もう、いったいどれほどの時間が経ったのだろうか。 時間の感覚が、身体の外へと放り出され。 思考は、もうろくに動いていない。 目元の涙の痕は、今は乾いていた。 だがそれも、定期的に再び流れ始める涙に、洗い流され、また新たな痕を作る。 それを、昨夜から何十回と繰り返しては、声を殺す。 遮光カーテンに深く閉ざされた窓からは光一つさせ入ってこない。 そんな中で、ただ悔いる。 本当は、あんな事を言いたかったんじゃない・・・・。 英翔には、もっと別の言葉を告げたかった。 私も結ヱも、ずっと前から気付いていた。 英翔の様子が、おかしい事に。 あの東京の一件以来、彼は何処か挙動が不審で、それに、その顔色は日に日に白くなっていていたのだ。 何処か患っているのかと、二人で心配した。 そしてそれは、最悪の形で現実の物となった。 癌。 全身に、もう、手の施しようが無い。彼はそう言った。 もうすぐ、死ぬであろうとも。言った。 本音を言おう、私はあの時―――――――――。 怖く、なった・・・・。 たまらなく、怖ろしくなった。 人の死と言うものを、ありありと目の前にして。 彼が、もうすぐ死んでしまうという、その喪失を想像して。 怖かった。 考え、られない。 彼が、いなくなる。私の前から、居なくなってしまう。手の届かない、ずっと遠くへ・・・・・。 考えるだけで、気が触れそうだった。 大好きな彼に、二度と会えなくなるなんて。 また、涙が溢れ出してくる。 そうだ、怖かった。でも、彼を愛している気持ちに変わりは無い。 なのに、自分はあの時、差し伸べられた彼の手を撥ね退けた。 逃げ、出した・・・。 嫌われてしまった。 「っ!?」 突然、霧恵は身を強張らせた。 それは、部屋の扉がノックされたからだ。 「霧恵さん?」 「・・・・!?」 扉の向こうから聞こえた声に、驚愕した。 英翔だ。 何故。 勇気を出して、自分の死期が近いことを告げた彼を、その言葉を、私は振り払ったのだ。 嫌悪されても、当然。いや、むしろ自然と言ったほうがいいだろう。 なのに、彼は何故まだ私に、あんなにも優しげな声で、話しかけてくれるのか。 耳を塞いでしまいたかった。 いや、そんなものでは足りない。鼓膜を引き千切って、何も聞こえないようにしたいぐらいだった。 「朝ご飯、今日は結ヱさんが作ってくれたんですよ。ここに、お盆に入れて置いておくんで、食べてくださいね・・・」 ことり、と盆が置かれる音がした。 しばし沈黙が流れる。 英翔も、どう話しかければ良いのか分からないのだろう。 「ふ、う・・・・・・」 声を、抑え切れなかった。 嗚咽が、喉を引き裂かんばかりに押し上げ、微かに漏れ出す。 昨夜流したよりも多くの涙が、溢れ出てきた。 嬉しかったし、悲しかった。 彼は、赦してくれているのだろう。 あのような、惨い仕打ちを。目を伏せてくれたのだ。 だから、私はまだ彼に嫌われていない。 それが泣き出すほど嬉しく。 あの時、彼と、その死を拒んだ自分が、たまらなく憎く、悲しかった。 情けなかった。 扉の前から、英翔が走り去るのが、足音で分かった。 踏み鳴らす様に、廊下を駆けていった。 きっと、沈黙が耐えがたかったのだろうと、霧恵は漠然と思った。 自分の嗚咽が彼に聞こえていたとは、考えもしなかった。 こっそりと、錠を外すと、部屋の扉を開けて廊下の様子を窺った。 そこには、英翔の言ったとおりに、朝食の載った盆が置いてあった。 まだ、微かに湯気が立っている。手をかざすと、ほんのりと暖かさが感じられた。 添えられている箸に手を伸ばす。 「・・・・・・・・・いただきます」 霧恵は朝食を、廊下に置かれ、盆の上に載せたまま、食し始めた。 部屋と廊下の境目に座り込み、目の前に並んだ料理を少しずつ、咀嚼する。 