「じゃあ、もう行くわね」 「貴子さん・・・」 旅行鞄を片手に提げた貴子を、霧恵は涙ぐんだ目で惜しむ。 そんな霧恵の姿に貴子は肩を竦めた。 「そんな顔しないの。それに、もう一生会えないってわけじゃないんだし」 「そうですよ、霧恵さん。また今度にでも会えるんですから」 貴子と、英翔が霧恵を慰める。 「・・・・早く、帰って来てくださいね」 「もちろん!」 未だ不安そうな霧恵を元気付けようと、貴子はピースサインをしながら明るく振舞う。 貴子は、KOTRT本部への出向を命ぜられていた。原因は勿論、東京での一件である。 期限は分からなかった。いつ帰ってこれるのか、もしかしたら、これから会えない可能性も、無くは無い。 元々が、非公開の組織だ。何時連絡が取れなくなっても不思議ではない。 それを二人は、霧恵には当然伏せていた。結ヱの方は、直感的に見抜いていたようだが。 「それじゃ、またね」 「あっ―――――」 「行ってらっしゃい。貴子さん」 店の引き戸を開けると、貴子は見送りの英翔、霧恵、結ヱに背を向けた。 そのままゆっくりと戸は閉じられ、貴子が振り返ることは無かった。 不意に、all thingsの店内に、静かな空気が満ちる。 風が、行ってしまった。 暖かく、包み込むような優しさを持った、母のような風が。去っていった。 霧恵の頬を、目尻から耐え切れずに零れ落ちた涙が一滴、流れ落ちていった。 だが、涙はそれで終わりだった。 目に溜まった涙を、霧恵は袖で、乱暴に拭い取った。 「そうですよね、きっとまた。・・・・会えますよね」 「お姉ちゃん・・・・」 結ヱは、驚いた表情で霧恵を見上げた。 あれほどに泣き虫だった姉が、自ら涙を拭って、毅然としたのだ。 そこから、彼女がいかに成長したのかが顕著に分かった。 「じゃあ霧恵さん、結ヱさん。留守番は頼みましたよ」 「え?」 霧恵が振り向くと、そこには何時の間にか買い物篭を手に提げた英翔がいた。 これから、買い物に行くというのだろうか。 「お買い物ですか?」 「そうですけよ。でないと、もう冷蔵庫の中、何もありませんから」 「あ、はい。行ってらっしゃい・・・・」 そして英翔は、さっさと店を出て行ってしまった。 呆然とした霧恵と、その脇に寄り添う結ヱだけが店内に残される。 立ち尽くす霧恵は、自分と英翔の強さの違いを、実感していた。 たった今貴子を見送ったばかりだというのにもう、買い物に行く、と言った。 そんな台詞は、霧恵にはとても言えそうに無かった。 英翔とて、貴子との別れに何も感じていないはずは無い。心優しい彼のことだ、きっと人一倍、先の別れを惜しんでいたに違いない。 なのに、もう彼は日常を振舞っている。 結ヱも、霧恵と同じことを思っていた。 結ヱは霧恵と違い、貴子がもう二度と戻っては来ないだろうということを見抜いていた。 だから、貴子の別れの後の彼の態度には、霧恵以上に驚いていた。 もう、会えないと言う事は彼も知っているはず。なのに、何故そこまで普通を振舞えるのか。 不思議でならなかった。 あの夏の事件から、何かがずれている。 英翔も、貴子も、霧恵も、結ヱも、何処か何かが違う。ずれている。 ただ、それが正確には何時からなのか、何処からなのか、誰も分からなかった。 あの事件が、四人に、予想以上に、深い、何かしらの傷を遺した。 この変調に、誰もが気付いていた。 だが。 誰もが、それを言い出せずにいた。 「昨日は鮭の塩焼きに、焼き茄子の味噌付けだったから・・・今日はお肉を足しますか」 頭の中で、昨日の料理の内容を整理しながら、英翔は最寄もスーパーへと足を進めていた。 その隅には、今日から一人分の料理を作らなくても良い、ということが引っ掛かっていた。 本部への出向。 本来、各自が出撃の通達を待って自由に待機するというKOTRT内において、本部への出向など前代未聞だ。 だから、もう彼女が一生帰ってこなくても不思議ではなかった。 所詮は我々は、盤上の駒にすぎない。それを、あの東京の一件以来、英翔は知った。 どんな扱いを受けるか分からない。 もしかしたら、殺されるかもしれない。 そんな不安が過ぎる。 「・・・・少し、近道をしますか・・」 そう言って、英翔は足先を、目の前の公園へと向けた。 