『それでは、いよいよ競に――――』 「うわあああああああ!!」 アナウンスが競売の合図をしようとしたとき、会場中に響き渡った悲鳴が遮った。それと同時に、一人の男が宙を舞い、壁に叩きつけられる。 客達は、何事かと吹き飛ばされた男を見るが、彼は既に壁にぶつかった衝撃で失神していた。 彼の喉には、まるで大蛇に絞められたような傷痕があったが、それに気付いたものは理代子を除いては誰もいなかった。 「だ、誰だお前は!」 突如あがった声に、客達はまた一様に首を向けた。舞台の上には相変わらず“商品”の女性と、屈強な黒いスーツの男と―――――そして、見知らぬ男がいた。 その見知らぬ男の手には、どす黒く光る甲殻――――――漆黒の断章が。 舞台に上がった春貴の姿を見て、理代子は舌打ちした。彼は理代子の制止を無視して立ち上がったかと思うと、そのまま隣りの席の男を投げ飛ばしたのである。 それだけで収まってくれたなら良かったのだが、彼は悲鳴による混乱に乗じて、あろうことか壇上に上がったのである。 それも、漆黒の断章を発動した姿で・・・・・・・。 最悪だ。理代子は悪態づくどころか、内心では脂汗をながしていた。不味い、春貴には解らないだろうが、今のこの状況は非常に不味い。 漆黒の断章を纏った姿を、大勢の人間の前に晒す。つまり、自分が別脈種であるということを、周りに知らしめていることと同意なのだ。 KOTRTの重んじる秘匿以前の問題だ。別脈種が、己が異能を周囲に曝け出すなど、禁忌中の禁忌。 春貴はまだ知らない。人間が、人の姿をした“バケモノ”をどう扱うのか。 「大丈夫か・・・」 春貴は、電撃を倒れ伏している女性の肩を担ぐ。黒スーツの男は、担ぐ時の春貴の“手”を見て、顔を青ざめた。 「こ、こいつ・・・!“イレギュラー”だ!!」 まるで鬼か悪魔でも見たかのような形相で、男が叫んだ。すると会場から、わっと悲鳴が上がった。客達は急いで席を立ち、一目散に舞台から少しでも離れる。 その混乱の中で、理代子は春貴の軽挙さを呪う。そして、逃げようとする客達に向けて、 「――――――天地四方をかけ、夜明けに沈み、暮れに浮かぶ者よ。生ける全てを欲し、貪欲なる飢えを成し、天空を焦がし蹂躙する者よ。  我は汝の血を飲みほし、汝は我の贄を喰らい尽くす――――――呼応せよ。第二十一呪術・・・“天海朱殻”」 言語詠唱を唱えると、この大型客船を黒いまでに濃厚な紅い色をした光の膜が包み込んだ。しかし中にいる客達はそれに気付かず、我先にと出口に向う。 扉を開けて外に出ようとするが――――それは叶わなかった。ドアノブが、回りすらしない。おまけに、身体に異様な不快感までが押し寄せて来た。 パニック状態と原因不明の体調不良が重なった客達は、たちまちその場に崩れ落ちる。これがつい先ほど彼女がかけた錬精術。第二十一呪術“天海朱殻”、 その効果である。術の発現者の任意に応じて大きさの変わる光の膜は、その内にある物理的事象を限定的にコントロールし、さらに効果内にいる全ての生物に、 極度の精神的負荷をかけることが可能なのだ。パニック状態に陥り、精神的に不安定な状態にそのように負荷をかけられては、凡人なぞひとたまりも無い。 これで、当分客達の逃亡は防ぐことが出来た。あとは、この“グラン・クリュ”の無力化だけである。 「悪い、なんか大変なことになっちまった・・・」 すると傍らに、女性を肩に担いだ春貴が近寄る。理代子はその声に気付くと、振り向き様に春貴の頬を思い切り叩いた。 だが彼は、その一撃に何の反発もなかった。本人も、この状況を招いたことに、それなりの責任を感じているのだ。 「台無しだ・・・全部。折角集めた情報も、たてた作戦も、何もかも・・・ぶち壊しだ。これで、もう何の情報も掴めなくなる――――ッ!」 「すまえねえ・・・」 「謝罪はいい。それよりも・・・」 理代子は、ざっと周囲に目を配る。つられて、春貴も辺りを見渡す。客達が“天海朱殻”で倒れている会場内に、数人の黒スーツの男たちが立っていた。 彼らは天海朱殻を物ともしていない様子だ。並みの人間ではない、つまり―――――別脈種だ。 「私はいま結界を維持するので精一杯だ、この事態の責任を取る意味も含めて、琴坂春貴――――君が戦え」 「もちろん、そのつもりだ」 春貴は抱いた女性を理代子に預けると、拳を構えて、向き直る。そこには、スーツを脱ぎ捨てた、屈強な男たちが待ち構えていた。 誰も皆、死線や修羅場を幾度も潜り抜けてきたような猛者ばかりである。しかし、こちらも伊達にバケモノをやっているワケではない。 自慢じゃないが、そんじょそこらの輩には、例えそいつが同族であろうが―――――負ける気はしない。 そう意気込む春貴の目の前で、男たちは突然唸りを上げたかと思うと、次の瞬間には手から豹の様な爪が生え、口には狼のような牙が現れる。 全身の筋肉が隆起し、獣のように全身を毛が覆い尽くす。その姿はそう・・・まるで月を見て目覚める、狼男のようであった。 「な、なんだこいつら!?これも別脈種の力なのか!」 「落ち着け琴坂春貴。こいつらは獣人種と呼ばれる、下等な羅種だ。