だが、どれも味はしなかった。 ご飯も。 味噌汁も。 ほうれん草の御浸しも。 沢庵も。 何一つ、味がしなかった。 正確にいうならば、感じられなかった。 そういえば昔テレビで、ご飯というものは、大勢で楽しくとった方が美味しく、また栄養吸収が良い、ということを聞いた。 今は、それを深く実感している。 美味しくない、というより味を感じることが出来ない。 胃に入っても、すぐに逆流しそうな、何とも言いがたい不快感が下腹部に溜まる。 「ぐっ・・・・う・・・!」 たまらず、洗面所に直行する。 洗面所は一階にしかなく、霧恵の部屋は二階にあるので、わざわざ階段を下りていく必要があった。 その間、霧恵は口にまで逆流してきた物を抑えるのに必死だった。 やっとの思い出駆け込むと、洗面所に併設されているトイレの便器に顔を突っ込んだ。 そして、遠慮なく口まで戻ってきたものを吐き出す。 「う゛・・・・があ゛・・・・・・」 胃の内容物が所狭しと咽喉を圧迫して流れ出、胃酸がその粘膜を焼く。 まるで、内臓まで吐き出してしまうのではないかと不安になるほど苦しい。 なら、このまま何もかも吐き出そう。 下らないものは、全て。 「はあっ・・・・はあっ・・・・・・・・・・・あれ?」 嘔吐の疲れに息づきながら、霧恵は目を細めた。 便器にもたれかかったまま、それを観察する。 それは、黒い染みだった。 ちょうど便器の陰になっているので、こんな風にしゃがまなければ見えない位置だ。 その染みに、霧恵はそっと手を伸ばした。 もうすっかり乾ききっているソレは、表面がカサカサだ。その感触が、嫌に手に残る。 「・・・・・・・・血痕?」 そう判断した。 確かに少し薄暗く、分かり辛いが、それは血が凝り固まったものだった。 しかし、何故こんな場所に。 「・・・・・あッ」 思い出した。錬精術を教えてもらった、あの日。 英翔が何の前触れも無く、唐突に、この洗面所に駆け込んだことを・・・・。 たぶんあの時彼は、吐血していたのだ。 それも、尋常ではない量を。 きっと彼も、今の霧恵のように便器に寄り掛かるようにしゃがみ込んで、吐血したのだろう。 それはきっと、文字通り病的な量で、便器の中には収まり切らず、ここまで飛散したのだ。 こんな場所にまで及ぶほどの吐血・・・。 彼の病気は、自分が考えている以上に酷い。 「英翔さんっ!!」 身体は、思うより早く行動した。 弾けるように立ち上がると、倒れこむような危うさと勢いで駆け出した。 店の引き戸を荒々しく開け放つと、靴を履くことも忘れて飛び出す。 そして、彼が何処に居るのかも分かっていないのに、ただひたすらに走った。 今までの人生で、恐らく一番早いであろう速度で、駆け抜ける。 足の裏はアスファルトの鋭い起伏に切れ、血が吹きだす。 だが、痛みに気づくことは無い。それほど一心不乱に、霧恵は走っていたのだ。 痛い。 肺や心臓が、全力を超えた疾走に絶叫し、血が噴出しそうなほどに、軋むように痛む。 だが霧恵が感じている痛みは、そんなものではない。 心の、痛み。 まるで、傷口に爪を突きたて、穿り返すような。痛く、紅く、血を滴らせ、癒えはしない傷痕。 それが、いま心に穿たれている。 自分にも、英翔にも。 気づくと、足は止まっていた。 それもそうだ。あれだけ限界を超えて酷使し続けたのだ、鉛のようになって、もう一分も動かないだろう。 走りつかれて初めて、肉体的な痛みが、じわじわと神経を蝕み始めた。 身体は火の中にいるように熱いのに、痛みに頭は冷たい。咽喉は枯れ、渇きに潤いを求め、救難信号を発している。 自棄のように無謀に走り過ぎたと、今さら後悔し始める。 「ここは・・・・・・・公園?」 見ると、そこはいつも通学の途中に見る公園だった。 