朝に、なった。 今日は曇りで、太陽が隠された空は薄暗い。 だがそれでも日常には何の支障もなく、いつも通り。 何の変化もない、常温の普遍。 英翔は、そう感じていた。 今朝は、妙に感慨深くなっているなと、他人事のように思う。 それはきっと、昨日のショックが未だ殆ど抜け切らないからだろう。 昨日の夜から、霧恵は一歩も部屋の外へ出ることは無かった。 店先に置いていある簡易の三脚椅子に座りながら英翔は、朝食も取る事無く空を見上げていた。 しかし視界に広がるのは濁ったモノトーンだけで、何の面白みも無い。 それに、今朝は鳥さえ飛んでいない。 確かにこんな陰鬱な空模様では、鳥も飛ぶ気を失くす。巣に腰を据えて、休みたいものだ。 英翔は早朝から店先のこの場所に座っているが、浮かんでくるのはそんな下らないことばかりだった。 昨夜のことなどの、重要なことについても思考を巡らせようとするのだが、その度にノイズが混じる。 すぐに、別のことへ逸らされてしまうのだ。 きっと、考えたくないのだろう。 もう拒絶されたんだ。 全て終った、これでいいだろう。そう諦観する自分がいる。 けれど、昨日の結ヱの言葉が、耳の奥底に反響して離れない。 『お姉ちゃんを、嫌わないで――――――――!』 別に、嫌うつもりは毛頭無い。 だけれども、ここで全てを投げ出してしまえば、結ヱの言葉を裏切るようでならなかった。 だから朝から霧恵のことが頭に浮かんでは、すぐに沈んで、別の事が浮かんでくる。 それを、ずっと繰り返していた。 「英翔さん・・・・ここにいたんだ」 「え?」 その声に振り向くと、そこにはランドセルを背負った結ヱが立っていた。 何時の間にか、時刻は七時半を廻ろうとしていた。 朝早くから長く考え込んでいるな、と自分でも思ったが、まさかここまで長かったとは思わなかった。 それに、今朝は朝食をまだ作っていない。 「す、すいません、結ヱさん!今から朝ご飯を―――――――!」 「それならもう済ませました。ついでに英翔さんとお姉ちゃんの分も作ってあるので、良かったら食べてといてください」 「あ、はい。わかりました・・・」 「それじゃ、いってきます」 「・・・・いってらっしゃい・・・・」 唖然としながら、英翔は小学生ならざる小学生を見送った。 こういうところは、本当に霧恵とは似ていない。 上の姉妹が頼りないと、下の姉妹はしっかり者になるという話を昔聞いたことがあるが、あながち嘘でも無さそうだ。 「朝ご飯、作ってくれたのか」 そして、自分の不甲斐なさを呟いた。 「霧恵さん?」 昨日の夜から、もうすっかり開かれていない扉をノックした。 だがその向こう側からは、返事が返ってくるはずも無かった。 「朝ご飯、今日は結ヱさんが作ってくれたんですよ。ここに、お盆に入れて置いておくんで、食べてくださいね・・・」 まるで、扉の木目に向って話し掛けているようで、虚しかった。 返事など無い。それに、この結ヱの作ったご飯を食べてくれるかどうかさえ、分からない。 そのまま、他に何かかける言葉も見つけられずに、英翔は扉の前から去った。 それは、自分が声をかける度に・・・・・・・。 部屋の中で、彼女がすすり泣く声が聞こえたような気がしたからだ。 走った。 霧恵の部屋の前から立ち去ると、ただ無言で駆け出した。 顔を伏せ、一直線に突っ走った。 自分が、行ける、生ける、そんな場所など無いように思えた。 「っはあっはあ、っはあ・・・・・・・」 たった数キロを全力疾走しただけで、瞬く間に息が上がりきってしまった。 体力が、劇的に落ちている。 東京での作戦の時は、数十キロをあの蒸すようなスーツを着たままでも、何とか持久力はキープできた。 だが今は、少し肌寒いこの気候でもすぐに身体が熱くなり、足の筋肉が虚脱する。 もう、長くは無い・・・・・。 ここまで体力が乏しくなったという事は、それだけこの身体が蝕まれているということでもある。 癌と抗力が均衡を保っているように思えたが、それは水面下で着実に侵攻している。 「・・・・・・・・・・・・・っここは・・・」 やっとのことで息を整え、面を上げると、唖然とした。 自分が、何時の間にかまた、あの公園の前まで来ていたからだ。 まさか無意識のうちにここまで来てしまうとは、自分はほとほと落ちぶれたものだと悲嘆する。 「・・・何時でも、会える――――――」 最初の出会ったあの時、彼女が去り際に残した言葉。確かめるように、今一度自分で呟く。 今でも、会えるのだろうか。 前回会った時は、彼女は何の口合わせもしていないのに、この公園の前で、英翔の目の前に現れた。 「・・・・・」 無言のまま、公園の中へと足を踏み入れる。 初めて彼女と出会った時のように、人影は見当たらなかった。何時の間にこの公園は、閑古鳥が鳴くようになったのだろうか。 