「お姉ちゃん!!」 結ヱの、裂ける様な叫び声。 だが、体は動かない。何故だろう。何故自分は、こういう大事な時に、こんなにも鈍いのだろうか。 世界が、自分を置いて、スローモーションのように流れる。 黒い、孔が自分の眉間に据えられているのが分かる。 暗い暗い・・・きっと、奈落の底というのは、こんな暗さをしているんだろう。 死を連想せずにはいられない、虚な黒き孔。 死―――――。 銃口が、火を吹いた。 尋常ではい轟音が、空気を蹂躙する。 大きな車が、爆破されたかのような、腹に響く大凶音。 マズルからも、異常なほどに火が吐瀉され、バレルはあまりの反動に跳ね上がっている。 発砲の瞬間、結ヱは思わず、顔を背けてしまった。耐えられなかった。 あれだけの距離で、あれだけの銃で撃たれたのだ。生きているはずがない。 誰もが、そう思った。 撃たれた本人である、霧恵さえ・・・。 「あ?」 響次は、唖然とした。 その光景に。 彼は、頭から上がすっかり無くなった霧恵の姿を想像していた。 だがそれは、大きく裏切られた。 「・・・・・・え?」 響次の反応をいぶかしみ、結ヱは、勇気を振り絞って、霧恵を見た。 腕の影から、覗き見るように。少しだけ。 だがそこには、信じられない光景が広がっていた。 「・・・ふえ?・・・な、なにこれ―――――」 発砲の爆音と同時に目を瞑っていた霧恵は、周囲から上がる意外そうな声に、恐る恐る目を開けた。 実は自分はもう死んでいて、天国の人がすぐそこに迎えに来ているのではないだろうか、と何度も不安になった。 しかしそれでは埒があかないので、思い切って目を開けた。 そして、目の前にある光景に、ただ戸惑うしかなかった。 弾丸が、目の前にあったのだ。目と鼻の先、という距離を身をもって実感する。 何故かは知らないが、弾丸が、霧恵の目の前で止まっているのだ。 独楽のように回転し、それ以上進めないでいる。まるで、見えない壁に遮られているかのように。 それはやがて回転と速度を失って、からんと地面に落ちた。 転がる弾頭の大きさを見て、霧恵は再度恐怖した。あんなに大きな物が、想像を絶する速度で飛んできたのだ。 もし直撃していたら、自分は今ごろ、肉屋で売られていてもおかしくない、『お肉』に成り果てているところだ。 「な、なんだと・・・・?」 一番驚愕していたのは、このライフルの威力の壮絶さを知る、響次だった。 彼が霧恵に向かって撃ったのは、そこらへんのライフルとは訳が違う。 対人使用を禁止された、対物ライフルなのだ。 コンクリートを障子のように貫き、軽装甲車さえ撃ち砕くとされる、この銃が止められた。 (こいつ、いったい何者なんだ・・・!侵入者の始末にしては骨が無さそうに思えたが――――とんでもねえ!バケモンじゃねえか!) 戸惑い、立ち尽くす霧恵から、響次は一歩後ずさる。 それほどに、響次は彼女のことを警戒しているのだ。 「お姉ちゃん!」 「ふえ・・・!?」 呆けている霧恵を、結ヱは無理矢理後ろに引っ張った。 突然の事に、霧恵は足下は絡まり、倒れそうになる。 「なにしてるの!?分からないの、アイツは敵だよ!」 「・・・・え、でも・・そんな」 「アイツは、お姉ちゃんを殺そうとしたんだよ!」 「・・・・でも、何かの間違いとか――――」 あまりの脳天気ぶりに、結ヱは霧恵を怒鳴りつける。 あの男は、間違いなく霧恵を殺そうとしていた。 明確な、殺意を持って。引き金を引いたのだ。 (・・・・そうか、あの女・・・激しく、戦いに慣れてねえってわけか・・・!!) 困惑する霧恵の姿を見て、響次は、口元を歪ませた。 何だ、たったそれだけの事か。 さっきのは、条件反射的に行った錬精術なのだろう。 いざ戦闘になれば、混乱して何も出来ない。 簡単に殺せる。 「はっ!やっぱ、楽に終われそうだな!」 響次は、再び霧恵に銃口を向けた。今度は射程に居る結ヱにもその狙いは向けられる。 手に持ったライフルは、二丁。 殺人的な威力と反動を持つ対物ライフルを、響次はそれぞれ片腕のみで保持している。 そのまま撃てば、常人ならば腕の各所が粉砕骨折するだろう。 「クイック・カスタム――――――」 その言葉と同時に、あるモノが生えてきた。 響次の脇から、左右それぞれに、新たな腕が顔を出す。 まるで修羅のような、禍々しさが滲み出てくるその姿。 これが響次十八番の錬精術。長年に及ぶ試行錯誤のうえに編み出した、独自の錬精術。 新たに生えた腕を、ライフルに添える。 これで、普通に構えて撃つのと大差は無い。 その一連の光景を、霧恵と結ヱは目の当たりにした。 結ヱは、背筋が凍った。 逃げろ。 本能が劈くように叫ぶ。 だが、身体は動かない。 それは、もう遅かったからだ。 いまから動いても、もうあの銃口から逃れる術は無い。 どんなに素早く動いても、不可能だ。 なら、せめて――――――。 「逃げて、お姉ちゃん――――!」 姉だけでも、助けなければならない。 結ヱは、そう思った。 だから身を挺して、霧恵の身体を射程の外に突き飛ばす。 轟音。 