ここら一帯で唯一の公園で、昼間はいつも近所のお子様方で賑わっている。だが今日はこんな曇天の所為か、公園の中からは人気が感じられない。 そういえば、この公園は英翔が買い物に行く時、たまに近道に使っているということを、本人から聞いた。 ・・・ここで待っていれば、もしかしたら買い物帰りの英翔にでも会えるかもしれない。 近道をするために公園を通っている彼は元より、公園内にあるベンチに座って呆けて待っていても、公園前を通過する彼を掴まえることは十二分に可能だ。 それに、こんなところでベンチに座って無為に時を過ごし、少し考えるのも気分転換に良いだろう。 そう結論し、霧恵は公園の砂利へと足を踏み入れる。 瞬間、時が、止まった―――――――。 ショックの余り、自分は夢幻を見ているのかと、思った。現実にそうだったら、それはどれだけ楽だっただろうか。 自分の目が、耳が・・・・・五感全てが、その瞬間、信じられなくなった。 目の前にある、光景に。 世界が彩を亡くした――――――。 英翔が、見知らぬ少女と口づけを交わしていた。 それも、結ヱと同世代ぐらいの、幼い少女。 だが、今の霧恵にとって、歳など関係なかった。 英翔が、見知らぬ異性と口づけしているという事実こそが、問題だった。 胸が締め付けられるというのは、きっとこういう感覚なのだろう。 呼吸が、上手に出来ない。まるで生まれたての赤子のように、不規則に胸を上下させる。 肺にはろくに酸素が供給されていないはずなのに、胸と咽喉の奥が、焼け付くように熱かった。 心が翳るのが、自分でも分かった。 一切の光を断つどす黒い曇天が、心の中に群雲の様に拡がって行く。 「えいしょう・・・さん・・・・・・・?」 搾り出された声は、蚊の羽音のように儚く微か。 だがそれは静寂し、全てが止まったこの場所に、どんな音より大きく響き渡った。 それは当然の如く、英翔の耳にも届いた。 声が耳に入った途端、英翔は重ねられていた唇を無理矢理引き剥がすと、交わしていた少女を突き放すように振り向いた。 霧恵の、方へと。 彼の目は、公園の入り口に佇む霧恵の姿を、確かに映していた。 すると彼は、ベンチから立ち上がると、少し頼り無い足取りで霧恵へと向かい、歩み寄ってきた。 英翔は、いつもと変わらなかった。 整端だが、性格が反映された柔和な顔。 「霧恵さん・・・部屋から、出て来てくれたんですね―――――」 「英翔さん。何なんですか?」 純粋に、霧恵が再び自分に姿を見せてくれたことを喜ぶ英翔だったが、霧恵は違った。 目線を合わせまいと、顔を伏せた。 今は、あの整った顔立ちも、優しい目元も、見たくない。 でなかれば、私は彼を―――――。 「すいません、本当に。唐突にあんなことを言って・・・・」 「黙ってください」 「え・・・・・」 いつもとは違う、粗暴な口調に、英翔は戸惑った。 いや、口調だけではない。 彼女から発せられる、その噴出すような憎悪に、当惑した。 「そんな口で、私に話し掛けないで下さい―――――!」 「ッ!?」 愕然とした表情で、英翔は己の口元に手を触れた。 「霧恵さん、話を聞いてください、これは――――――っ」 「黙ってください!!」 それは、揺るがすような大声だった。いや、叫びと言っても過言ではないかもしれない。 そのたった一言に、英翔は言葉を無くす。 「大丈夫ですよ、英翔さん、私はあなたを傷付けるようなことは絶対にしません。でも――――――」 「!?まさか―――ッ!」 「アイツだけは、殺しますけど・・・・」 風が巻き起こった。 公園に敷き詰められた砂利を抉るように吹き飛ばし、舞い上げられた砂粒は肌を叩く。 それは、霧恵から発せられる内気が巻き起こす暴風だった。 