対する君は、高等羅種である鬼種、まず負けることは無い」 「つまり、俺は生まれながらにしてこいつらより格が上ってことか?」 「肯定だ。臆することも哀れむことも手心を加えることも無い。全力で叩きのめせ」 「了解ィ!」 漆黒の断章を構えて、春貴は走った。それを半獣化した獣人種が迎え撃ったが、力の差は歴然だった。獣人種は自慢の鋭利な爪を春貴の喉元めがけて繰り出してくるが、 春貴はそれを軽く身を捻ってかわし、失速することなく、獣人種の顔面に拳を叩き込んだ。 相手はその拳を避けることもせず―――――正確には避けることが叶わず、諸にその一撃を被り、頭からホールの端まで吹き飛ばされる。 春貴は一瞬、あまりの呆気なさに逆に面食らったが、すぐに次のターゲットへと意識を切り替えた。狼のように咆えながら迫り来る獣人種に、今度は蹴りを見舞う。 それは気持ちがいいほど見事に鳩尾に入り、内臓を打ちのめされてよろめいたところを、容赦無く漆黒の断章で殴り倒し、またも壁際まで吹き飛ばす。 その間、時間は僅かに二十秒弱。圧倒的といっていい。獣人種は決して弱くない種族である。こうしてグラン・クリュの警備を任される程度の腕は確かにある。 人間とは比べ物にならないタフネスとバイタリティ、そして屈強にして頑強な肉体、鋭利な爪と牙。純粋な肉弾戦において、人間に勝ち目は無い。 そんな実力を持つ獣人種だが、春貴の前では彼らの実力は余りに拙すぎた。当然だ、獣人種の中でも、ウェアウルフ(人狼)はかなりの下層に位置している。 対して春貴は、鬼種の中でも一・二を争う高等種族、オウガ(人喰鬼)の血を継いでいる。酷な言い方だが、生まれながらの潜在能力に差がありすぎる。 「おらおらぁ!ちまちましてねえで、もっといっぺんにかかって来いやあ!」 春貴の挑発に、ウェアウルフ達は容易く焚きつけられる。そうすることで、春貴は獣人種の攻撃を自分に集中させ、結界を張っている理代子を庇った。 逆上せ上がったウェアウルフ達が四人、一気に飛びついてきた。牙が、爪が、鋭く煌くが、春貴にそれが食い込むことはなかった。 とりあえず春貴は右端の人狼に軽くアッパーカットを見舞って昏倒させ、続く二人は渾身の右ストレートで同時に片付ける。 残った一人の顎を掴むと、そのままボールのようにぶん投げて壁に叩き付けた。動きが遅すぎると、春貴は思った。どいつもこいつも、オフルマズドとは比較にならない。 鈍重で、脆く、少し殴っただけで簡単に気絶してしまう。呆気ない。これがもし、オフルマズドだったら。あの、響次という男だったら、オックスだったら、 ―――――――正門蒼志だったなら。 こうはいかないだろう。そう思いながら、新たに肉薄してきたウェアウルフに拳を叩き込む。ほら、まただ。こんなにも簡単に、こんなにも遅い拳が当たってしまう。 正門蒼志だったならば、こんな一撃など簡単に見切り、受け止め、すかさずカウンターを繰り出してくるだろう。だが、こいつらにはそんな技量は無い。 背後から隙を衝こうと襲い掛かるウェアウルフも、振り向き様に回し蹴りを極めてノックアウト。ダメだ、弱すぎて、はっきり言ってスパーリングにもならない。 そう思いながら、次々と来るウェアウルフ達を捌く。戦い始めてから、僅か数分。春貴は、会場内にいた全てのウェアウルフを、たった一人で、圧倒し切った。 その戦いを目の当たりにした理代子は、思わずうめいた。 「・・・まさか、これほどの実力だとは。琴坂春貴、まさか君は私と手合わせをしたとき、手加減でもしていたのか?」 「はあ?んなわけねーだろ」 「いや、しかし・・・」 全部のウェアウルフを倒し終えて戻ってきた春貴はきっぱりとそう言った。だが、理代子にはそうは思えなかった。獣人種を圧倒している時の春貴の力は、 明らかに先日拳を交えたとき以上のものだった。それも、桁違いだ。しかし春貴はそういったことを隠そうとする性格でもない。 ということは、本人は自分にポテンシャルに変化に気付いていないと考えるしかない。つまり、この数日間の間で、彼はまるで別人のように成長しているのである。 有り得ない。春貴にどんなに格闘の才があったとしても、これほどまでに急成長するとは物理的にも不自然だ。だが、事実として彼は異常なまでに強くなっている。 ウィスパーとの訓練の成果か・・・。いや、それもこの異常成長の理由にしては弱い。もっと何か、ニトロのように強力な外的要因があるはずだ。 まるで、初めから戦い方を知っているような、あの強さの根本ともいえる原因が・・・・。 そのあと理代子は天海朱殻を解くと、KOTRTに連絡をいれた。 任務は、失敗したと――――――。 理代子のロードスターに腰掛けながら、KOTRTの捜査班がすっかり沈黙した大型客船に入っていくのを、春貴は眺めていた。 横では、理代子が苦渋の面持ちでそれを見つめている。暫くして、中からグラン・クリュを訪れていた客達がぞろぞろと連れ出された。 彼らの表情は、一様にして絶望の一色だ。まあ、これからはマトモな人生を歩むことなど叶わないであろう彼らの立場を考えれば、当然だ。が、自業自得である。 続いて、“商品”の人間が、誘導されて出てくる。彼らの表情もまた、行く先の不安に青くなっている。