帰ったころには、既に陽は落ち、店には明かりが点いていた。 霧恵も結ヱもとっくに、こんな時間にはとっくに学校から帰っているのだから、当たり前だ。 だが、その明かりの下に行くのが、何となく怖かった。 ルシータの言葉で、霧恵にこの身体のことを告げる決心はできた。それは今も揺らぎ無い。 それ以上に怖いのは、真門の目・・・・・。 いっそのこと、もう店には戻らないほうが良いのではないだろうか。 誰かに伝言を頼んで、霧恵達にもう戻らない旨を伝え、初塚の家に戻すのが無難かもしれない。 そうすれば、この身体のことを告げずに済む・・・・。 いや、駄目だ。 それも出来ない。いまここで下手に霧恵達を実家に帰せば、監視に気づいたことが向こうに悟られてしまう。 いくら真門が、監視の目に英翔が気づいたことで動じなかったとしても、逃がした霧恵たちに危害を加える可能性は低くは無い。 どうする事も出来ない。まさに八方塞。 その時、不意に店の引き戸が開かれた。 そこから、霧恵が出てきた そしてその目は、突然のことに反応できなかった英翔の姿をすぐに見つける。 「あ、英翔さん、帰って来てたんですか?」 「・・・・・・はい、いま」 「そうですか、もう今の時期は夜になると寒いですから、早く中に入ってください」 「・・・・・・わかりました」 状況に流されるまま、英翔は敷居を跨いだ。 中には、もうすでに夕食の用意が済まされていた。 テーブルの上に、色取り取りの料理が並んでいる。 帰りが遅い自分の代わりに、わざわざ作ってくれたのか。そこで、玄関の前で逡巡していた自分が、とても情けなく思えてきた。 「さ、もう用意もできてますし、食べましょう」 「早く〜」 すっかりお腹を空かせた結ヱが、テーブルに顎を乗せながら嘆願した。 「そうですね、冷めないうちに頂きましょうか」 「はい!いただきます」 「ます〜・・・」 常套句と共に、私達は箸をとった。 久しぶりの霧恵の料理に思い切り舌鼓を打ったあと、英翔は食後の休憩に入っていた。 彼女の料理は、初めて食べた時よりも美味しかった。密かに練習でもしていたのだろうか、だが、英翔にそれを聞く術は無い。 英翔が初めて霧恵の料理を食べたのは、あの黒い天使の騒動の最中だった。 だから、霧恵にはそのときの記憶は無い。 いや、記憶がないというのは不適切な表現だ。錬精術で、記憶を封じている、と言うほうが正しい。 もし下手にあの事件の時のことについて触れれば、記憶の封が破れるかもしれない。 それは即ち、霧恵の精神の崩壊も招きかねない。 あれほどの凄惨な記憶だ、彼女の繊細な心が耐えられる保障など、皆無に近い。 しかしいま私は、そんな彼女に残酷な事実を告げねばならない。 いや、霧恵にとってはそんなに残酷でもないかもしれない。 彼女に告げるとい行動が、ただ私にとって残酷なだけ。もし本当にそうだったら、それだけ心は楽だろう。 「霧恵さん、結ヱさん・・・・・」 「はい、何ですか英翔さん?」 「・・・・?」 台所で、夕食の片付けをしている霧恵と、その手伝いをしている結ヱを呼ぶ。 カウンター越しに首を出した霧恵は、エプロンで手を拭きながらテーブルに座っている英翔のもとへと、スリッパを躍らせながら歩み寄ってきた。 「少し・・・話をしても良いですか?」 「ええ、良いですよ。なんですか?」 「・・・・・っ」 その屈託の無い笑顔に、英翔は臍を噛んだ。 告げるのか、本当に。 いや、これは避けて通ってはならない道だ。逃げては、背を向けてはいけない。 汗が一筋、輪郭をなぞって行った。 「大事な話なんで、とりあえず座りませんか?」 「あ、はい。分かりましたー」 英翔は、向かいの椅子を引き出すと、それを霧恵と結ヱにそれぞれ差し出した。 「で、どんなお話なんですか?」 「それは――――――――・・・」 「?」 心臓が、早鐘を打った。 怖いのか。 畏れて、いるのか。 今までの、何気ない“日常”を失うのが。 でも、もう引き返せる場所ではない――――――。 「私は、もうすぐ――――――――もうすぐ、死にます・・・・・・」 「え―――――っ?」 静寂が痛い。 室内の空気が、止まったように感じた。 全てが、鉛のように鈍く動く。 言葉が飲み込めない霧恵は、ただ呆気にとられるだけだった。 普段はポーカーフェイスで静観を決めている結ヱも、この時ばかりは、その表情が驚愕に染まった。 