瞬間的に、公園全体が台風の只中のような様相へと変わる。 その様を、ルシータはベンチに腰掛けながら、悠々と観賞していた。 口元には、僅かに笑みまで浮かんでいる。 それは言うまでもなく、霧恵の怒りを増長した。 「駄目だ、霧恵さ――――――――っが、あああ!?」 慌てて制止に入った英翔だが、それは阻まれた。 何かに、突如として身体を締め上げられる。 「こ、これは――――――!?」 自分を絡めとった『何か』を見て、英翔は驚愕した。 それが、『翼』だったからだ。 何時の間にか霧恵の背中には、二枚の翼が冠されていた。だが、英翔は己が目を疑った。 それは――――――。 純白などとは程遠い、抜けるような漆黒。 一切の光を照り返さない、まるで穿たれた穴のような黒を湛えた、翼だった。 英翔は、思わず背筋が震えるのを堪えることが出来なかった。 それほどに、この『翼』が禍々しかったからだ。 そうだ、思い返せば、あの“黒い天使”に生えていた『翼』でさえ、 白、だった―――――。 負の感情によって、零れ落ち、黒く変色した内気により形作られたあの“黒い天使”でさえ、冠された『翼』は純白だった。 だが、今彼女が背負っているこの翼はどうだろうか・・・。 極負の感情によって噴出した、漆黒の内気が凝り固まった、天の使いの象徴。 それほどの憎悪が、いま彼女の心を占めているのだ。 「英翔さんは、私の“手”の中で大人しくしていてくださいね・・・」 『翼』で締め上げた英翔に、霧恵は優しく微笑んだ。 英翔は、知らなかった。 霧恵の、東京での戦いを・・・・。 あの時彼女は、その背に初めて『翼』を具現した。そして、半ば勘で、何十・何百もの『翼』を操っていたのだ。 だが、多すぎる『翼』はそれだけ内気の拡散を意味する。 しかし今の霧恵の背にある漆黒の『翼』はたったの二つ。それも、極負の感情と、明確な殺意に染まった、内気。 加えて霧恵はいま、“最適化”も修得しているのだ。 これが意味するのは、絶望的な結果。 東京の時、霧恵は最適化が使えなかったため、具現した『翼』をそのまま使っていた。 『翼』自体は、内気が質量をもつほどに押し固められた超高密度体なので、外気の影響が通常の錬精術に比べて何割か少ない。 だが、消耗することに変わりはない。 例えるなら、通常の錬精術は、水を水の中に投げ入れる行為だ。水を水に投げ入れても、そのまま衝撃は直ぐに相殺し、混ざり合うだけ。 だが『翼』は、水の中に氷を投げ込むのと同じ行為だ。衝撃は直ぐになくなることはなく、また混ざり合うこともない。 しかし水の温度で、徐々に溶けはする。これが、外気との接触による内気の消耗。 最適化とは、投げ入れた氷と、それを受け止める水との間に、空気の層を設けてやることなのだ。 そうすれば、投げ入れられた氷―――即ち『翼』―――は、溶ける速度が格段に遅くなる。 つまり、消耗が皆無といって良いほどに無いのだ。 最適化を憶え、憎悪に駆り立てられ極負の内気を振り撒く今の霧恵は――――――――格が違う。 あの東京での戦いなど、ただの戯れというほどだ。 漆黒の翼から、溢れ出た内気が、黒い霧となって爛れ落ちる。 それはまるで彼女の心の中を写す、鏡のようだ。 荒れ狂う憎しみと怒りに我を失い、ただ力の限りに全てを薙ぎ払う。 「はああああああああああ!!」 怒号と共に、英翔を掴んでいない方の『翼』が、疾駆した。 黒い大蛇のように唸り、疾走するそれは、瞬く間にルシータへと肉薄する。 荒ぶ憎しみが、薙ぐように激突した。 ルシータを、座っていたベンチごと吹き飛ばす。圧倒的破壊力の前に、木片が木の葉のように舞い散る。 「逃げたか・・・!」 霧恵は舌打ちすると、すぐさま周囲に目を光らせる。 