先程も聞いた、車が爆発するような音が響いた。 次いで、衝撃が身体を走り抜ける。 「あ――――――」 声を発したのは、結ヱではなく霧恵だった。 妹の右腕が、目の前で失くなった。 右腕が、コマ落としに消失したのだ。 傷口からは、どろどろと血が零れだす。 「ちっ、外したか」 男の声が聞こえる。 結ヱは、右腕を吹き飛ばされ、そのまま前のめりに倒れた。 恐らく、気絶したのだろう。あまりに痛さに。 無理も無い。右腕が失くなったのだ。 痛いに・・・・・決まって――――。 「うあああああああああああああああ!!!」 絶叫した。 愚鈍な自分に。 哀れな妹に。 憤怒した。 妹を傷つけた者に。 自分の無力さに。 だから、いま起ち上がろう。 「ごめん。ごめんね、結ヱ・・・・・」 そっと、うつ伏せになった結ヱの身体を抱き上げた。 傷口からは、今も血が流れている。 この出血量では、あと十分もしない内に結ヱは死ぬだろう。 「もう、二度と貴方に苦しい思いはさせないよ。私が、これからは貴方を守るから・・・」 首筋が熱くなるのを、霧恵は感じた。 精神が、研ぎ澄まされていく。 先程までの困惑や不安は、もう微塵も無い。 結ヱの右腕からの出血が、ぴたりと止まった。 荒かった呼吸も、徐々に落ち着きを取り戻す。 それは、元々高密度の内気で肉体を構成している結ヱに、霧恵が内気を供給し始めたからだ。 故に、彼女の身体は自然に治癒を始めたのだ。 それも、猛烈な勢いで。 これで彼女はもうしばらく持つ。たぶん、この東京を出るまではいけるだろう。 「今度は、仲良く二人ともあの世に送ってやるよ・・・!!」 結ヱを抱えて立ち尽くす霧恵に、響次は容赦なく発砲した。 しかも、先程までとは桁違いの連射。 対物ライフルの銃口から、矢継ぎ早に弾丸が吐き出されていく。 その度に、地を揺るがす轟音が空気に津波を起こす。 弾が切れれば、ライフルを構えたまま、脇から生えた腕でマガジンを装填する。 そうして、切れ目の無い弾丸の嵐を起こす。 「ははははは!もう死んじまったか―――――――――・・・なに!?」 普通なら、射線上にあるモノは全て塵に帰していただろう。 だが、違った。 そんな鉄の嵐の中で、霧恵は敢然と立っていたのだ。 だが、響次が驚いたのはそんな事ではない。 霧恵の背中に、『翼』が生えていたことに驚いたのだ。 『翼』。 かつて、霧恵の内気によって造り出された黒い天使にも生えていた、あの『翼』である。 本来、霊子にしか干渉不可能な内気オドを、密度を高める事によって物質に干渉させる高度な術。 別脈種の中でも、使える者は、ほんの一握りだけだ。 そして、霧恵はその『翼』を展開し、弾丸の嵐を凌いでいた。 弾丸は、『翼』防がれて、次々と落下していく。 それほどに、彼女が展開した『翼』は密度が高いのだ。 「畜生・・・!なら、これはどうだああぁ!!」 響次は、ライフルを撃ちながら駈けた。 接近戦に持ち込んで、直接弾丸を叩き込む。 轟音が近づく。 だが、霧恵は怯むことは無かった。 「・・・・来ないで!」 霧恵の背中から、さらに多くの翼が生えてきた。 それは蛇のようにしなり、蠢き、突進した。 響次に向かって。 「舐めるな!」 『翼』が、響次に向かって振り下ろされる。 初撃は、身を捻ってかわす。 狙いを違えられた『翼』は、そのままアスファルトを粉砕する。 いや、それはもう粉砕するという次元ではないのかもしれない。 『翼』が振り下ろされたアスファルトは、クレーターを形成した。 その衝撃だけでも、骨が軋む。 次いで、他の『翼』も群がるようにして響次に襲い掛かった。 とてもかわしきれたものではない。 舌打ちしながら、響次はその群れに向かってライフルを掃射した。 弾丸は『翼』の矛先に命中し、軌道が逸らされ、紙一重で響次に当たらない。 (ゼロ距離射撃に持ち込めば・・・こっちのもんだ――――!) 雨のように降り注ぐ猛攻をかわしながら、響次は着実に霧恵との距離を詰める。 一歩進むごとに、何十という翼の打撃に行く手を阻まれる。 しかし、それは決して響次を足を止めるには至らない。 そしてついに、 「―――――――ッ!」 「もらった―――ッ!」 響次は、目一杯に腕を伸ばし、ライフルを構えた。 そして、『翼』の守りの切れ目から、霧恵に向って照準を定める。 だが、トリガーを引くことは出来なかった。 『翼』の切れ目から、雪崩が押し寄せる。 トリガーを引く前に、さらに多くの『翼』が、響次目掛けて突進してきたのだ。 「ぬお!?」 その『翼』の雪崩に、成す術も無く吹き飛ばされた。背中から、叩きつけられるように地面に落ちる。 あれだけ詰めた間合いが、一気にふりだしに戻ってしまった。 まさか、さらに『翼』が出てくるとは思わなかった。いったい、あいつはどれほどの『翼』を具現化出来るというのか。 『翼』を一本造るのでさえ、相当量の内気を消費する。 あの英翔でさえ、『翼』を具現化するのは四本が限界だった。 なのに、この小娘は、いったいどれだけの数を具現化しているのか。