この公園は昔に市が作ったもので、それなりの大きさを誇るものだった。今も、ご近所の子供から愛され続けている。 だが、今日に限って、公園内には人影は無かった。 天候があまり良くない、という訳でもない。むしろ、今日は清々しいくらいの晴天だ。 近くで、何か子供向けの催しでもやっていて、皆そっちに行ってしまったのだろうか。 いや、それにしても、全く誰もいないというのは腑に落ちない。 不自然だ。何か、人為的な作意を感じずにはいられない その、時だった。 突然の頭痛が、英翔を襲った。 今まで感じたことの無い、まるでアイスピックで脳を抉られるような痛みだ。 「がああああ!?」 そのまま公園内にて、英翔は膝を折った。 敷き詰められた砂利を握り締め、必死に痛みに耐える。 「う・・・・ぎぎ・・!」 痛みは治まるところを知らず、それどころか更に激しさを増していく。 あまりの激痛に叫び声をあげることも侭ならず、咽喉からはうめく様な声しか出てこない。 続いて、何かが咽喉を逆流してきた。 その息苦しさに、英翔はたまらず、咽喉を遡るそれを吐き出す。 英翔の口から、大量の血液が吐瀉された。 「がはっ―――うげ、ごほっごほっ!」 真逆。 被曝の影響が、もう出始めたというのか。 こんなにも早く、しかも激しいとは。夢にも思わなかった。 口からは、未だに血が滴っている。どれほどの血を吐いたのかは分からないが、まだ少ないほうだ。失血死にはまだ程遠い。 だが、それでも目の前にばら撒かれた血は、端から見れば病的な量だ。 色も、心なしか黒ずんでいる。これも、放射線の影響なのだろうか。 だが、脱毛などといった、被曝の典型的な症状は見られない。 だとすれば、考えられる可能性は一つ。 変換式。 ここから生じる内気は、常に英翔の体内に巡っている。 これが、通常の被曝とは違う症状を招いている可能性は、高い。 それに被曝した時、周囲の床は黒ずんでいたが、自分には何の外傷も無かった。 このことからも、内気が被曝に何らかの影響をもたらしている事実は明白だ。 一度、KOTRTの施設で診てもらう必要がありそうだ。 「うっ――――――!?」 だが、今はそんな悠長なことを考えている暇はなかった。 頭の痛みは増し、肺は焼け付くように痛い。 意識に、霞みがかかり始める。 このまま昏倒すれば、もしかしたらそのまま死んでしまうかもしれない。 そんな恐怖が、痛みに軋む身体に、更なる重圧として圧し掛かる。 だが、今自分の周りには誰もない。今日、今この瞬間に限って、自分を見つけてくれる者はいなかった。 死ぬ――――――。 そんな恐怖と、痛みに怯えながら、英翔はもがいた。 だが、その奮闘も虚しく。 再度襲った頭の激痛に、英翔の意識は暗転した。 そして、意識はそのまま深い闇に落ちる。 おきて、ねてはいけません―――――――。 闇に落ちながら、英翔は自分ではない誰かの声を聞いた。 それが、天使の囁きか、悪魔の呟きか、分からなかったが。 とても暖かい、母のような声だった・・・・・。 「ねえ、結ヱ・・・・・」 「なに、お姉ちゃん?」 霧恵は、カウンターに突っ伏しながら、その隣りであやとりに勤しんでいる結ヱに話し掛けた。 結ヱの小さな手の中で、赤い毛糸が東京タワーを完成させる。 「私・・・したほうが良いのかなあ」 「何を?」 毛糸か視線を外さず、結ヱは問い返す。 結ヱの手の中では、何時の間にか崩された東京タワーが、瞬く間にブリッジに組替えられていく。 「人の話ちゃんと聞いてる?そんな遊びながら・・・・」 「ちゃんと聞いてるよ。それにこれは遊びじゃなくて訓練の一環。錬精術において重要な集中力を養う為の」 「へ〜、そうなんだ。って、そうじゃなくて――――」 「分かってるよ。で、何に悩んでるの、お姉ちゃんは?」 その返答に、何故か霧恵は渋る。 いや、渋るというよりも、悶絶している。 「ああ、あのねー・・・・その、こ、ここここ――――」 「“こ”?」 「私、こ、告白した方が・・・・良いのかな―――・・・」 あやとりに一心不乱に打ち込んでいた結ヱの指が、ぴたりと静止した。 そして指に絡みついた糸を丁寧に外し、ゆっくりと姉へと振り向く。 「何で、急にそんなことを?」 「いや、その、あの、何て言うか、貴子さんが昨日の夜に『告白するなら早めに!