「死ぬって、どういうことですか―――――?」 辛うじて、霧恵は口を開いた。声は震えている。その傍では、結ヱが未だ信じられないと言った風貌をしている。 「・・・癌、なんです。それも全身に。もう、手の施しようがない状態なんです」 「もうすぐって、いつですか・・・・・?」 「・・・・・分かりません。でも、そう遠くない内に。一ヵ月後か、一週間後か、それとも明日か―――――」 声が、壁に嫌に反響していた。 一つ一つの言葉が、過度にエコーがかかって耳に入ってくる。 「どうして、いま、それを私に言ったんですか・・・・?」 「・・・言わなきゃ、何も、何も、相手には伝わらないと思ったからです。霧恵さんと結ヱさんは私にとって、大切な方達ですから」 「・・・・ッ!!」 その言葉を皮切りに、霧恵の表情はくしゃくしゃに崩れた。 せき切った様に涙が溢れ出し、瞬く間にテーブルの上に波紋を描く。 「すいません、霧恵さん、急にこんなことを言って―――――――」 英翔は泣きじゃくる霧恵の頬に、そっと手を差し伸べようとした。 だが。 「触らないで――――――!!」 「!?」 伸ばされた手を、霧恵は乱暴に撥ね退けた。 弾かれた英翔の手の平が、赤くなっていた。それほどの力で霧恵は、英翔を拒絶したのだ。 「・・・・・・ごめんなさい」 顔を伏せ椅子から立ち上がると、霧恵は階段に向って走った。 その唐突の行動に、英翔と結ヱは一拍遅れて、彼女を追いかけた。 「霧恵さん・・・!」 だが、その行動に意味は無かった。 掴もうと伸ばした腕は霧恵の肩を捉えることはなく、彼女は自室に閉じこもってしまった。 がちゃり、という金属音と共に、荒々しく錠が下ろされる。 ドアノブを掴みながら、英翔は部屋の中の霧恵に必死に呼びかけた。 「霧恵さん、すいません、でも私は、後になって取り返しが―――――――」 「話し掛けないで下さい!」 「・・・・・っく」 「今は、何も聞きたくありません・・・・一人に、して下さい」 扉の向こうからは、拒絶の言葉が返ってきた。 全身から、力が抜けるような気がした。 やはり、受け入れられはしなかった。 いや、これでよかったのかもしれない。 形の善し悪しは別だが、これで彼女は、少なくとも私の死に対する覚悟は出来るだろう。 何も告げられずに、勝手に墓に入られるより、そちらのほうがまだ幾許かマシだ。 そう、自分に言い聞かせた。でなければ、彼女が何の為に涙を流したのか。何の為に私が絶望を口にしたのか。 分からなかったから。 「・・・・?どうしたんですか、結ヱさん?」 ドアの前で打ちひしがれている英翔のズボンを、何かが引っ張った。 見ると、そこには不安げな表情で見上げる結ヱの姿が。 彼女は、いつもの冷静な態度に似合わず、当惑した面持ちだった。 「すみません、本当に。唐突にあんなことを言って・・・・・」 「違う、の・・・・」 「え・・・・・・?」 「違うの、英翔さん・・・・」 「違うって・・・何がですか、結ヱさん?」 ズボンを掴む手に、力が篭っていた。 幼い、白く小さな手が震えている。 「・・・・お姉ちゃんを、嫌わないで・・・・」 「きゅ、急になにを・・・・・」 「お願いだから、お姉ちゃんを嫌わないで――――――!!」 「結ヱさん――――――。大丈夫ですよ、私が、大切な彼女を嫌うはずがありません。でも、彼女は私を――――――」 「それも違うの!」 「え?」 「お姉ちゃんは、例え英翔さんがどんな状態でも、どんなことを言っても、絶対に嫌いになんてなったりしないの!」 「でも、さっき彼女は確かに――――――」 「・・・・それでも違うの!私には、此処から先は言えないけど、違うの。だから、それだけは分かっていて。お姉ちゃんは、  英翔さんを絶対に嫌いになったりはしないってことを・・・・・・、お願い」 「――――――分かりました」 その晩、霧恵の部屋の扉が開かれることは無く。 英翔は、その前で待ち続けた。 「・・・・・・」 少女は、闇の中に立っていた。 一切の光すら入る余地の無い、落ちていくような黒。 これも、今となってはもう日常。何か感情を抱くという事はない。 その一遍の斑さえない闇を、突如として光が切り裂く。 それは、開かれたドアから入った、廊下の照明のものだった。 闇になれた目は、眩いまでの光に鈍痛が走る。 「待たせたな、ルシータ」 ドアを開けた者が、私の名を呼ぶ。 だが、やはり何の感慨も無い。 