軽く見回しても、五十は下らない数の『翼』が見受けられる。 バケモノ――――。 アイツは、いったいどれほどの規模の変換式を持っているというのだろうか。 これだけの、圧倒的な内気の量を見せ付けられると、「無限」という錯覚まで覚える。 「ちくしょうが・・・!んのアマ・・・殺す、絶対に・・・!」 軋む体を叱咤し、何とか身体を起こす。だが身体の間接が、骨格が、筋肉が、悲鳴を上げた。 おかしい―――――。いくら地面に叩き付けられたからといって、ここまで身体が痛むものなのか。 考えられることは、一つ。 あの『翼』の打撃は、ただの物理的衝撃だけではなかったのだ。 確かに、よくよく考えれば、あの『翼』は超高密度の内気の塊。 そんなもので殴られれば、細胞は内気に中てられてダメージを負う。 つまり、あの『翼』は毒を持った鈍器ということ。 勝てる――――道理がどこにあろうか。 「はっ・・・ははは、そんな事って・・・・そんな馬鹿なことってねえよなあ!おい!!」 絶叫した。 こんな何処の馬の骨とも知れん小娘に、生まれた時から地獄を見続けた自分が負ける。 それも、なんの手傷を負わせることも無く。 ありえない。 許さない。そんなことは。 否定させない。 もう、二度と膝をつくわけにはいかない。 でなければ、今までの苦渋が、痛みが、憤怒が、全てが無意味になる。 だから。 「絶対に・・・!コロス!!」 ライフルを再び構えると、撃った。 狙いも何もない。 ただ、銃を構えて、トリガーを引いた。それだけだ。 銃口が何処を向いているのかなど、知ったことではない。何処に当たろうと、誰に当たろうと関係ない。 目の前の、コイツを殺せればそれでいい。 だから、ただ我武者羅にトリガーを引きまくった。 弾が切れてボルトが引ききれば、すぐさまカートリッジを交換。ボルトを引いてチェンバー内に弾丸を送り、再び撃つ。 死ね。 「・・・・・ごめんなさい!」 叫び声が聞こえた。 殆んどが、ライフルの怒号に掻き消されていたが、確かに聞こえた。 女の叫び声が。 ごめんなさい、だと。 一体何に謝っているのか。何を悔いているのか。何を犯したのか。 何を言っているンダコイツハ―――――。 瞬間、衝撃が襲った。 身体が、反り返るように、また吹き飛ばされる。 左目から、太陽が消えた。 「・・・・・ごめんなさい!」 霧恵は咄嗟に叫んだ。 それは、半狂乱となり見境無く乱射を始めた響次に対しての謝罪だった。 彼の乱射を止めさせるには、実力行使しかない。 だが、霧恵には力の加減が分からなかった。 無理もない、生まれて初めて『翼』を使ったのだ。それも土壇場でだ。 コントロールなど、出来よう筈も無いのが普通である。 だから、謝った。 もしも殺してしまったら、ごめんなさい。と。 『翼』を、伸ばした。 響次に向けて。 その矛先は狙い違わず、一直線に響次に向っていく。 だがその猛進してくる『翼』に、響次は気付かない。 もう、周りを見ることが出来なかったのだ。 彼の心を狂わせたのは、恐怖か。怒りか。 それとも、傷か・・・・。 それは、彼のことを全く知らない霧恵には分からなかった。 何十という数の『翼』は、その全てが響次に直撃した。 まるで車にはねられた様に、彼の身体は空中に放り出される。 その四肢に力は無く、だらんとしたまま地面に落下した。 土嚢を落とすような、重苦しいが、どこか生々しさのある音が響く。 その全てを見届けて、霧恵は『翼』を収めた 死んでしまったのだろうか――――。 響次は、道路にうつ伏せて転がっている。 そこから、アスファルトをなぞる様に血が伝い始めた。 出血している、しかし、何処からの出血かは分からない。 しかし、そんな糸の切れかけた人形と同じ状態になっても、なお彼は立ち上がった。 身体を痙攣させ、地を這う蟲の様に、頭をもたげる。 そして、真っ直ぐに霧恵を睨みつけた。 向けられるのは、極大の殺意と憎悪。 「―――――!?」 霧恵は、身を竦めた。彼の睨みに対しての怯えではない。 確かに彼の目は壮絶なものを無言のうちに語っていたが、それ以上に霧恵を怯えさせるものがあった。 彼の、左目が無くなっていた。 まるで、ヤスリで削られたように、肉は粗く削れ、眼球が納まっているべき窪みには、なにもない。 ただ、ぽっかりと穴が開いている。 そこからは、失われた光を求めるように血が滴っている。 『翼』で彼を打ちつけた時に、偶然にもその一つが彼の眼球を抉ってしまったのだろう。 頬に、血が滴る。 見ると、自分の背中から伸びている『翼』の一つが、鮮血に濡れそぼっていた。 濡れている、といっても、先端に少し血がついているという程度だ。 しかし、その『翼』が謝って彼の眼球を抉り潰した事は確かだった。 初めて、霧恵は力を畏れた。 「・・・・・ぁ」 響次が、微かに口を開いた。 そこから、蚊よりもか細い声を出す。 しかし、それは霧恵の耳には届かない。 遠すぎる。 「絶対に絶対に絶対に絶対に―――――ぶるうああああああああ!!」 獣のような、咆哮だった。 