間一髪のところで『翼』の一撃を避け、たたらを踏んでいるルシータの姿を見つける。 「今度は、避け切れる!?」 『翼』から、闇のような内気が音をたてて噴出した。猛毒ともいえる、濃密な濃度の内気は、生物が触れれば霊子レベルで細胞を破壊するだろう。 常に内気で己の周囲をコーティングしている英翔などの別脈種は、ある程度耐えられるが、全く無防備な普通の人間には致死の脅威だ。 だが、そんな猛毒の霧の中でも、ルシータは平然と立っていた。 普通なら、すぐさま意識が無くなり、生きながら腐食して死んでいるだろう。 「何だ、一体!?」 『翼』が、変形していた。 黒色の霧を噴出しながら、『翼』は翼ならざるものへと形を変えていっていたのだ。 その姿は、そっくりだった。 あの、“黒い天使”の蠢く姿に・・・・。 ばきり。 ごきり。 と、まるで何か大きな動物でもすり潰しているかのような、嫌な音が鼓膜を震わせる。 『翼』は、その形を翼から“弓”へとコンバートした。 黒い無数の羽根の集まりで形成された、霧恵の身の丈よりの大きな弧と弦を持った、特大の弓。 真逆。最適化を憶えただけで、彼女のポテンシャルがここまで飛躍するとは。全く予想も出来なかった。 『翼』を具現するだけではなく、その形までも意のままに操る。 英翔は、錬精術の実力は霧恵よりも結ヱの方が上だと思っていた。霧恵が何も術を使えないのに対して、結ヱは習得が困難とされる治癒系の錬精術を修めている。 それが、何よりの事実だと、思い込んでいた。 だが、それは今、この瞬間。霧恵自身によって、いともかんたんに覆されたのだ。 彼女は、天才と言って良いだろう。 いや、最早そんな枠には納まりきらない。 生まれながらにして、本能のように錬精術を知っているとしか、考えられないような卓越さ。 どういうことだ。 彼女には、未だ私たちが知らない秘密でもあるのだろうか。 「装填」 漆黒の弓に、同じく漆黒の羽根達で編まれた“矢”が添えられた。 それは見えざる手に操られているかのように、ぎりぎりと勝手に引き絞られていく。 弓が壊れるのではないか、という極限にまで引ききる。 「潰れろ!」 矢が、放たれた。 翼の弓の弦にどれほどの強度があったのかは知らないが、放された弓は瞬時に音速の壁を超えて飛翔した。 その発射音は、まるで戦車か艦砲射撃かと聞き紛うほどの、轟音だ。 狙いは逸れず違わず。 一直線に、ルシータへと迫る。 音速を超え、軽く一メートルを超える全長を有した矢が、一秒の経過も赦さず襲い掛かる。 それが直撃する、まさにその瞬間。 ルシータは、嘲笑した。 その様は、矢を放った霧恵の目に、何故か。 嫌というほどに、焼きついた。 まるで今自分に襲い来る矢が、なんの脅威でもないということを霧恵に強調するかのように・・・。 鈴の、音が聞こえた。 りん。 そんなかん高い、金属とも硝子ともつかない繊細な音と共に。 矢が、消失した。 まるで、初めから硝子で出来ていたかのように。 ルシータを破壊することなく、砕け散った。内気の残照が、ぱらぱらと降り注いでいる。 「・・・・・!?」 霧恵は肝を潰されたような顔をしていたが、信じ難いと一番思っていたのは、英翔だった。 だが、認めざるを得ない。 彼女が、ルシータが。 本当に、人間ではないのだと。別脈種でも、人間でもない。得たいの知れない、バケモノ。 「無駄よ、初塚 霧恵・・・」 「!? どうして私の名前――――」 「お前たち別脈種では、私たち“超常種”は倒せない」 「“超常種”・・・?」 英翔は、深く首を傾げたが、霧恵はそんなことはさほど気に留めなかった。 コイツは、敵だ。 それ以上でも、それ以下でもない。ただ対峙し、闘い、壊すのみ。それ以外の何かは一切不要。 