でないとアンタたちはお互い老後まで進展なしよ!?』って言って・・・」 「・・・まあ、一理あるよね。実際にお姉ちゃんと英翔さんは、そのテのことに関しては超人的に鈍いから」 「ち、超人的って・・・ヒドイ。でも、まあやっぱり、想ってる事はきちんと言葉にして伝えなきゃダメだよね・・・」 「一つ、言って良い?」 「なに?」 「それって、中学生レベルの恋愛思考だと思うよ」 その言葉に突っ伏したまま凍りつく霧恵を他所に、結ヱは再び手に毛糸を持つと、あやとりを再開した。 あっという間に、その手の中に再び東京タワーが現れた。 額に、冷たい感触を覚えた。 それが呼び水となり、暗き底に落ちていた意識を俄に浮上させた。 「あ・・・・・・」 うっすらと目をあければ、空は黒かった。そこで、自分がすっかり夜まで寝ていたということを、英翔は自覚した。 身を起こそうとすると、頭に鋭い痛みが走る。先のピーク時に比べれば子供騙しのような痛みだったが、やはり顔をしかめてしまう。 そこに再び、冷たい何かが額に添えられた。 それが、痛みに熱くなった頭を冷やし、そのまま痛みの元まで消し去ってくれそうな感触だった。 そういえば昔、幼き日に風邪を患えば、母がこうして寄り添い、額に手を当て、看病してくれた。 懐かしい気持までもが蘇えり、痛みは益々和らいでいった。 「もう、大丈夫ですか?」 「え?」 突如として降り注いだ声に、英翔は驚きの声を上げた。 すると、小さく整った輪郭をした少女の顔が、英翔の目を覗き込むように現れた。 その見知らぬ少女を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。 痛みにまだ疼く英翔の頭は、一体いま自分がどのような状況に置かれているのか全く把握できなかった。 何故、自分の顔を、見ず知らずの少女が覗き込んでいるのであろうか。 そういえば、心なしか後頭部に柔らかい感触がある。 まさか。 「え、えーっと・・・・」 ばつが悪そうに、英翔はゆっくりと身を起こした。 そこで初めて、自分がベンチに寝ていたことを知る。硬い板の上に寝ていたので、体が少し軋む。 深呼吸をしてから、周囲を見回し、何とか大体の事情を飲み込む。 つまり、あの激しい頭痛に見舞われたあと、自分は気絶し、夜までぶっ通しで昏倒していた。 そして、いま目の前にいるこの少女にベンチまで運ばれたのであろう―――――。 頭痛のせいだろうか、やはりまだ頭が完全に覚醒し切っていない感じがある。 改めるように、英翔はベンチから足を下ろすと、きちんと座り直す。 そして、首を真横に向けた。 「?」 そこには相変わらず、見知らぬ少女が座っていた。少女は英翔の挙動に首を傾げている。 見ると、その膝がうっすらと朱になっていた。 つまり、自分はこの少女に膝枕までしてもらっていた、と言う事か・・・・。 大の大人が、しかも男が、見ず知らずの少女に気絶したところを運ばれ、膝枕までして貰ったなど。 男として、まるで立つ瀬が無い。父が存命していたら、この体たらくを何と嘆かれるだろうか。 「あの、大丈夫ですか、本当に?」 「え、はい。一応大丈夫です・・・」 再び訊ねかけてきた少女に、英翔はたどたどしく答えた。 「安心しました。お顔の色は優れていましたが、血を吐いて倒れていましたので、一時はもしやと思いましたが」 「あの、助けて貰って何なんですが、なぜ救急車を呼ばなかったのですか?」 「それは、貴方様が私の手を握ってきたからです」 「え・・・・?」 「倒れているところを抱えあげた私の手の平を、掴んで離さなかったんです。それで私は、もう貴方は大丈夫だと判断しました」 「手を握った・・・だけで?」 「ええ。死に逝く人に、あんな暖かい手の握り方は出来ませんから。だから、貴方は大丈夫だと」 少女の口調は、その外見に反して大人びたものだった。 態度もしっかりとしていて、慎ましい雰囲気もある。 それだけで、この少女が自分よりも年上のように思えた。 だが外見は、まだ公園で遊んでいるような幼い女の子である。 「あ・・・・」 英翔は、少女の目を見て、端と気が付いた。 目が覚めたとき、自分の顔を覗き込んできた、あの目。 それは、見事な碧眼だった。 吸い込まれるように深いのに、青空のように鮮やかな。宝石と呼ぶに相応しい蒼穹だ。 