉄に弾かれたように打ち出される。それを、ツーハンデッドソードが真っ向から受け止め、ごおん、と雷鳴にもにた轟音が鼓膜を振動させた。
「お前だけは―――――ッ!」
拳を振り切り、隙が出来た春貴に黒咲英翔は閃くような速さで近づき、大剣を力のままに振り下ろす。肩を袈裟に切りつけ、鎖骨を折り、肺を引き裂く。
そんな致命傷とも言える傷だが、春貴の前には無力だった。傷口から白煙が上がったかと思うと、すぐに傷は完治し切っているのだ。これでは、限が無い。
「お前が―――――ッ!」
だが、いくら傷が無限に回復するとはいっても、痛覚は正常なはずだ。常人と同じように痛みを感じているはずだ。だというのに、何故この男は止まらない。
今の一撃は明らかに肺を殺した、普通ならば痛みで失神しても不思議ではない。けれども、この男は痛みなどまるに意に介していないかのように、止まることなく、
疾走し、拳を振り上げ、私を殺そうと喰いかかる。その姿は、荒ぶる鬼神を連想させた。
「殺したんだ・・・・・!黒咲理代子という人間を・・・・そして、自分の中の黒咲理代子までも!!」
瞬時にツーハンデッドソードを構え直し、猪突猛進してくる春貴の胴を両断する。だが僅かに浅く、春貴の身体は脊椎によって、何とか一つに纏まっていた。
本来ならば即死してもいいはずのその傷さえも、またもや白煙があがり、瞬く間に完治してしまう。おかしい。先に心臓を貫き、頭蓋を砕いたときには、
これほどの回復のペースは早くなかった。十二分に常軌を逸した自己治癒力が、更に禍々しく俊足になっている。この男、何らかの箍が外れたとでもいうのか。
「・・・別脈種を、人間と呼ぶのか。君は・・・・・・・残酷なんだな」
「話を逸らすなあああ!」
腕を振り払って、春貴は英翔との間合いをとった。
「聞いていたんだろう!?理代子が、お前のことをどう思って、二十年も生きて来たのか!・・・・・待ってたんだ。アンタが生きてるって信じて、KOTRTにまで入って、
待ち焦がれてたんだ!何時の日か必ず、アンタに再会できるって・・・・・・アンタは会いに来てくれるって!!」
「・・・・・・・・」
「アンタに斬られても、あいつはアンタのことを恨みもしなかった。それどころか・・・・・それどころか、幸せそうだった・・・・。また、アンタに会えたって。
ただそれだけで幸せだったって、すっげえ嬉しそうだったんだ。なのに、アンタは・・・・!!」
「・・・・・・・・」
「これでも駄目なのか!?これだけ言っても、まだアンタは何とも思わないのか!?・・・・・どんな神経してんだよ、それでも本当に血が通ってんのかよ」
「一つ、言っておくよ」
やっと固い口を開いた。だが、その態度に理代子の死を悼んでいる様子は見られない。変わらず、悠然と、春貴を見下げていた。
「君がどう言ったところで、私の考えや感情は変わらない」
「なッ!?」
「何の感慨も無い。妹が死んだ事になんか。押し付けないでくれ、手前勝手な考えを、倫理を、道徳を。私には私の考えがある。私を自分と同じ思考にすることで、
妹の死を弔おうというのなら―――――――それは、それは酷く滑稽で不細工で歪で醜悪で怖ましい・・・・・・偽善だね」
「・・・偽善・・・?」
黒咲英翔の吐き出す言葉に、春貴の怒りは沸点を軽く超えた。怒りなぞ容易に超越し――――――――虚無が、心中に拡がって行った。酷く凶暴で攻撃的な、
一切の歯止めが利かない本能を秘めた虚無が。怒りの表情など消えた。呆気なく、抜け殻になったかのように、顔が色を亡くしていく。
「そう、偽善だ。それも飛び切り醜悪な。・・・・・・それに、これ以上私に、何かを背負わせないでくれ」
「・・・・・・・・」
今度は春貴が沈黙する番だった。黒咲英翔の言葉に、ただただ絶句するしかなかった。
「やっと、全部を捨ててきたんだ。苦労して作り上げたホームも、親しかった隣人も、平穏だった暮らしの何もかもを・・・・それどころか、自分の身体も、捨てた。
彼女を救うには、もうこれしか方法が無いんだ・・・・!だから、私にこれ以上、何も背負わせないでくれ」
「・・・・・・・・ああ、別に良いさ」
自分の声が、酷く乾いているように思えた。生気という水分が、覇気という潤いが、意志と言う瑞々しさが、それらが何も感じられなかった。あるのはただ、
真っ赤に燃え盛る、虚無と憤怒の混沌となった感情の劫火。何もかも、自分さえも焼き尽くす、焼ききれるように熱く、凍てつくように冷たい砂塵に荒ぶる焔。
「どうせ、アンタは俺が殺すからな。もう何もかも一切合切、関係ねえよ・・・・・」