だが闇に惑うことも、これで最後だろう。 確かにバックグラウンドは掴めなくなってしまったが、こうして結果的には多くの命を救ったのだ。 「? 何故だ?」 「どうした、理代子」 「あれを見ろ」 彼女が指差したのは、客船から連れ出されるウェアウルフたちだった。彼らもまた手錠を繋がれ、KOTRTの捜査班によって連行されて行くところだ。 いったいそれに何の問題があるのだというのか。 「何故・・・奴らは生きてるんだ?」 「そりゃ俺が殺さ無かったからだろ」 「殺さ――――――なかっただと?」 「ああ、全員。ぶん殴って気絶させただけ」 しれっと言ってのけたが、どうも理代子にはそれが信じ難いというか、度し難いようだった。さも奇天烈な物でもみたかのような驚愕の表情だったかと思うと、 すぐに憤怒の表情に変わった。「馬鹿なことを・・・」とだけ呟き、顔を逸らす。何が何だかよく分からないが、今の春貴にはそれはあまり重要なことではなかった。 全員、助けることが出来たんだ。 そのことで頭が一杯だった。内藤の持論を、俺は破ることが出来たんだ。そうだ、助けられる人数が決まっていることなど、ありはしないのだ。第一、誰が定めるのだ。 誰にも定めることなど出来ない。願えば、行動すれば、それは変えられる。それをいま俺は、この戦いを以って、グラン・クリュの壊滅を踏み台に、成し得たのだ。 帰ったら、内藤さんにこのことを話そう。確かにこの世界は有限の移り変わりで動いている、だけど、その有限の中でも、最善の方法はあったのだ。 切り捨てるだけじゃ、駄目なんだ。考えることが必要だったんだ、そうすれば助けられる、誰も死なずに済む、答えは、こんなにもあっさりと見つかる。 「そういえば、“イレギュラー”ってなんだ?」 「・・・別脈種の別称」 不意に思い出した問に、彼女は簡潔かつ明瞭に答える。実に素っ気無い答え方だったが、そんなことは苦にも気にもならなかった。それほどに、舞い上がっていた。 自惚れていた。自分があたかも本当の正義の味方になったかのように・・・。 港中に激しいエンジン音が響き渡ったかと思うと、一台のスポーツカーが後輪を滑らせながら駆け込んできた。KOTRT捜査班の近くに止まると、中からは内藤さんが。 よく見れば、それは確かに以前内藤さんが乗っていたエンツォ・フェラーリだった。しかし、そんな高価な車をあんな豪快に乗り回すとは、なかなか豪気な人だ。 彼は捜査班の人間と二・三言会話を交わすと、辺りを見回した。そして春貴たちの姿を見つけると、険しい表情でずかずかと近寄ってきた。 かなり怒っているということは、火を見るより明らかだ。 内藤は近づくや否や、ロードスターに腰掛けている春貴の胸倉を掴み、無理矢理に立たせた。身長が百八十ある春貴をそんな風に持ち上げられるのだから、 彼の身長もなかなかに高い。 「・・・自分が何をしたか分かっているのか?分かっていて、そんなふてぶてしい態度を取って、高見の見物か?」 「別にふてぶてしくしてるつもりはねえよ・・・それに、高見の見物ってどういう意味だよ?」 「はんっ。この期に及んで、よくもそんなことを抜け抜けと・・・。君がそんな性格だったとは、思わなかったよ。失望した」 「ちょい待てよ、なんか話が噛みあってねえぞ」 「?」 激昂しながらも首を傾げる内藤は、その疑問の先を理代子へと変えた。じろりと、睨むように見つめる。見つめられた理代子は、思わずびくっと身を竦めた。 そこから彼は、全てを知った。そして、理代子のことを何と優しく、残酷なのかと侮蔑する。彼女は、琴坂春貴を止められなかったのも十二分な失態だが、 それ以上にもっと取り返しのつかないことをしでかしていた。恐らく春貴のことを思ってのことなのだろう、だが彼女はそれが春貴への何よりの絶望なのだと、 悲しいことだが気付くことは無かった。知らないと言う事は時に幸せだが、時によっては果てなき後悔を遺す絶望と悲しみにも成り得る。 いま春貴の“知らないこと”は、後者だ。 「愚かだな・・・二人共。琴坂春貴、特に君はそうだろう。大方、誰も死なせなかったという事実に、自分が正義に味方になったとでも勘違いしているのではないか?」 「そんなガキっぽいことは思ってねえ。けど、誰も死なせなかったことは、誇れることだと思ってる」 「誇れること・・・?ははっ、これは傑作だ。ははは――――――“誇れること”・・・だと」 内藤はそう言って、酷く乾いた笑い声を上げた。いや、本人にはそんなつもりはないのかもしれない。だが、春貴にはそう聞こえた。 「何がおかしいんだ・・・」 「いや。いやいや・・・・別に、何も。そうか、“良い事”をしたな・・・琴坂春貴。何かご褒美でも買ってやろうか?」 「ふざけんな。殴んぞ」 胸倉を掴む手を、乱暴に引き剥がす。だが内藤は相変わらず嘲る笑いを浮かべ、にやにやと見つめてくる。それが酷く癪に触った。聖人のように説いたかと思えば、 道化のように嘲笑し馬鹿にする。 「お前は誰も救ってなどいない・・・むしろ逆だ。殺したんだよ、助けられた人間もそうでない人間も、なりふり構わずに殺したんだ」 「なに言ってやがる、手前の目は節穴か。見ただろう、俺は誰一人殺してねえ」 「ああ。