咆哮と共に響次は壊れそうな身体を奮い立たせ、霧恵に向って突進した。 また『翼』迎え打たれたたら――――などということは一切考えていない。 ただ本能のままに突っ走る。 四本の腕と、二本の足を総動員して、どの獣にも属さない走り方で駈ける。 ただ、突き動かされるが故に動く。 命じられるがままに命じる。 ただ自然のままに。 本能のままに。 外敵を排除。 天敵を駆逐する。 「いや・・・・・・・・・だめ―――」 だが、それを迎え撃つということは、いまの霧恵にはもう出来ない。 畏れているからだ。 もしかしたら、今度は眼球を潰すぐらいでは済まないかもしれない―――――。 今度こそ、死なせてしまう―――――いや、殺してしまう。 嫌。 殺すのは、嫌。怖い。 命を奪うという事実。 罪の意識。 苛まれる。 恐怖。 嫌だ。 「退け、蛆虫が」 聞き慣れた、声が聞こえた。 いつも身近にいて。 それでいていつも衝突が絶えなくて。 そして、霧恵の心を支えてくれる数少ないうちの一人―――――。 這う様に駈けていた響次の身体は、突如現れた人物によって蹴り飛ばされた。 脇腹に、つま先がめり込み、そのまま吹き飛ばす。 響次は、空を飛びながら、自分を足蹴にした人物を見た。 いつもと変わらぬ、日本古来の衣装に身を包んだ、凛とした女性。 KOTRT隊長、香坂貴子。 その名が頭に浮かんだと同時に、響次の身体はビルの側壁に激突する。 そして、中にめり込むことなく、そのまま地に落ちた。 「霧恵に手を出すなんて、一体何を考えてるの片峰?」 「・・・・う―――る、さい・・・この婆あ!」 ビルの破片に埋もれながら、響次は息も切れ切れに吐き捨てた。 そのような下卑た言葉に、貴子は微塵も表情を変えない。 「・・・?・・・おい、なん、で・・・お前がそれを持って、るんだ・・・?」 「・・・・・」 貴子は答えなかった。 何の感情も無く、ただ真っ直ぐに響次を見据えている。 それは、いつも以上だった。 彼女は普段から、優れた指揮官として感情を殺していたが、今の彼女はそれ以上だ。 感情を殺す・・・・いや、消すといった方が近いか。 絶対零度の、極北の貌。 「・・・・そうか、何だ、そういう事か・・・!」 とある結果に至った響次は、嗤った。 貴子を、指差し嘲笑する。 「何だよ何だよ・・・あのお堅い隊長さんが、俺と同じ・・・・とはなあ!」 同じ。 一体、あの男は何を言っているのだろうか、と霧恵は思った。 貴子は、KOTRTの隊長。言わば英翔の上司。 しかし、あの男は自分自身で「英翔の敵」と名乗った。 ならば、同じはずが無い。 むしろ敵同士だ。先程の猛攻に晒されたことにより、頭のネジが二本ほど取れてしまったのだろうか。 「そうか・・・じゃあ、その背中に背負ってるのはやっぱり―――――コウタカの得物か!」 「――――!!」 突然、貴子は響次に歩み寄ると、その胸倉を掴んだ。 その形相は先程とは打って変わって、鬼のような燃える憎悪。 「あの人を、お前如きが呼び捨てにするな・・・!」 「良いじゃねえかよお・・・裏切り者同士さあ、仲良くしようぜ!」 「――――死ね!」 貴子は、背負った、黒い布に包まれた角柱で、力任せに殴りつけた。 血が、数滴飛び散った。 響次の頭が切れ、そこから血が流れている。しかし、霧恵に負わされた傷を思えば、かすり傷と変わらない。 「・・・次は、頭蓋をいくわよ?」 「っけ、知るかよ」 ゆっくりと、響次は立ち上がった。服の各所についた埃を手ではらい、何事も無かったかのように涼しげな表情だった。 そして、貴子を無視するように、その横を無言で通り過ぎる。 去り際に、響次は霧恵を一瞥した。 その瞳が、告げていた。 次は必ず殺す、と。 そうして、彼は去った。 貴子と霧恵に背を向け。どこに行くという目的も無いままに。歩き出した。 完全に塞がりきっていない、左目の傷口から、血が未だに滴り続けている。 「・・・お姉ちゃん」 「!? 結ヱ、もう大丈夫なの?」 こくり、と頷くと、結ヱは霧恵の腕から降りた。 その足元はまだ覚束ない感じがあるが、すぐに膝を折るという風でもない。 「手を出して」 「え?手?」 結ヱは、霧恵に向かって手を差し出した。 霧恵は何のことか分からなかったが、取り敢えず言われた通りにする。 差し出した手を、結ヱはそっと握ってくれた。 小さな手が、自分と結ヱの過ごした時間の違いを物語っている。 「ね、ねえ・・・どうするの、結ヱ」 「少し・・・静かにしてて・・・」 「――――――――はい」 霧恵の手を握りながら、結ヱは目を閉じた。 傷の所為で荒くなっている呼吸を、出来るだけ自然に鎮める。 精神を、集中する。 意識を、針の先端のように。 芽吹く、葉の平のように。 首筋が熱くなる・・・。 「 枯れる枝の葉、落ちる枝の葉、摘まれ逝く枝の葉、欠ける光の器を汲み上げし恩恵により癒さん 」 詠唱する。 最適化の際にひろがる、独特の温度上昇。治癒系の錬精術に見られる独特の現象だ。 それが、胎内の温度と同じという話は、賢種の間でも有名である。 