ごぼごぼ、と音を立てて手の甲の十字傷から新たに黒い液体が湧き出る。既に黒い甲殻に覆われた春貴の両腕を液体は這うようによじ登り、首を伝って顔へと至る。
貌を亡くした顔を、液体がざわざわと意志を持っているかのように這いずり回り包み込み、琴坂春貴という人間の頭部をすっぽりと覆い尽くした。
パキパキと音を立てて硬化していき、春貴は正真正銘、紛うことなき、純然なる―――――――――バケモノと化した。
ヘルメットのように覆われた漆黒の甲殻に覆われた顔には、眼と呼べる器官は無かった。フルフェイスのヘルメットのように、継ぎ目の無い甲殻のみで構成されている。
黒い液体は口腔内にまで侵入していて、その中の作りさえも変えてしまっていた。歯は人間のように平たいものではなく、肉食獣のように鋭く、細かい歯が並んでいた。
その全容は、光の射さない深海に潜む深海魚を彷彿とさせる特徴と印象を有していたが、何よりも際立っていたのは、禍々しさだった。人間でもない、別脈種でもない、
何の生物か、分からなくなってしまった、人でなき人、別脈種でなき別脈種、生物でなき生物。
その顔を覆う甲殻に理性と言葉まで奪われてしまったのか、春貴は牙の並ぶ口を存分に開ける。背中に関された羽も合い間って、その姿は悪魔と呼ぶに相応しく、また、
悪魔と呼ぶだけでは足りぬ醜悪さと凶悪さを放っていた。
「クロザ・・・き・・・エイ、しョウ・・・・・」
侭ならない口調でそう呟いたかと思うと、牙が覗く口から、春貴は黒い球を英翔めがけて吐き出した。正に黒と呼ぶに相応しい黒、光すら照り返すことは無い。
いや、光を照り返さないのではない――――――あの黒い球は、光の光子そのものを吸収しているのだ。
英翔は怯まず、弾丸のように飛来した黒い球をツーハンデッドソードの切先で受け止めた。その黒い球を受け止めた刹那、切先がまるで蜃気楼に霞むように、
ぐにゃりと変形した。何事かと思いすぐさま剣を引くと、軽く身を捻って黒い球をやり過ごした。今のは、一体何だ。このツーハンデッドソード、フラガラッハは、
エクス・カリバーンを呪術加工したものだ。エクス・カリバーン内の膨大な内気を、剣の鋭利さと剛健さの維持だけに注ぎ込んだ、何者にも砕くことは出来ず、
また何者にも防ぎきることの出来ない刃を有しているのだ。そのフラガラッハが、歪曲しただと。なるほど、得心がいった。あの黒い球は、まさかとは思ったが、
やはりそうだったか。あの球は、超極小規模のブラックホールの類だったのだ。どうりで光を一切返さず、吸収しているわけだ。超高重力の中では、如何な物質も、
絡め取られ粉砕する。逆を言えば、そんな常識外れの代物を受け止めきれたフラガラッハの硬度も常軌を逸しているが。この男の黒い腕の特性が、重力制御だとは、
憶測がついていたが、よもやこんな荒業を繰り出してくるとは。
「死ねエエえええええエエ!!」
漆黒の断章の爪が閃き、フラガラッハの刃と交わり火花を撒き散らす。そして黒咲英翔は、これ以上この男とまともに戦い合うことを危険と判断した。
「・・・覚えておくといい。君が別脈種という生物種である限り、私には決して勝てないということを!」
後方に大きく退き、春貴との間合いを取った。今や肉食獣と化した春貴は、何の考えも成しに無慮に突撃を開始した。だがその間に黒咲英翔はフラガラッハを、
黒いコートの中に仕舞い込むと、何も得物を持ち得なくなった手の平を、さっと春貴へと向けた。
刹那、春貴が纏っていた漆黒の断章の全てが、砕け散った。
顔に纏われたものも、背に冠された羽も、腕を覆い尽くす甲殻も、全てがガラス細工のように、しゃりん、と砕けて霧散する。春貴は我を取り戻したかのような、
だがどこか呆気に取られたような表情だった。何故、唐突に漆黒の断章が解けたのか、理解できないといった考えが、如実に見てとれる表情だった。
「さようなら、妹を頼むよ」
「・・・・・・え・・・・・・・?」
初めて、理代子のことを気遣うような言葉を聞いたかと思ったが、次の瞬間には春貴の首は抜刀されたフラガラッハに斬り落とされていた。
今度は流石に意識が無くなったが、その気が完全に失われる寸前まで、春貴は思っていた。
ああ、やはりこの人は黒咲理代子の兄なのだと。
先に吐いた侮蔑の言葉も、いま告げた懺悔にも似た頼みも、どちらも彼の本心なのだ。
だから、どうしようもなく哀しい。
沈んでいく、消えていく意識の中に浮かんできたのは理代子の静かな寝顔と―――――――――――――――星火の、太陽にも似た零れるような笑顔だった。
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