少なくとも今はな」 「へらへらしやがって、はっきりしやがれ!何が言いてえんだ、手前は!」 せせら笑う内藤に怒鳴りつける。 「へらへらなどしていない、これでも私は今までに無いほど内心荒れている。教えてやろう、琴坂春貴。お前はあの客船の中の人間を誰一人殺していないと思っている、  そうだろう?だがそれは勘違いも甚だしい。逆だよ、皆殺しだ。何故か分かるか?KOTRTは――――否、別脈種は、何よりも隠蔽を重んじる。それだけのことだ」 「隠蔽?」 「そうだ。別脈種の歴史は、人類に弾圧され続けた歴史でもある。故に別脈種はその存在を隠し、潜み、知られれば――――躊躇わず殺す。君はあの客船の中で、  自分が何をしたか覚えているか?」 「・・・・・・」 内藤に、返す言葉が無かった。何をしたか・・・・そんなこと、嫌と言うほど鮮明に覚えている。戦った。漆黒の断章を使って―――――――。 別脈種は隠蔽を重んじる―――――。そのためには、殺すことも厭わない。 俺はそれを、隠しもせずに、堂々と戦った。あの会場にいたほぼ全ての人間に見られた、客やウェアウルフ達だけではない、“商品”の人間にも・・・。 その全員を、殺さなければならない。 何故。 俺がこの異能な力を隠そうともせずに暴れまわったからだ。 もしも。 俺があそこで堪えて、いや、漆黒の断章を出しさえしなければ――――――、誰も死ななかった。助けられた。 「本当なのか・・・?」 震える声で、内藤に質問した。彼は一気に力が抜けた様を見て、酷く冷めた表情でこう言い放った。 「そうだ。お前が馬鹿なことをしたせいで殺される」 「――――ッ!悪いのは全部俺なんだろ、それを・・・何の関係も無い奴らを巻き込むなよ!」 「甘ったれるな!!巻き込んだのはお前自身だろう!?お前の愚直が、浅慮が、異能が、彼らを貶めたのだ!恥じるのは、悔いるのは、己自信だろう。履き違えるな!  それに決定はお前がどう騒いだことで変わらない。彼らは全員―――――KOTRTで処分する」 「どうして・・・!どうしてそこまでして隠す必要があるんだ!?」 「口説い!それとも何か、お前はここにいる僅か百人足らずの人間のために―――――世界中にいる何千もの別脈種を危険に晒すのか」 「そんな、話が飛躍しすぎだろ!」 「・・・ほう。何故にそう言いきれる?誰も口外しない?そんな弾圧は起こりえない?・・・・どこにそんな保障がある。これ以上の問答は埒もない。話し掛けるな」 「人が死ぬんだぞ!?」 「黙れ!!」 すがる春貴の眉間に、内藤は懐から引き抜いた拳銃を押し付けた。突然のことに、春貴も理代子も動揺を隠せなかった。しかし銃を構える彼の目は――――本気だった。 彼は、躊躇わないだろう。この引き鉄を引くことを。 「それ以上なにか言ってみろ。頭が少しは涼しくなるぞ。いくら不死身とはいえ―――――脳を破壊されれば無事では済むまい?」 「ぐっ・・・」 それ以上何も言う事が出来なかった。内藤の言っていることは至極正しい。そもそもKOTRTや別脈種の掟以前に、俺はあそこで動いてはいけなかったのだ。 後先考えずに、ただ目先の感情に走ってしまった。その結果がこの様だ。馬鹿らしい。俺のそんな馬鹿らしい行動のために、百人近い命が失われる・・・。 気づけば、指先が微かに震えていた。銃口を眉間に突きつけられるよりも、自分の所為で何人もの人間が死んでしまうという事実のほうが、恐ろしい。 内藤はそれを感じ取ったのか、それ以上なにも喋らずに銃を引き下げた。そのまま蔑んだ視線を向けながら背を向けると、再び捜査班の元へと戻っていった。 去り際に彼は振り向かずに一言「先に帰れ」とだけ、変わらずの険しい口調で告げた。 そのまま、何も出来ず、何もせず、逃げるように立ち去った。 道中、車の中で俺は放心状態だった。黒咲が何か話し掛けてきたような気がしたが、全く頭に入ってはいなかった。 俺は何をしているんだ。誰かを守ろうとして、でもそれは結局は空回りで、おまけに多くの人の命まで奪ってしまった。何の価値がある。この俺に。 こんなことしか出来ない俺に、何の価値がある。守る―――――おこがましいにも程がある。身の程を痴れ。思わず、言葉で自分自身を嬲る。 内藤さんの言ったことは正しかった。人間一人に救える人数は決まっていて、たかが知れていて、それを破ろうとすれば―――――厳しい罰が下る。 有限の移り変わり、正義の味方、悪、殺すべき人間・救うべき人間、世界を当てはめる物、括るもの、主観の集合・・・。 俺は道化だ。薄い銀盤の上を滑稽に踊る、哀れで無力で痴れたピエロなんだ。 「・・・・・・琴坂春貴、聞いているのか?」 「え?」 そこで、黒咲が呼びかけていることに初めて気がついた。どうやら相当な回数呼びかけていたようで、怒るのを通り越して心配しているようだ。 確かにあんなことの後でこれだけ憔悴すれば、誰でも心配はするか・・・。 「なんだ?」 「好きなの?バイク?」 「なんで急にそんなこと」 「ずっと見てるから」 車は、何時の間にか渋滞につかまっていたようだ。そして、直ぐ隣りに一台のレーサーバイクが止まっていた。どうやら俺は、無意識にそれを眺めていたらしい。 