砂利の上を、足を引き摺るように歩いた。 そして、長々と時間をかけてベンチまで辿り着く。 深いため息と共に、ゆっくりとベンチに腰を下ろした。 背もたれに豪快に寄りかかると、そのまま空を仰いだ。 それは朝から変わらず、灰色だった。暗くは無いが、明るくも無い。澱んだ色。 中途半端に混濁した泥の様に、それは眼球いっぱいに広がっている。 白濁から背けるように、目を閉じた。 ゆっくりと、目蓋を下ろす。 頬を風が撫でていき、耳に届く木々の音は乾燥していた。もうすぐ、冬が来る。 それを実感させるかのように、肌寒い空気が身体を包む。 こんな風に季節の変わり目を感じることも、きっとこれが最後になるだろう。 たとえ生きていたとしても、正常な自分で迎えられる自信が無い。 意外と均衡を保っていると思っていた体が、これほどまでに衰えていたのだ。 先は、長く無い。 「・・・・また、泣いているの?」 彼女の、声だ。 高く響くその声音が、彼女がまだ年端も行かないほどの齢であることを感じさせる。 だが、英翔は相変わらず目を閉じて空を仰いだままだった。 「ああ、そうだよ」 「なぜ、泣いているの?」 「私は、掛け替えの無い人を失った・・・」 「・・・・告げたの?貴方の思いを、真実を」 「そうだよ。でも、これで良かったんだと思う。死なんてものに、他人を付き合わせるものじゃない」 「・・・・・」 ベンチが、ぎしり、と軋む音がする。 その音で、英翔はルシータが隣り座ったことを知る。 そこでようやく英翔は、目を開いた。再び、視界に雲海に閉ざされた空が映る。 「エイショー、私の話・・・聞いてくれる?」 「えっ・・・・・」 その言葉に驚いた英翔は、慌ててルシータに振り向いた。 「その、私の悩み・・・というより、考え。いい、話しても?」 「は、はい。君には随分と助言をしてもらったんですから、それぐらい気にせず話してください」 「そう・・・?」 遠慮がちに、ルシータは英翔に向き直った。 いや、それは正確に言うならば遠慮がち――――――というよりも、何かを躊躇っているようだった。 その姿が、何となく。 昨日、霧恵に自分の死期を告げた己の姿と重なって見えた。 「私はね、エイショーが思っているほど強い人間じゃないのよ。いいえ、きっと、物凄く脆い、誰よりも・・・・」 「そんな自分を責める言い方・・・良くないと思いますよ。現に、君は私の迷いを、まるで見透かすように見抜いて、導いてくれた。  こんなの、人として強くなければ出来ませんよ」 「いいえ、それは違うの・・・・」 「なにが違うんですか」 彼女らしくない、と思った。 自分の弱気が、まさか彼女にまで伝染してしまったのだろうか。いや、自分の中での彼女は、そんな脆い人ではない。 年不相応な、如何な迷いも見透かす、あの卓越した活目。自分より年下であるということが、信じられなくなる。 それほどの彼女に、一体どんな弱さがあろうというのか。 「あの助言は、私の言葉ではないの・・・・・」 「え?」 何を、言っているのだろうか。 開いた口が塞がらない、といった状態だ。 彼女は、自分自身が何と言ったか分かっているのだろうか。 自分の言葉ではない。 どういう意味か、全く意図がつかめない。 「私が告げた言葉は、全て貴方の心の中にあったものよ」 「私の、心の中・・・?何を言って―――――――」 「ごめんなさい。ずっと、覗いていたの、貴方のナカを。あの時、貴方は確かに迷っていたけれど、無意識の内にもう答えは自分自身で導き出していたのよ。  ただ、それを誰かに背中を押して貰いたかっただけ。たった、それだけの事よ。私はそれを、ほんの少し手伝っただけ・・・」 「心の中を、覗く・・・。どういうことですか、それは」 英翔は、相変わらず力の抜けた表情で彼女に問い掛けるだけだった。 だがそんな自分に、ルシータは視線を逸らさず真っ直ぐに見つめ返してくる。 「私は、貴方と同じ・・・・・人間じゃ、ないの」 「嘘だ」 すかさず、言葉を返した。 そんな筈は無い。彼女が自分と同じ、人間ではない者・・・・それは即ち、彼女も別脈種であるという意味だ。 だが、それは有り得ない。 彼女からは、どんな別脈種からでも絶対に発せられる、内気の圧力が、感じられなかった。 内気の圧力。 それは、変換式を持つ者が、必ず発する、言わば内気の気配のようなものである。 これはただの圧力なので、外気に阻まれることも無く。絶対に隠すことの出来ない、別脈種特有の識別法なのだ。 それが彼女からは、全く感じられなかった。 「そんなはずはない・・・君は、人間だ・・・・!」 「いいえ、違うわ。私は人間じゃない。貴方達に、最も近い存在よ―――――」 「・・・・っ!?」 