心地よい温かさのなか、術式が空間に組み込まれ、起動していく。 既に腕が無くなっている、結ヱの右肩。 そこに無数の蛍が集まってきた。しかし、それは良く見ると、蛍でも何でもない、ただの光の珠だとい事が分かる。 無数の光の珠が先の無くなった結ヱの肩口に集まり、形作っていく。 腕の形を、淡い光の珠たちがなぞって行く。 珠は腕を形作ると、光を失い、肉へとその形を変えていく。次々と。 幾百という光の珠が集まり、変貌し、凝り固まって、形を成していく。 その一連の数分繰り返し、何時の間にか結ヱの腕は元に戻っていた。 「・・・すごい、もう、元に戻っちゃった―――――」 奇跡とも映る光の乱舞による再生。 それを見た霧恵を、感嘆の息を漏らす。 結ヱは生前から錬精術が上手かったが、今はさらに磨きがかかったように見える。 「流石ね・・・・それが内気で出来た体躯の強み?」 「・・・・・・」 「あ、貴子さん!」 先程の錬精術の感想を述べながら歩み寄ってきた貴子に、結ヱは何の返事もしない。 代わりに、霧恵が貴子の名を呼ぶ。 「内気で編まれた体躯なら、喩え欠損しても内気で補えばすぐに再生できるのね。普通の生身なら、いくら錬精術でも欠損した肉体の再生は不可能だわ」 貴子の言う通り、万能と思われる錬精術にも、不可能なことはある。 古今東西禁忌と言われる死者の復活はもとより、失われた肉体の一部。つまり腕や足がなくなった場合は、それはもう元に戻すことは出来ない。 切り傷や病気などは、細胞の本来持つ力を内気により底上げすることにより治癒力を高めたり、内気の照射により病原菌を焼くなどして治療する。 だから、失われた体の一部の再生は、内気の本質的限界により不可能なのだ。 「貴子さんも、東京にいたんですね」 「ええ、一応私もKOTRTの隊長だからね・・・」 貴子の表情に、霧恵は首を傾げた。 何故、彼女はこんなにも消沈しているのだろうか。 さきほどの男を、背負った角柱で殴りつけたときもそうだ。 らしくない。 うまく言い表せないが、そう表現するしかない。とにかく、いつもの貴子ではない。どこかおかしい。 落ち込んでいるように見えて、そわそわと落ち着きの無いようにも見える。 こんな不安定な貴子さんを見るのは初めてだ。いつもの、あの毅然とした態度は何処に行ったのか。 「貴子さん・・・・・どうか、したんですか?」 「・・・・なんでも、ないわ。別に」 そうは見えないから、聞いているのだ。 だがそれを堂々と口には出せない。いつもの貴子さんなら、何の躊躇もなき切りだせるが、今は違う。 下手なことを言ったら、一体どうなるか分からない。 「あの、私たち英翔さん捜してるんですけど、どこにいるか知りませんか?」 「・・・・!?」 英翔を、捜している。 その言葉が、貴子の心に雷鳴の如く轟く。 そうだ、なぜすぐに疑問に思わなかったのか。 なぜ、この東京都内に霧恵と結ヱがいるのか。 先のコウタカとの出来事ですっかり忘れていたが、いま東京は彼の占領下にあるのだ。 警備も抜かりなく、猫の子一匹入れるはずはない。そんな中、この二人は一体どうやって入り込んできたのか。 「貴方達、英翔を捜しているの?」 「はい、そうですけど・・・だから何処にいるか、知りませんか」 直ぐに答えは返ってこなかった。 考えていた、貴子は。 もし、霧恵が英翔と行動を共にすれば・・・・。 考えられる事は一つ。 コウタカは、間違いなく敗れる。 霧恵は人智の枠を超えた内気を誇るが、実戦経験に関しては素人以下だ。 だが、そこに経験豊富な英翔のサポートが入れば・・・。 羅種の中でも上位種に相当する人喰鬼オウガでも随一の戦士と讃えられたコウタカでも、勝機は無いだろう。 「英翔の居場所は・・・私も分からないわ」 「そうですか」 「それと、霧恵」 「はい?」 「この東京がいま危険な状態にあるのは、貴方も知っているはずよ。いますぐ帰りなさい」 「・・・・それは駄目です」 貴子の言葉に、霧恵は真っ直ぐに見つめて返した。 英翔には、言い尽くせないほどの恩がある。 一生かけても、返しきれないほどの恩だ。 だから、せめて力になりたいのだ。彼を横から支える、いや、横から見守るだけでも良い。 言われるなら死さえも覚悟する。 それほどに、彼には感謝しているのだ。 だから、この事態に少しでも協力したい。 「駄目です、帰りません」 「貴方がいても、足手まといになるだけよ―――――」 「なりません」 「・・・・そんな確証が、どこにあるって言うの!」 「確証はありません。でも、足手まといにだけはならない、確信はあります」 ここで、引き下がるわけにはいかない。 喩えそれが、貴子の忠告であったとしても。自分には成さねばならない事があるのだ。 それが、罪深き自分に許された唯一の贖罪でもある。 「これが、最後よ。帰りなさい、霧恵!」 「こっちも最後です。帰りません、貴子さん!」 霧恵の決意を込めた、渾身の答え。 貴子は、霧恵のその頑なな意志に唇を噛んだ。それは、憤りと悲しみが混じった表情だった。 