それも恐らく、一心不乱にだろう。 「・・・好きだけど。こっちに来る前にも、一台持ってたしな」 「そう・・・」 そこで会話は途切れた。黒咲はまだ何かを話そうとしていたみたいだが、とてもじゃないがそんな気にはなれなかった。 渋滞が途切れ、車はゆっくりと動き出した。そして一時間近くかけてマンションの前まで戻ってきた。 俺は車を降りて黒咲に家に上がっていくようにすすめたが、彼女は事後処理があると言って、すぐに本部まで戻っていった。 疲れた足取りで、何とか部屋の前まで戻る。そこで、自分が意外と血腥いことに気がついた。前回の任務の時よりは大分マシだが、それでも無視できるものではない。 「・・・?」 部屋のまん前まで来ると、春貴は思わず小首を傾げた。部屋の前に、見たことのない人物が立っていたからだ。そして、恰好が普通ではなかった。 黒子のように真っ黒な服に身を包み、顔には何を思ってなのか、髑髏を意匠とした面をつけている。 いくら春貴といえど、そんな珍妙な知り合いを持った覚えはなかった。むしろ、あんな人間と関係を持つなどということは出来れば遠慮したいところだ。 しかし部屋の前で堂々と立たれている手前、無視するわけにもいかない。あそこまで堂々としているのだから、敵という可能性はないだろうが、それでも話し掛け難い。 「えーと、どちらさんで?」 出来るだけ当り障りのない言葉で話し掛けると、髑髏面の男はぐりんと首だけをこちらに向けた。 「お帰りなさいませ、琴坂春貴様。私は内藤様よりこの御部屋と星火様の警護を仰せつかった者です」 おお、意外と丁寧な対応だった。 「内藤さんの・・・?」 「はい。貴方様からの連絡があったとき、内藤様は私めに此処の警備を命じられました。任務失敗と聞いた時、内藤様は貴方様と黒咲様のことを、  大層ご心配になられていましたよ」 「そうですか・・・」 「きついお叱りを受けたと聞いております」 「え?」 「大体の事情は察しております。しかし、どうか内藤様の身の上のことをどうか分かっておいてくださいませ。あの御方は、今まで多くの部下を戦いで失ってきました。  ですから、必死なんです。もうこれ以上部下を死なせたくはないと、あの御方なりに必死なのです」 「・・・大丈夫だ。俺は今回のことであの人を嫌いになったりはしねえよ。それに、あんな風に内藤さんを怒らせたのは、何より俺が原因だしな・・・」 「なら安心ですね。では一つ、内藤様に渡して欲しいものがあるのですが・・・お願いできるでしょうか」 「ああ、いいけど」 受け取ったのは、茶封筒だった。中に入っているものが何なのかは見当もつかないが、内藤さんに渡すと言う事は、けっこう重要な書類だったりするのだろうか。 いや、だったらこんなお座成りな封筒で渡すというのも不自然だ。それとも、そういう考えを見越しての茶封筒なのだろうか。 まあ俺がそんなことを考えても、意味のないことなのだが。 「分かった、きっちり渡しとくよ」 「ありがとうございます。では、私はこれで」 そう言って髑髏面の男は、春貴の脇を通り、階段の方へと向って歩いていった。春貴は受け取った封筒を、借り物のスーツのポケットに丁寧にしまうと、 指紋照合式のカギを開けた。ちなみにこの指紋照合の機能には最近気がついた。それまではずっとアナログにカギをかけていたのだが、この指紋照合式もなかなか、 使い勝手がいい。 ただいまと呟きつつ玄関を通り抜けると、リビングに出る。明かりが着いていて、ソファーには星火が座っていた。その手には、先日見ていたあの珍妙なアニメの、 珍生物モイキーなるキャラのぬいぐるみを抱えていた。かなり大きいサイズで、一メートル以上はある。また内藤さんにでも買ってもらったのだろう。 しかし、あんなネズミとも山田花子ともつかないようなキャラの何処が愛らしいのだろうか。 「ハルキ。お帰りー」 「おう、ただいま」 ぬいぐるみに手を振らせながら、彼女はそう言った。だから、そのぬいぐるみの何処が可愛いのかと。本気で理解に苦しむ。 けれど、良い事ではある。こうしてぬいぐるみ(変なぬいぐるみではあるが)と戯れる彼女の姿を見ると、救われる。 初めて会った頃より大分丸くなって、年相応な少女へと変わっていく彼女を見ると、自分にも守れる、守れているものがあると、心から思えるから。 どれだけ傷ついても、挫けても、押し潰されそうになっても・・・また立ち上がって、立ち向かって、戦おうと思えるから。 「・・・ハルキ、血の匂いがする。早くお風呂に入ってきたら」 「ん、ああ。すまねえ、そうするよ」 鼻をつまんで嫌そうな顔をすることもないだろうに、と思うが、実際血腥いのだから仕方がない。確かに、自分でも結構気になっていることだった。 そういえば、このスーツは借り物だが、洗うのはどうすればいいのだろうか。いくら学がなくても洗濯機に直接ぶち込むのは良くないということぐらいは分かるが、 ここはやはりクリーニングに出すべきなのだろうか。しかし引っ越してきてまだあまり日がないから、ここの地理には疎い。どこにクリーニング屋があるのか。 待てよ、確かこのマンションには部屋ごとのクリーニングサービスというものが会った気がする。