まるで、心が此処に無いように、機械的に反応する。 「はい、マスター」 「楽にしろ、いつものように」 指示通りに、私はいつものように、この部屋に元々備え付けてあるソファーに座った。 それとほぼ同じく、マスターと呼ばれた男が部屋の電気を点けた。 廊下から差し入ったより強い光が、一気に室内を照らし出す。 反射的に、眉をひそめる。 「今日の動きはどうだ?」 ソファーに座った少女を、威圧するように、男は見下ろしながら質問した。 「はい。目標は、本部へ出向する以外に目立った行動はありませんでした」 「そうか・・・。分かった」 少女の答えに、男は顎に手を当てて考え込む。 どうやら、返答の中になにか不審な匂いを感じたのだろう。 「本部へ出向した理由は分かるか?」 「どのような目的があったかは不明ですが、医務室に用があった模様です」 「医務室・・・・?そこは私自身で調べる必要がありそうだな。良し分かった」 そう言うと、男は背を向けた。 何も言わずにドアに向かい、部屋を出ようとする。 その去り際。 「明日からは、“息子達”も連れて行け」 「了解しました、マスター」 そうして男は、照明を落として部屋を出て行った。 ドアが、ゆっくりと閉ざされる。 がちゃり、という音が響き、霧散したかと思うと、室内には再び闇と静寂が訪れる。 「“息子達”、か・・・・・」 誰もいない部屋で、一人呟く。 “息子達”。 まだ年端も行かない彼女にとっては、不釣合いな言葉。 そしてその言葉は、彼女にとって『戦い』を意味した。 明日からは、何時戦闘になるか分からないということだろう。 嫌だ。 彼と戦うのは、避けたかった。 「エイショー・・・・」 微かに動いた唇から、紡ぎ出された名を、噛み締める。 思えば、誰かに名乗られたのも、名前を聞かれたのも、あれが全て初めてだった。 そう、本当はあの時、彼を助けてはいけなかったのだ。 自分は、主人に彼――――――黒咲 英翔の監視を命じられていた。 つまり、相手に自分の存在を悟られてはならないのだ。 だが私は悟られるどころか、自ら彼の前に姿を現した。 主に知られれば、ただでは済まない。 だから私は、彼と密かに会っていることを、主人に告げないでいた。 今日の報告でも、エイショーが本部へ赴く前に、私と会っていたことは伏せておいた。 私は、彼をベンチまで運べば、そのまま立ち去ろうと思っていた。 いきなり目の前で血を吐き昏倒した彼を見かねた私は、彼が気絶したのを遠目で確認すると、恐る恐る近づき、負ぶって近くのベンチまで運んだ。 そこで、彼を横にし、何事も無く立ち去るはずだったのだ。 そう、するべきだったのだ。 だが、それは引き止められた。 『・・・・・誰か・・・・・・』 そう、うめきながら、立ち去ろうとする私の手を掴んだ。 誰かに手を握られたことなど、初めてだった。 だから私は、もう少し彼のそばにいることにした。 ベンチに腰掛け、彼の頭を膝の上に乗せる。 眉目秀麗という言葉が似合う彼の顔が、間近に見えた。 だが、依然と彼は魘され続けていた。 今度は、こちらから強く、手を握り返した。 大丈夫、貴方は一人ではない。安心していい。 そう、訴えかける。 その気持ちが通じたのか、それともただ単に痛みが引いたのか、彼の顔が和らいだ。 そのとき、何故か涙が流れた。 一滴。 ぽつり、と膝に乗せた彼の頬に滴る。 初めてだった。 誰かに引き止められたのも、手を握られたのも。 必要と、されたのも。 たった一粒、落ちた涙。 だがその涙は、私の心の中にあったシガラミを全て押し流し、心の外に吐き出したのだ。 私は、決意した。 彼に、私という存在を知って欲しい。 私という存在を、その心の隅に置いて欲しい。 初めて、そう願った。 誰かに、求められたいと思った。 「馬鹿ね・・・・私・・・・」 しかし、現実は残酷にして酷薄。 私は所詮は操り人形。 誰かの心に留まっても、それ以上には決してなれない。 それを、彼との出会いで改めて痛感させられた。 あの時、やはり彼の目の前から去っておくべきだったのかも知れない。 だが、今となっては全てが後の祭り。 やり直しなどきかない。 もし、私が“普通”に生まれていれば・・・・・・・・・。 恋と言うものが出来ただろうか。
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