霧恵の言葉を合図に、貴子は背負った黒い布の角柱を振りかぶった。 たったの一振りで、角柱を覆い隠していた黒い布が外れる。 そして、その下から姿を現す。 それは包んでいた布同様、黒い鉄の柱だった。 それに穿たれたように設けてあるグリップを、貴子は握った。それと同時に、トリガーにも指をかけ、瞬時にセーフティーを解除する。 「これ以上、英翔に会いに行くと言うのなら・・・・実力で止めるわよ」 そして、鉄柱の矛先を霧恵に向けた。 そこには、黒々とした穴が空いている。霧恵は、それがなんであるかが直ぐに理解できた。 先程も突きつけられた、あの黒い穴・・・。 銃口。 貴子が、いま自分に銃を向けている。 それも、先程の男が持っていた銃とは比べ物にならない大きさの銃だ。 全長は軽く一メートル半を超え、厚みも広辞苑何冊分というほどだ。 先のあのサイズの銃であの威力なのだ、それよりも遥かに大きいこの銃から放たれるものは、いったいそれほどの力を秘めているというのか。 「どうして・・・ですか、貴子さん?」 「・・・貴方のためでもあるし、私のためでもあるの。分かって」 貴子は、コウタカから受け取ったレールガンの銃口を霧恵に向ける。 まさかこの得物を、こんな風に使うことになろうとは。 だが、手加減は出来ない。 コウタカにつくのか、KOTRTにつくのか。 その答えは、まだ出せずにいる。選ぶことなど出来ないかもしれない。 けれど、コウタカを死なせたくはない。 「私は・・・あなたと戦いたくありません!」 「じゃあ引き返すことね。先へ進みたいのなら、自分の意思を通したいのなら、いまここで私に、それに見合う力を見せなさい」 「くっ――――!」 向けられる殺意が、肌に突き刺さる。 そのあまりの気迫から、貴子さんの言葉がいかに本気かが伝わってきた。 前に、進む。 自分のために。英翔さんのために。 なら、戦いも止む無し・・・・。 喩え相手が、大事な友であろうとも。 霧恵は、背中に白く穢れを知らない『翼』を展開した。 それを見た貴子の、トリガーにかける指の力が強くなる。 闘いの火蓋は、静かに切られた。 「ここなら、問題はないか・・・・」 地上を、はるか三十メートルも眼下に望むビルの屋上。 そのさらに貯水タンクの上に佇みながら、シルヴァリーは呟いた。 彼は、響次とチェルノボグをそれぞれ都内に送り出した後、コウタカの命で彼も直々に戦場に赴くこととなった。 しかし、彼には特に任務は課せられていない。 ただ、市ヶ谷駐屯地以外で待機する。 それだけだった。ただそれだけが、今の彼の成すべき事だった。 響次やチェルノボグは、それぞれ外敵の排除に当たっているのに対し、あまりに呆気の無い任務だ。 いや、もはや任務とは呼べない。 「さて、ここでゆっくりと戦闘を見物させてもらおうかな」 「そうもいかないわよ?」 シルヴァリーは、目を剥いた。 いま、この屋上には自分一人しかいないはず。 そのはずなのに、自分以外の声がする。 「・・・驚いたな。このビルは、レールガンを携行した十名の部下が警備にあたっていたはずだが」 不動のまま、言葉を返す。 「部下・・・・?ああ、あの黒子のことかしら?それなら、もう咀嚼し終えた・・・・・・ころだと思うわ」 「はは、それは結構なことだな」 真逆まさか。 階下を任せていた兵は、シグルドリーヴァの中でもチェルノボグに次ぐ精鋭達だ。 それを、何の気配も、音も、内気もなく。そしてものの数十秒で屠ったというのか。 KOTRTの戦力が、これほどのものとは。 シルヴァリーは、声のする方へと首を向けた。 そこに居たのは流れるような金髪の女。 そして放たれる雰囲気は、中世の貴婦人を髣髴とさせる。 「・・・何故、ここに来た時に直ぐに殺さなかった?貴様の実力なら気付かれることなく殺せたはずだ――――」 「あら、そういえば私の名前――――――まだ言ってなかったわね」 「だからどうだと言うんだい・・・」 「私の名は・・・・・ベルゼルド・レッツェル・ヴィードルッシェ。ベルゼルド・ナッシュ・リンガムド学院の現院長よ」 「・・・・!?」 『ベルゼルド』。 その名を聞いて、シルヴァリーの表情は一変した。 かつて彼が五年前に襲撃した、あの『学院』の院長。 それが、いま自分の目の前に居る。 「あの時はまだ我が父上が院長だったけど、いまはもう引退しているから代わりに私がお礼をしに来たわ。ああ、それと任務も兼ねて」 「・・・任務?ただここで暇を持て余している僕に、何の戦略的価値があると言うんだい?」 「いま東京都で跳梁している暴徒・・・・あれは貴方が操っているのでしょう?」 「―――――!?・・・・何を言い出すかと思えば、何処にそんな――――」 「貴方の頭の中」 「・・・ぐっ!?」 ヴィードルッシェは、真っ直ぐにシルヴァリーを見つめる。 彼の額に、一筋の汗が伝い落ちる。 この女の前では、どんな偽りも無意味だ。あの臓物まで見透かすような目で、たちまち看破されてしまう。 「その頭の中に、暴徒を操るためにナノマシンへと電波を送る機械が埋め込まれているのでしょう。