この青い目が、知らず知らずのうちに、この少女に大人びた雰囲気をもたらしていたのかもしれない。 純真無垢を絵に描いたような朗らかな青、だが同時に、艶やかな妖しさも秘めた、深い青。 そんな互いに相反する要素が、その瞳に篭っていた。 「? どうかしましたか」 「いや、その、そういえばまだ名前を聞いて無かったなと――――」 「私の名前、ですか?」 「はい」 少女は、急にきょとんとしてしまった。 まるで、名前を聞かれたのが生まれて初めてだ、とでもいうような視線。 「名前、私は――――――――ルシータ・・・」 「ルシータ、か。良い名前だね、まるで何処かのお姫様みたいだ」 お姫様みたいだ、というのはあまりに子供過ぎたか、と英翔は胸中で不安に思った。 が、少女は「お姫様」という響きが予想以上に気に入ったらしく、顔をほころばせている。 ルシータ。 確かに、この少女に相応しい名に思えた。子供の無垢と、大人の慎ましさを持つ、この高貴な少女に。 「それで、貴方の名前は?」 「私は、英翔。黒咲 英翔だ」 「エイショー・・・・クロザキ、エイショー。まるで、何処かの英雄のよう・・・・」 英雄。自分の名にも、英がある。父と母は、この名に、文字にどのような思いを託したのだろうか。 自分は、そんな大それた存在になど、なれる自信はない。 黒い天使と、父の虚像に打ち克ったが、霧恵の記憶を消した。 シグルドリーヴァから、東京を奪還した、だがその戦いで多くの血と涙が流れた。 そして現に今、私は死に瀕している。 今日、明日、一ヵ月後、何時死神が訪れても不思議ではないこの体。 内気が被曝に及ぼす影響が未知数なだけでなく、自覚症状が非常に不安定である。 何時。何時なのか。 この咽喉元に、いつその切先が突き刺さるのか。それを考えただけでも、恐怖で気が触れそうになる。 「・・・震えている」 「――――何をっ?」 「震えて、います。酷く。・・・・・何を怖れているのですか?」 「――――ッ!?」 息を呑んだ。 そっと、ルシータの手が、英翔の手に触れた。 「貴方ほど強い人が、何を怖れるというのですか?」 「私は―――――強くなどない。この手で誰も守れない、自分自身すら、ましてや他人なんか!」 「いいえ、貴方は強い」 「だから――――ッ!」 「そうやって、現実と、己と向き合う貴方は強い。怖れるなとは言わない。でも、怖れに飲み込まれないで」 死と、向き合うというのか。 自分に遠からず訪れる最後に、目を逸らさずに対峙しろというのか。 怖い。 だが、事実だ。 自分に死が訪れることは紛れも無い事実で、避けようが無い。 なら、彼女の言うように向き合わねばならない。 これを、運命とでも言うのか。 分かっているのなら、その運命と向き合うべきだ。目を逸らしてはいけない。 「ルシータ・・・君は――――」 「ごめんなさい。時間だわ、私はもう帰らなければ・・・」 「あ、そうですか。分かりました・・・」 「では」 ルシータは、ベンチから腰をあげた。 そして、軽やかな足取りで離れていく。 「あの、ありがとう!助けくれて!」 そんな彼女の小さな背中に向って、英翔は遅い感謝の言葉を告げた。 そうだ、本当は真っ先に言うべき言葉だったのだ。 しかし自分は何故か、すぐに彼女に伝えられずにいた。 「私は、当然のことを果たしただけです」 「また、会えますか?」 不安げなその質問に、ルシータは微笑む。 「ええ、必ず。貴方が望めば、いつでも!」 明るく言い放って、小走りに公園を後にした。 彼女の背中が完全に見えなくなるまで、英翔はベンチに座り続けた。 すっかり彼女が見えなくなった後も、少しの間は腰がベンチに張り付いたままだった。 まるで、今の際までの出来事が、白昼夢だったかのように思い返される。 つい先ほどのことなのに、遠い昔に見た夢のようにおぼろげだ。 「あ、お買い物――――」 ベンチの脇に、空の買い物篭が転がっていた。きっとルシータが拾っておいてくれたのだろう。 だが昏倒した所為で、肝心のかごの中身は空のままだった。 その夜、腹を空かせて待っていた霧恵たちは、晩御飯をインスタントで済まされる羽目になった。
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