後で受付に電話して確かめるとしよう。 脱衣所でスーツを脱ぐと、とりあえず洗濯籠にそれらを置いておくことにした。 浴場に入ると、かけ湯をして、湯船に肩まで浸かる。 嗚呼、生き返るとはまさにこういう気分のことを言うのだろう。心身ともに疲れ切っていたのが、まるで嘘のようにひいていく。 そうしてお湯に身を委ねること数分間、唐突に浴場の扉が開いた。誰だろうかと思ったが、冷静にも考えてみよう。いまこの場所に居るのは俺と星火のみ。 つまり、ここで浴場の扉を開けることが出来るのは必然的に彼女だけという事になる。いやいや、それでも待て。何故彼女が浴場に入ってくるのか。 彼女も今は俺が入浴中ということは重々承知しているはずだ、ならばどうして浴場に入ってくる必要があるというのだ。むしろ、嫌がるはずだろう。 はっ、もしかしたら、俺がいま風呂に入っているからこそ、彼女も入ってくる必要があったのだろうか、とするならば、答えは一つ。 そうか星火もまだ子供だと思っていたが、終にそういうことも覚えるようになったのか。きっとテレビか何かで知ったのだろう。日本の性教育万歳。 「星火―――――ッ」 緩みに緩みまくった顔で振り返ると、顔面に猛烈な勢いの水が噴射された。まるでホースで直に水をかけているかのような水圧に、思わず身が仰け反る。 突然のことに泡を食って顔を拭って見れば、そこに居たのは星火ではなく、腰にタオルを巻いた姿の内藤さんだった。 ・・・・どうやら俺の脳は精神的な疲れと肉体的な疲れが合い間って、虫でも湧いていたようだ。 虚しさと哀しさが、一気に胸中を満たす。しかし、いくら何でも星火が一緒に風呂に入るなどという可愛げのある行動をすると思うだろうか、普通。 あれだけ反骨精神全開娘が・・・。反省。というより自己嫌悪。 「何て腑抜けた顔で振り向くんだ、お前という奴は」 「・・・・・・・すいません」 呆れたため息を漏らされて、俺は肩を竦めた。 「それよりも内藤さん・・・その手に持ってるの、何ですかソレ?」 「? エアウォーターガンだ」 「いや、そういう意味じゃなくて・・・」 俺が指差すと、内藤さんは不思議そうに自分の持っているエアウォーターガンを見つめた。それは先日のチャチな水鉄砲とは比べ物にならないほど大きく、 しかもポンプにより圧搾した空気により水を発射するという、かなり本格的な代物だった。値の張るものならば、飛距離も威力も洒落にならないらしい。 ・・・というより、また買ったんですか。もう三十路をこえているのなら、少しはそれを自覚してください。 と、言いたかったが、それは憚られた。当たり前だ、先にあれほど派手に怒られたのだから、合わせる顔がないのは当然である。 「なかなかの威力だろう。今日星火のぬいぐるみを買うついでに、私も購入したものだ。いや、最近の玩具は馬鹿にしたものではないな、これで文句のない仕上がりだ。  全く、近頃の子供は贅沢だな」 「そうですか・・・。そういや、部下の人から内藤さんに渡してくれって茶封筒を受け取ったけど」 「本当か?それはいま何処だ?」 「リビングの机の上」 「分かった」 言うが早いか、内藤さんはすぐに踵を返してリビングへと向った。腰にタオル一丁の姿で。そういえば、リビングにはぬいぐるみで遊んでいる星火が・・・。 「うむ、これか?」 「あ、うん。それ」 ・・・どうやら、星火は動じなかったようだ。いや、ぬいぐるみ遊びに夢中になって、ただ単に気がつかなかっただけかもしれない。 「ふむ・・・」 早速茶封筒の口を破ると、彼は中身を確認した。そういえば、一体何が入っていたのだろうか。内藤さんに渡すというものなのだから恐らく重要な代物であるには、 違いないのだろうが、それにしては入れ物が吊り合っていないと言う疑問が残る。待てよ、そんなに考えなくても俺に受け渡しを頼んだ時点で、 中身のたかがは知れるのではなかろうか。KOTRTでも何でも無い無関係もいいところ俺に頼むものなど、何の機密性も孕んではいないことの証のようなものではないのか。 「これは本当に私の部下から受け取ったのか?」 「そうだけど」 「そうか・・・・なるほど楠野め、粋な真似をしてくれる。よし琴坂、いまからカラオケに行くぞ」 「・・・・・・は?」 何を言い出すかと思えば、内藤さんは真顔できっぱりとそう言い切った。まさか、封筒の中に入っていたのはカラオケのタダ券だったのだろうか。 「使用期限は今日までらしい」 ずいっと、彼はカラオケ屋のタダ券を構える。 「マジかよ、おい」 内藤さんの部下も、いったい何を考えているのだろうか。カラオケのタダ券など。しかも使用期限が今日までだからという理由で、今からカラオケに行こうとする、 内藤さんも内藤さんである。 エンツォ・フェラーリをかっ飛ばせば、わずか数分でつけるような近い位置にそのカラオケ屋はあった。 しかし流石ダイソン東京、カラオケ屋も上流階級仕様である。昔に春貴が仲間とつるんで行っていた様な普通のカラオケ屋とは、比較することも出来ない。 さながら高級バーのような雰囲気を醸し出す店内は、いつも通りのスーツ姿の内藤さんは良いとしても、普段着の春貴と星火にはかなり厳しいものがあった。 