分かるわよ、  だって貴方の頭から電波が疼くほど放たれているんだから」 「全部お見通しというわけか。そうだ、君の言うとおり僕の頭の中にはナノマシンを統制する機械が埋め込まれている。これが破壊されれば、  事実上、僕は暴徒の操作は出来なくなる」 「そう・・・・やっぱり。じゃあ、その機械――――――――貴方の頭ごと潰させてもらうわ。お礼の分も含めてね」 その瞬間、空間が震えた。 目の前のヴィードルッシェを基点として、内気の波が空間を津波の如く飲み込んでいく。 まるで、内気の嵐だ。 ただの最適化で、突風が発生するほどの大出力・高密度の内気を迸らせるとは・・・・・。 これが、あの御三家に目されるベルゼルドの血筋の力なのか。 賢種としては、ごく平凡な血筋に生まれた自分とは雲泥の差だ。次元が違いすぎる。 最早、同じ盤上の試合ではない。 「なに?まさかこの程度の最適化の内気に中てられたわけ?・・・やっぱ、雑種はどう足掻いても雑種ね。純血統には絶対に勝てない」 「・・・・だ、黙れえええええええ!!」 嘲笑に怒ったシルヴァリーは吼えた。 自壊しそうなほどに、己が拳を握り締める。 「・・・やっぱりね。貴方が学院を襲撃した理由。血筋からくる劣等感だったのね」 「五月蝿い煩いうるさい!お前に何が分かる・・・・この僕の苦しみが、生まれながらの烙印があ!!」 「喩え下賎と蔑まれようとも、自分の血族に誇りをもてない・・・ただの恥辱としてしか認識出来ない。だからアンタは三流なのよ!」 シルヴァリーは両手の平を合わせた。 そして、呪詛のように言語詠唱を紡いだ。 「 繭より細く、鋼より強く。切れず絡まず我が意思の赴くままに蠢く蛇よ。星さえ裁つ糸となり、我が手に下れ 」 両手に、内気を集中させる。 溢れ出さんばかりにまで内気を注入され、手の平は薄っすらと発光していた。 その光は、徐々に集束へと向っている。 「 第八気術、明鉄糸あけのてっし 」 シルヴァリーの両の手の平で集束された光は、やがて一本の糸へと姿を変えた。 極限まで研ぎ澄まされた、内気で形成された光の糸。 これこそが、シルヴァリーの得意技にして最終奥義。 明鉄糸。 その光の糸はヴィードルッシェに向けて頭をもたげ、突進した。 その様は、まさに光の蛇である。 「死ねえええええええええ!ベルゼルドの豚があ!!」 「言ってくれるじゃない・・・このド三流が!」 だが、ヴィードルッシェは胸中で嘲笑した。 いかにあの光の糸が優れていようと、そんなものは関係ない。 このフィールドは、既に自分が最適化掌握しているのだから。 つまり、どんな術を使おうと、それに直ぐに対応できる。 いかに素早い術であろうと、子細ない。 「 圧縮言語詠唱・・・“我、圧する”。第五呪術、兇搾陣界きょうさくじんかい 」 ヴィードルッシェが錬精術を発動すると同時に、光の糸がまるで霞むように消えた。 霧のように、掻き切れて消える。 そして、シルヴァリーが両手に凝縮していた内気も消えうせる。 彼が展開した内気は、明鉄糸だけではなく、最適化として展開した内気まで消えてしまった。 いや、消されてしまった。 「な!?僕の明鉄糸が・・・・な、何故だ!」 「展開された最適化とその錬精術の内気を強制除去する、呪術系錬精術でも高位に位置する術。それがこの“兇搾陣界”」 「貴様・・・・そんな子供騙しの錬精術で、この断罪の糸が敗れるわけないだろう」 そして、シルヴァリーは再び明鉄糸を発動させようと、両の手に力を篭めた。 だが。 「な、内気が・・・・術を発動しても煙のように消えていく・・・!?」 「だから貴方は三流なのよ。呪術系錬精術は、術師の実力が最も顕著に表れる難術。それを私ほどの両極が発動すれば・・・分かるでしょう?」 両の手を見つめながら困惑するシルヴァリーに、ヴィードルッシェはゆっくりと近づいていった。 そして、両者の間があと数メートルという距離まで間合いを詰める。 本来の彼女なら、たったこの程度の距離にいる敵など、なんの造作もなく捻り潰すことが出来る。 しかし。 「学院に恥辱の面を被せたこと・・・・存分に後悔させてあげる。死と生の狭間でね」 「・・・だから、舐めるなと言って―――――ッ!?」 シルヴァリーは威勢良く頭を上げたが、それだけだった。 それ以上、彼の動く気配は無い。 身体が、動かなかった。 首から下が、全く言う事を聞かない。まるで石膏で固められてしまったかのように。指先さえ一ミリも動かせない。 いや、動かないだけではない。感覚さえ朧になりつつある。 身体の支配権を、完全に奪われてしまった・・・。 「な・・・!いつの間に!?」 「思想詠唱・・・。卓越した錬精術師のみが、果て無き練磨の果てに会得できるとされる高度な詠唱方法」 「・・・つまり、なんの動作も無く錬精術を発動したというのか・・・!」 「ええ。先の兇搾陣界はほとんどフェイク。本命はこの・・・第十七呪術、ギニョール・マスカレード人形舞踏会」 「・・・二桁代の錬精術を、思想詠唱で易々と発動するとはな・・・驚きだよ。