ルシータはベンチに膝立ちしたかと思うと、その顔を極限まで英翔に近づけた。 思わず後ず去ろうとした英翔だが、その頬を彼女の小さな手が包み込み、離さない。 一歩間違えてしまえば、鼻先があたってしまいそうな距離。 「エイショー。私はあの日、貴方に救われたの・・・・。私と貴方が、この公園で初めて出会った、あの日・・・」 「ちょ、ちょっと・・・!」 あまりに近づいた、互いの距離に当惑する英翔に構わず、ルシータは続ける。 その度に、彼女のか細い息が、英翔の鼻先をくすぐった。 「あの時、昏倒した貴方に手を握られた時・・・私は、救われた気がした。初めて、誰かに手を握られた。誰かに、必要とされたと、心から思えた・・・。  貴方からしてみれば、記憶にもないし、ほんの些細なことだろうけど、私にはたったそれだけで、心の中に溜まっていた汚濁が洗い流されたの。  だから、私は思ったのよ。貴方の中に、私という存在を留めておいてもらいたい、少しでいい、片隅に残っていれば、それで良いと思ってたの・・・」 「・・・ルシータ、き、君は何を―――――っ」 「でも、それだけじゃ駄目なの・・・!ただ、貴方の心の隅に置いてもらうだけじゃ、もう耐えられないの!ただそれだけで終わるなんて、嫌なの!  私にとって貴方が必要なように、貴方にとっても私が必要であって欲しいの、求めて欲しいの。私なら、貴方の求めるモノには何だって答えられる、  最後まで、貴方の傍に寄り添っていてあげられる・・・・・」 「――――――――ッ!?」 その言葉に、英翔は息を呑んだ。 最後まで、共に居てくれる・・・・。それは、今の彼にとってそれはどれだけ甘美で、狂おしいほど手を伸ばしたい言葉だったか。 事切れるその時、看取ってくれる誰か・・・。 決して、虚しくも寂しくもない、最後。 「・・・・・・駄目だ、ごめんよ」 「・・・・・・何故、エイショー・・・・?」 予期せぬ答えに、ルシータは唖然とした。 「どうして、貴方は恐れていたはずよ、一人で死んでいくのが、消えてしまうその瞬間が!」 「やめてくれ!」 「なのに、どうして!?何故断るの?貴方は、最後まで寄り添ってくれる誰かを、ずっと探していたはずよ・・・・!」 「ああ、そうだ。私はずっと最後まで寄り添ってくれる誰かを探していた。けど、君の言うとおり、私はもうずっと前から答えを見つけていたんだ・・・」 そうだ、答えはずっと前から、全て揃っていた。 あの東京での戦いの時・・・・・・。 霧恵をその腕に抱き締めた、その瞬間から――――――――――――。 全て、心の中で決まったんだ。 だけどそれに気づかず、背中を押してくれる誰かをずっと待っていたんだ。甘ったれていたんだ。 勇気のない自分は、臆していたんだ。全てを決めたにも関わらず。 「・・・・・分からないわ、エイショー、どうして?」 「君に、もし本当に私の心の中が見えるのなら、分かるはずだ・・・・」 「まさか・・・・・・・・あ、あの女は貴方を拒絶したのよ!?死を目の前にした貴方を、見捨てて逃げ出したのよ?」 「ああ、そうかもしれない。でも、それでも、分かっていても、動き出しモノは、もうどうやっても止められないんだ・・・!」 「おかしいよ、そんなの。エイショー、間違ってるよ・・・・」 「・・・・・ごめん――――――」 静かに、目を閉じた。 頬を掴んだルシータの手が、震えている。 当たり前だ。いくら彼女が、落ち着いて大人のように振舞っていても、まだ子供なのだ。 自分はそれを、無理矢理突き放したも同然だ――――――。 「いや・・・」 「ルシータ・・・」 「嫌よ、そんなの・・・・絶対に嫌。だって、エイショーが居なくなったら、私には何が残るの?何を夢見て眠れば良いの?どうやって明日へ行くの?  何を見て、向って・・・・歩いていけば良いの?お願い・・・・私には、最初から貴方以外に何も無いの――――――」 返す言葉が、見つからない。 こんな幼い子供が、悲痛に訴えかけている。泣き叫びながら、引き止めている。 私は、残酷だ。 目の前には、こんな痛烈な叫びがあるというのに。 心は、一つに縛られている。 何時の間にか心の中で、その大きさを増した存在にしか、目を向けていない。 「ルシータ、本当にごめ――――――――――――っ!?」 その言葉は、最後まで発せられることは無かった。 唐突の出来事に、英翔は目を剥く。 重ねられた唇が、全ての言葉を塞いだ・・・・・・・・・・・・・。 ただ、唇に唇を触れ、重ね合わせるだけの、幼く、拙い、口づけ。 だがそれは、何よりも頑丈に、硬く、堅牢に、英翔の口と思考を抑え込んだ。 そして、初めて分かった。 私が想像している以上に、彼女は私に固執しているということを。 絶対に、死んでも私を、放しはしないだろうという、ことも―――――――。
-back-