はっきり言って、浮いている。受付の男性もただのアルバイト店員ではなく、恐らく正規の社員だろう。品格が違う。 「それにしても、楠野め。可愛い真似をしてくれる」 タダ券を見つめながら、内藤さんは嬉しそうに呟いた。 「私と春貴の仲が険悪にならぬように、アイツなりに気配りしてくれたのだ」 俺のほうを見ながら言う内藤さん。なるほど、確かに楠野さんは俺が内藤さんにこっぴどく怒られたということを知っていて、おまけにそのことを酷く心配していた。 ということは、このタダ券は俺と内藤さんの仲を取り持とうとする楠野さんの善意の顕れというわけか。なるほど、内藤さんの部下にしては立派な人だ。 内藤さんはカウンターにタダ券を出すと、「三人だ。フリードリンクで、部屋はSクラス専用を。IDは007854-B36だ」と、テキパキと段取りを済ませた。 店員は端末にIDナンバーを入力して確認を取ると、かしこまりましたと一礼して、内藤さんを先頭に俺たちを部屋まで案内してくれた。 Sクラスというのは、恐らく身分階級のことだろう。つまり、内藤さんも政界関係の重要人物と同等の扱いというわけだ。いや、同等の扱いというより、 まさに政界関係の重要人物か。何せ、内閣直属の組織であるKOTRTを統轄しているのだから、関係が無いはずなど無い。 そうして案内された個室は――――最早カラオケのボックスという枠にはとうてい括りきれない程の、超高級感溢れる内装をしていた。 二十坪程度の広さの室内の中に、大きな赤い革張りのソファが四つ。中央に置かれたテーブルは見ただけで分かるほどのアンティーク物で、 天井にはおなじみのシャンデリア。壁には、どこぞの画家が画いた物とも知れぬ、妙な抽象画が。しかし、値は張るだろうということが雰囲気で伝わってくる。 ダイソンは、こんなのばかりなのかと、疲れた嘆息が漏れる。ここに来てまだ数日しか日が経っていないが、早くも前の生活が恋しくなってきた。 最初はこんな高級調度に囲まれた生活も悪くは無いかなと思っていたが、甘かった。情けない話だが、最近ではかなり参ってきている。 「そら、マイクだ」 ぽん、と放られたマイクを受け取る。シルバー基調のシンプルなデザインのマイクだ。何故これだけこんなに普通なのだろうか。 「純銀製だ、気を付けろよ」 前言撤回、これも他の調度と同じだ。 「でっ、内藤さん。トップバッターは誰が歌うんだ?」 「ん?知らん。それは君に任せよう」 「・・・わーった」 昔、仲間とつるんでカラオケに行ったときは基本的にジャンケンで順番を決めていたが、それは野郎だけならばの話だ。メンバーの中に女性が居た場合は、 必ずその女性にトップバッターを担って貰っていた。しかし、この場にいる女は―――――反骨精神全開、無知無茶無邪気の世間知らずな女の子。星火だけだ。 それでなくても幽閉されていた身の彼女だ、人並みに童謡を知っているかどうかも妖しい。だが、念のために聞いておく。 「・・・星火お前、何か歌知ってるか?」 「うん」 さらりと答えられてしまった。俺の気遣いは、無用だったようだ。 「いつも家でテレビ見てるから、最近の曲は全部知ってる」 それは心強いことだと思ったが、待て、そんなに軽く受け流していい発言ではない。いつも家でテレビを見ているということは端から聞いていれば、 引き篭もりの類かと思うが、彼女の場合は事情が事情だ。家を出たくても、出ることなど出来ない。迂闊に出歩けば、それこそオフルマズドの恰好の餌食だ。 いや、付き添いがあればそれも可能か。現に、内藤さんは星火の玩具を買いに、何度か外出しているようだし。 しかしその裏には、先にあった楠野さんのような護衛が影ながらについているからこそ可能だったのだろう。でなければ彼もそんな暴挙には出ないはずだ。 酷い話だ、前に居た場所が―――――幽閉されるのが嫌だったから、星火は危険からがら逃げ出して来たと言うのに、状況はまるで変わっていない。 オフルマズドの追っ手に怯え、自分一人で自由気侭に表を歩くことすら出来ない。これじゃあ、幽閉されているのと、大差が無いではないか。 もっともっと・・・頑張らなければ。星火が一日も早く、一人で外を歩けるように。何者にも怯えることも、隠れることも、心傷つくことのないように。 「さっ、琴坂春貴」 黙考に耽っていると、内藤さんは曲のコードを入力する端末を、ずいと差し出してきた。どうやら、俺に先陣をきれということらしい。 ・・・確かに、星火はすぐに歌うのは無理そうだ。何せ曲の一覧表を食い入るように見ていて、周りのことに全く気付かなくなっている。 待っていたら日が暮れそうだ。いや、もう暮れているか。 「オフは、オフだ。休むのも仕事の内というだろう?」 「・・・・・」 その言葉に、無言のまま肩を竦めて返事をした。どうやら、考えはお見通しということらしい。伊達にKOTRTというバケモノ部隊の纏め役をやっていないというわけだ。 入力の端末機を受け取ると、曲目の一覧表をぱらぱらと繰り、手ごろな当り障りの無い最近の歌謡曲を選び、親機にコードを送信した。 すると室内のスピーカーから早速曲が流れ始めた、純銀製のマイクを手に取ると、スイッチをオンにし、曲に合わせて声を紡ぎ出す。 