で、どうする気だい、このまま嬲り殺しにするのかい?」 「いいえ、貴方にはもっと素敵な死をあげる・・・」 シルヴァリーを、何か得体の知れない嫌悪感が襲った。 何だか分からない、だが絶対的である恐怖。 分からない。 分からない、が、怖ろしい。逃げ出したい。体が動かない。 「うがあ・・・・!はぁっ・・・」 次いで、強烈な内気を感じた。 先程の最適化とはワケが違う、桁違いの内気を感じる。 「私の本気の最適化・・・貴方に耐えられるかしら」 耳もとで、嘲笑するように囁かれた。 だが、今は食って掛かる事も出来ない。空気に充満した内気に、気が遠くなる。 圧倒的な重圧感。 動かない身体が、ぎしぎしと悲鳴を上げる。 これが、これが最適化だというのか・・・これは最早、重力の渦。 あまりに蠢き渦巻く内気の多さに、空気が奔流し、中にいる者を押し潰す。 とても立っていられない。 まさか、自分とKOTRTとの間にこれほどの差があったとは・・・・。 胸中で毒づく。 「■■■■■■■■■―――――・・・」 「づっ!?」 蠢く大気の奔流の中を、もろともせずに耳に届く『音』。 それは、シルヴァリーの鼓膜を劈く。 高周波でも、低周波でも・・・・およそ、音とは聞こえない『音』。 この世のモノとは思えない、『音』が鼓膜を突く。 これは一体。 (まさか・・・話には聞いたことがあったが、これが真門とベルゼルドのみが持ちえる最強の言語詠唱・・・・“禁語”!?) 禁語。 それは世界創世の際に使われたとされる、最も旧きコトバ。 そして、最も強きコトバ。 通常の言語詠唱は、あくまで「世界の理」に法った上での事しか出来ない。いや、それが錬精術の限界なのだ。 だが、禁語は違う。 「世界の理」、そのものを変えてしまう。 つまり、世界に定まっている様々な物理法則。それを根底から書き換えてしまう。 世界を、意のままに操れる。 思うようにならない事など無い。全てが己の思うがまま。死者の復活、時間の逆行、全てが指先一つ。 そんなものを、今自分は目の当たりにしているのか・・・・。 「待たせたわね。さあ、これが貴方の“死”よ・・・」 「・・・・・・・・・」 言葉が、出なかった。 ただ真っ直ぐに見つめるしかなかった。呆然と。目を逸らせなかった。 確かに、そこに明確な死があった、と思う。 シルヴァリーの目と鼻の先に、黒い球体が浮かんでいた。 光を一切返さない。闇が凝縮したような球だ。 それが、シルヴァリーの目の前にある。浮いている。 「これが“死”よ。世界に渦巻く全ての法則をプログラムに置き換えるなら、そう・・・これは“死”のプログラム。世界に組み込まれている“死”」 「・・・・・・」 「もちろん、楽に終われるような代物では、到底なくってよ?」 シルヴァリーの目の前で滞空している“死”は、膨張した。 それは、丁度彼を丸呑み出来る大きさだ。 だが、もうシルヴァリーは何の反応も返さなかった。返せなかった。 自分で、ああ、もう心が壊れたのだと納得した。 こんな現実は怖すぎる。酷すぎる。痛すぎる。惨すぎる。 だから、きっともう、そんな事を感じなくて良い様に、心が蓋を閉ざしたのか。 自分は、たったそれだけで壊れてしまうほど脆弱だったのか。 生き物は、これほどに脆いのか。 つぷん、と呑まれた。 あっという間だった。何の前触れも無く、黒い球が前に乗り出し、その先にいたシルヴァリーを呑んだ。 球面は水面のように揺れながら、シルヴァリーをその中へと取り込んだ。 「ひああああああああああああああああああああああああ!助けて出してくれお願いだ此処は嫌だ!熱くて焼ける冷たくて凍るよ全身が刺されるよ  満遍なく潰されるよ痛い痛い痛い痛いぐちゃぐちゃに擂られる切り裂かれる内臓が取り出されるよ返してよそれは僕のだよ無い筈の内臓が痛いよ  潰れた心臓が悲鳴をあげるよ頭も痛いよ頭蓋が割れてるから脳が痛いよ目が痛いよ穴が開いているよ誰かが見ている僕を見ているずっと見ている  ・・・・・・・・ああ、苦し――――」 最後の言葉は、肉と骨が潰れる音に掻き消された。 心が壊れていようと関係ない。 これは、世界に渦巻く“死”。 心が壊れたぐらいでは逃れられない。放れない。 絶対的な“死”。それは死んだはずの心を呼び覚まし、痛覚を叩き起こし、全身を目覚めさせる。 逃れる方法はただの一つ。 それは死ぬこと・・・・。 シルヴァリーを殺し終えた黒い球は、元の大きさへと戻る。 その際に、中で死んでいったであろうシルヴァリーの血が流れ出てくる。 まるで、絹の布でこしている・・・・・ようだ。 おちた血は、コンクリートに染みを作った。溝を伝い、ちょろちょろと排水溝に流れていく。 「だから、アンタは三流なのよ・・・・・」 嗤うでもなく。 蔑むでもなく。 憤るでもなく。 哀れむでもなく。 ただ、無感情にヴィードルッシェは吐き捨てた。
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