「例えお前が何であろうと、私には関係な――――――」 言葉は、最後まで続くことは無かった。 霧恵は言葉を失ったかと思うと、次の瞬間。 立ちくらむように、倒れ伏す。 彼女の意識が途絶えたことにより、『翼』が消失した。 英翔は束縛から解放されるやいなや、いきなり倒れた霧恵へとすぐさま駆け寄る。 「霧恵さん!?どうしたんですか!」 「大丈夫じゃよ、英翔」 「ご、御老公っ!」 見ると、それは紛れも無く哉原の御老公だった。 何時の間にここまでたどり着き。 何時の間に、霧恵を気絶させたのだろうか。 その一連の動作を、英翔は全く知覚できなかった。いくらこの体が弱体化しているとはいえ、まったく気づくことが出来なかった。 これが、僧会でもKOTRTにおいてもその頂点を極めた、哉原諺該、その実力だ。 「お前さんを助け出す意味も含めて、お嬢ちゃんには黙っておいてもらった。良いかな?」 「はい、事が事ですから構いません。あと、山田先生は?」 「奴はいま妹の方の無事を確保しに行っとる。それじゃ、一旦引くぞい」 「え?」 瞬間、景色が変わった。 ついさっきまで公園の中に自分達はいたはずなのに。瞬きするより速い間に。 英翔たちは、空の上にいた。 耳元には笛のように風がなり、その勢いは強い。 いったい、何時の間に自分は空へ移動したのか。頭が、直ぐには理解できなかった。 「英翔!」 「え、あ、はい御老公!」 「何をぼさっとしておる、地に着くぞ、身を柔らにしろ!」 見れば、御老公が自分の首根っこを掴んで、空中を跳んでいた。反対の手には、霧恵が抱えられている。 あの一瞬のうちに、御老公は自分と霧恵を掴むと、常人ならざる力で跳躍したのだ。 その手際と俊敏さには、舌を巻かざるを得ない。 ほどなくして、三人は重力に従って地に落りた。 御老公は、何十メートルの跳躍の衝撃など皆無といった風に着地し、抱えられた霧恵も穏やかに降り立つ。 だが落下の途中で手を放された英翔は、半ば激突するように着地した。 その衝撃に、アスファルトが数センチほど陥没する。 そこは、all things 前だった。 公園から店前までの距離は、大雑把に考えても五百メートル以上はある。それを、たった一回の跳躍で跳びきった。 人間でありながら人間であることを捨てた者、と言っても過言ではない。 別脈種を狩るために、その一生涯を練磨と殺戮に投じる者達。その怨念と狂気に育まれた術は、伊達ではない。 「御老公、なぜ退いたのですか?」 「・・・英翔、お主には分らんかったのか」 「何がですか」 「あのルシータとかいう小娘が、霧恵の嬢ちゃんの攻撃を相殺したとき・・・儂には何も感じられなんだ」 「どういう意味ですか・・・」 「儂ら奇術師は、錬精術の発動を、場の空気の変化によって読み取る。別脈種は知らんじゃろうが、最適化する時、 その範囲内の空気は澱んだり透き通ったりと変化するんじゃ。だが、あの小娘からはなんの空気の変化も読み取れんかった。 つまり、彼奴は別脈種でもなければ人間でもない」 別脈種でも、人間でも無いモノ。 思い返してもみよう、確かにそれは、現実として目の前に晒されていた。 あの極大の内気で編まれた矢を、易々と退いたのだ。 それは彼女が、別脈種でも人間でもない、得体の知れないバケモノという動かない証拠。 だが、頭ではそう思っていても、心は違う。違うと叫ぶ。 彼女が、あの時、倒れ臥した私を優しく看てくれた彼女が・・・。 そんな存在であるはずが無いと、心が慟哭する。 しかし、事実が変わることなど無い。あれは現実で、確かにこの目で見た。 今自分達の陥りつつある状況も知らず、英翔はただ自問した。
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