最近の在り来たりな、インディーズ上がりのグループが出した、何の個性も意外性も技術性も無い、無秩序に解放や自由を謳った歌。 正直言って、下らない。でも、何故か嫌いになれない――――――どころか割かし好きな部類に入るこの曲。こんな何の変哲も変革も無い曲は、歌っていて落ち着く。 曲の“在り来たり”や“無個性さ”、形に表すならば何の起伏も凹凸もない卵のようにつるつるとした球のような曲―――――。 そんな曲を歌えば、その突出した個性――――――我意の無さが自分に浸透してきて、己と言う自己をコーヒーに水をいれるように薄めてくれるような気がする。 勿論、コーヒーなんかに水を混ぜたら、後はどうなるかは言うに及ばず。後悔の嵐だ。そんな戯言を頭の中でめぐらしている内に、曲は終わりと告げた。 考えに耽っていたからといって、音を外すことなどは決してしない。自慢ではないが、歌ならば仲間の中では一番の実力が有ったと言えるだろう。 しかし――――――。 「・・・・星火、歌っている人間をそんな風に凝視するな。気恥ずかしくなってくるだろうが」 「?」 歌っている最中、まるで物心ついたところの子供のように一心不乱に見つめてくれた星火に率直な意見を述べた。そこまで一点集中で見つめられてしまったら、 合う音程も合わなくなると言うものだ。それとも、俺の歌う姿がそんなに珍しかったのか。これならいっそのこと、無視されるほうがまだマシだろう。 「かっこいいね、歌ってるときのハルキ」 「ッ!?バッ、バカ野郎!面と向って、しかも真顔でそんな小恥ずかしいことを言うな!」 「・・・・なんか、怒られたよ。内藤」 「ん?ああ、そうだな・・・・。くくく、こりゃ傑作・・・・」 星火が怒鳴られたことを不思議そうに、内藤へと振り向く。当の内藤さんは、今は爆笑の渦中の人だった。・・・なるほど、そういうことか。 あれだけ曲の一覧表を凝視していた星火が、その目先を俺に変えたのは、全てこの人の差し金というワケらしい。悪趣味というか、年齢を弁えていないというか。 まあ、こちらからしてみれば甚だ迷惑以外の何物でもないだけなのだが。 「ちくしょう!次、歌え星火!」 「ええ!?まだ決まってな―――――――」 「くそったれ、そんなのいま即行で決めちまえ!検索検索!」 俺は精密機械のように正確な手さばきで、残像が見えるほどの速さで曲目一覧表を繰る。何故か、内藤さんも同じように高速で頁を繰る。 「これは・・・なんだ、琴坂」 「はい?」 内藤さんが指差したところを覗き込むと、そこには「バースデイソング:マリリンモンロー独唱ver」との表記が。 「先月にマリリンモンローの一生を描いた映画が公開されただろ、きっとそれに肖ったネタ的なもんだよ」 「そうか、なるほど。面白そうだな、ポチっとな」 可愛らしい擬音を自分の口で直接言いながら、内藤さんはその曲のコードを発信した。星火も流石にバースデイソングぐらいは知っているのか、 液晶画面に曲名が表記されても、さして動揺したり慌てたりはしなかった。なんの演奏もなく、画面にいきなり歌詞が表示された。本当に独唱させるようだ。 何とも稀有な曲だなと思いつつ、春貴は星火の歌へと耳を澄ませる。 「・・・は、ハッピバースデイ、トゥーユー・・・・ハッピバースデイ、トゥーユー。ハッピバースデイ・・・――――――」 マリリンモンローのバースデイソング通りなら、そこに“プレジデント”と入るのだろうが、画面に映し出された歌詞にはその部分が空白となっていた。 ああ、歌う人が任意で自由に名前を入れると言うわけか。なるほど、なかなか遊び心が豊富な曲目だ。 「ハッピバースデイ、ディア――――――――――ハルキ・・・・」 俺ですか。 彼女は、わざわざ俺に振り向いてから、そして十分に間を溜めてから。まるで紡ぎ出すように、花の雫を手に取るように、白い陶磁器を撫でるように、 静かに繊細かつ厳かに、俺の名を、詠んだ。 恥ずかしさとか、照れくささとか、そんなものは一切感じなかった。ただ胸中に、湖畔の水面の上をかける涼風のように――――――愛しさが、広がった。 そうだ、だから俺は戦えるんだ。彼女の存在が――――――こうやって俺を癒してくれるから、奮い立たせてくれるから、愛してくれるから・・・。 何度でも再確認する。俺は、俺の世界を守る為に戦うのだと・・・・・。 「・・・誕生日、まだ先なんだけどな―――――」 と言いそうになったが、勿論そんな野暮な言葉は吐かなかった。 そのあと俺は古きよきデビュー当時のサザンの曲を総なめにし、内藤さんはガンダーラや宇宙のファンタジー、果ては関白宣言やピクミンの愛の歌まで。 星火はバースデイソング以外は、内藤さんとのカントリーロードのデュエットだけだった。 だけど状況という奴は、俺がこんな風に馬鹿やってる時にも、着実に動いていた。 取り返しがつかないほど、絶望的に進んでいたんだ。 そして俺はそのことを、大切な人の死を以って知ることになった――――――――――。
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